長 水 山   (584.4m)       山崎町                25000図=「山崎」
初秋の城跡、長水山

長水山
  大陸の高気圧が張り出し、強風の夜が明けると、すっかり秋の空気に変わっていた。県道を歩き、登山口が近づいてくると、その秋の空気に乗って「クシコス・ポスト」の軽快な曲とアナウンス係の女の子のかわいい声が聞こえてきた。明日が運動会なのか、伊水小学校では最後の練習と準備をしているようであった。爽やかに晴れ渡った今日、この小学校横の登山口から長水山の頂をめざした。

巌岩神社
 山崎町の中心部から見た長水山は、長く平坦な南東尾根が左に高まり、その上にゴツゴツした頂稜部をのせる印象的な姿をしている。この山の山頂を含む北側は白亜紀の生野層群の凝灰岩に覆われているが、南側は超丹波帯に属する古生代ペルム紀の頁岩を主とする古い岩石からできている。
 長水山の南麓にある「巌岩神社」は、切り立った岩塔の下に小さな社殿が建っていた。この岩塔は、神々の霊が宿ると考えられていた磐座(いわくら)で、 巌岩神社の御神体となっている。岩石は明るい褐色のチャートで、超丹波帯の頁岩中にブロック状に取り込まれたもののようである。人々がこの岩塔を磐座として祀ったのが、今からおよそ2200年前頃だと考えられている。そして、この岩塔の岩石としての起源は、古生代ペルム紀よりもさらに古い時代の海洋底なのである。

 登山道は沢に沿って延びている。アスファルト道から、すぐにオオバコやヤマネコノメソウなどの背の低い草が生えた地道に変わった。ツユクサやクルマバナの花が咲いている。ヘビイチゴの赤い実がなっている。歩いていくと草の間から、小さなトノサマガエルやカナヘビが足音に驚いて飛び出してくる。クリやアケビの実も落ちている。アケビの実を採ろうとして木を揺さぶってみたが、落ちて来なかった。幼い頃口に含んだアケビのあの甘い実の味と種の感触の記憶だけがよみがえった。
 沢を離れ、山の斜面をつづらに登っていくと朽ちて壊れかけたお堂があった。お堂の石段で小休憩。登山靴と靴下を脱ぎ、どこかにヒルがまだ吸い付いていないか確かめた。このお堂には、小さな弘法大師像と共に不思議な石が祀られていた。高さが15cm程度の縞状の石である。縞状鉄鉱のようなこの石にはどのような由来があるのだろう。

長水城址
 山頂には、整然と二段に積み上げられた石垣が残っている。建武3年(1336)、赤松則祐によって築かれた長水城の城跡である。城は城主が宇野祐清のときに羽柴秀吉によって滅ぼされたが、その場所に今は信徳寺が建っている。この寺は、戦いで逝った武士を弔うために建てられたという。寺の真横に小さな高みがあって、そこには不動明王像とその左右に五輪塔と宇野家の英霊塔が建っている。そのすぐ背後に、長水山の三等三角点があった。
 信徳寺の建つ山頂の少し南側に、二の丸跡と思われる開けた平坦地がある。ここに置かれているさびかけたベンチに腰を下ろした。ときどき強い風が吹く。一羽のキアゲハがその風に吹き飛ばされないように、草にしがみついている。もうヤマハギのピンクの花が咲き始めている。空を見上げると大きな積雲のかたまりが北から南へかなり速く動いている。どこからかモンキアゲハが飛んできて、かすめていった。ここからは、全方位の眺望は叶わないが、澄んだ秋の空気は遠くまでを見せてくれた。東に、暁晴山から砥の峰、雪彦山、七種の山々、明神山、西には日名倉山。そして南には、揖保川のデルタの先に、男鹿島が帽子(ハット)のように瀬戸内海に浮かんでいる。そしてその右には、南播磨の重なる山並みの背後に四国の白い影がはっきりと姿を見せていた。
山行日:2001年9月22日

