立岩嶽(300m)  神河町   25000図=「寺前」


立岩嶽から閻魔(えんま)坊跡を経て大池へ


立岩嶽

 立岩神社は、うっそうとしたスギ林の中に佇んでいた。
 差し込む朝陽も、木々の幹をまだらに照らすが、地面まではなかなか届かない。木の上から、コゲラやシジュウカラの声が聞こえてきた。
 大きなケヤキが、枝を空に伸ばしている。
 県下最大というフジキは幹を直立させ、見上げてもどこまで高さがあるのかわからない。木肌には、マメヅタがびっしりとついていた。
 社殿は、川向うの岩壁、立岩嶽にまっすぐ向かって建っていた。もとは、立岩嶽の上にあった祠をここに移したのがこの神社の始まりだと伝えられている。

 宮野橋を渡り、岩壁の右端あたりに取りついた。岩壁の下には崩落した岩が重なり、川との間にせまい陸地をつくっていた。
 その上を歩いて、岩壁の下を左側へ回り込んだ。
 岩には、カタヒバやベニシダ、マメヅタがついている。
 岩はほとんど垂直に屹立し、その上は空を直線的に限っていた。ツバキが一輪、赤い花を咲かせていた。
 さらに左へ進むと、川との間の陸地がなくなり、岩壁が直接川に没していた。

立岩嶽の基部  立岩嶽を見上げる

 元の地点に戻って、岩壁の右手の斜面を登ることにした。
 急な斜面を、木々の根元や地表に表れた根をつかみながら体を引き上げていく。岩壁から離れると、岩の上に出るのが難しくなりそうなので、岩の端に近いところを選んで登った。

 40mほど登ったところで、岩の上の突き出たところに出た。
 小田原川が真下を流れている。その向こうに、宮野の集落が見えた。

立岩嶽の上から見下ろす小田原川

 シダの仲間のヒメハイホラゴケ、コケの仲間のコムチゴケやホソバオキナゴケ・・・。岩の上は、何種類ものコケやシダにおおわれていた。
 その下は、降り積もった落ち葉が長い年月をかけてつくった土壌。木々が、その土壌に根を下ろしている。
 フワフワした弾力のある地面を踏んで、そこから上へ登った。

コケとシダにおおわれた立岩嶽頂部  ヒメハイホラゴケ

 さらに30mほど登ると、また突き出たところに出た。立岩嶽は岩塔ではなく、山の端の切り立った岩壁なので、どこが頂点なのか決めるが難しい。
 小田原川が、先ほどよりさらに下に見えた。右岸には、立岩神社の森がこんもりと盛り上がっていた。
 モミやツガの下に生えるアセビを縫って登っていくと、標高300mの小さなコブに達した。
 ふもとから立岩嶽を見上げると、おそらくここが一番上に見える地点。
 岩の間にヒノキの落ち葉が積もり、その上にアセビが繁茂していた。コブの北東側は厳しく切れ落ちていた。

標高300mのコブ

 少し下ってから、尾根の踏み跡を登った。ところどころに大きな岩が飛び出していた。
 傾斜はいったん緩くなった。アカマツやモミなどの針葉樹に、コナラやアラカシが混じった林。ヤマガラやシジュウカラの声がする。
 傾斜が急になると、尾根があいまいになって踏み跡が消えた。木々の間にすき間があって、登るのには困らない。木々の細い幹をつかんで登っていった。
 再び現れた踏み跡をひと登りすると、395.6m三角点に達した。

 三角点は、アカマツの枝葉の下に4つの保護石に囲まれて埋まっていた。
 このピークは、南側が小さく切り開かれていた。南に、市川町との境界を限る山々の稜線が見えた。
 地面に、二匹のチョウがもつれあって飛ぶ影が映った。