山 歩 き の 記 録
行き:生谷温泉「伊沢の里」〜巌岩神社〜宇野登山口〜うぐいすの滝〜お堂〜南東尾根分岐〜信徳寺〜長水山山頂(584.4m)

帰り:長水山山頂〜二の丸跡〜(南東尾根)〜431m〜408m〜あずま屋〜412.7m三角点の南斜面〜224.2m三角点手前分岐(林道まで320m)〜林道〜生谷温泉伊沢の里
クルマバナの花
コシアブラの木
 長水山にはいくつかの登山口があるが、宇野の伊水小学校横の登山口から上り、山頂からは南東尾根を歩いて生谷温泉「伊沢の里」へ降りるコースをとった。
 生谷温泉「伊沢の里」の駐車場に車を止めて、宇野の登山口をめざして県道を歩く。長いアプローチであるが、「岩渕神社」の樹齢300年のムクノキや、「巌岩神社」のチャートの磐座などを見ることができた。宇野登山口には、「長水城址」の大きな石碑が立っている。伊水小学校の横を通って左に折れると、「是ヨリ十六丁」と刻まれた丁石が立っている。ここから山頂まで、ときどきこの丁石が顔を出す。道は沢沿いに上っている。やがて、「うぐいすの滝」に出る。表面が赤茶けた凝灰岩の上をチョロチョロと水の流れ落ちる小さな滝である。この滝の横には、「旧蹟二ノ門」の石碑が立っていた。
 やがて道は沢を離れて、山の斜面をつづらに登っていく。朽ちて壊れかけた小さなお堂が立っていた。お堂からさらにつづらに上ると、南東尾根の道と合流する。合流地点から北に進み、信徳寺の母屋に突き当たると、すぐ上に城跡の石垣が見える。

 下山の南東尾根は、かつての細い尾根道のすぐ横に広めの遊歩道がつけられていた。たしかに遊歩道の方が歩きやすいが、尾根の木々の間を縫うように続く消えかけた小径に私は愛着を感じた。コナラ、アベマキ、リョウブ、コシアブラ、ソヨゴ、イヌシデ、アカマツ、アラカシ、アセビ、ネジキ、ヤブツバキ、ヒサカキ、それから……今日もまた、「樹木図鑑」を忘れてきてしまった。地形図431m点、408m点と通過していくと、その先に、下町の「林間広場」への分岐が2箇所ある。林間広場へのコースはとらずに、そのまま南東尾根を100mほど進むと六角屋根の新しい「あずま屋」が立っていた。
 412.7m三角点のピークは右に巻く道がある。このあたりは、人もあまり歩かないようで、道に大きな草がかなり入り込んでいた。ピークを巻いてからの尾根道は、細い小径。クモの巣が顔にからみつくが、やっぱりこんな径がいい。224.2m三角点付近にも「あずま屋」が建っているが、その手前の分岐を西へ降りた。やがて道は林道に合流し、新池の横を通って、生谷温泉に帰り着いた。
   ■山頂の岩石■ 白亜紀  生野層群中部累層 流紋岩質溶結凝灰岩

 山頂付近の地面に、わずかに岩石が露出している。青灰色をした溶結凝灰岩である。白い斑点は、変質した長石。小さな黒色の鉱物を含んでいる。1cm程度の不規則な形をした黒色の泥質岩の岩片が含まれている。ここでは、石英の結晶片は小さく少ない。
 この溶結凝灰岩には、かなりの岩相変化が見られる。山頂のすぐ下の信徳寺の母屋の前の露頭では、石英の結晶片がかなり含まれている。また、沢を離れ斜面に上り始めた地点の溶結凝灰岩には、黒色で緻密な基質に多くの石英と岩片を含まれている。
 南東尾根の途中から、岩石は、超丹波帯に属するとされている灰色の頁岩に変わる。これにときどき細粒の砂岩がはさまれている。また、412.7m三角点の南西斜面には、石英斑岩が露出している。白く変質した基質の中に、最大で5mm、粒状の石英の結晶が多く含まれている。この石英斑岩は頁岩中に岩脈として貫入したものである。

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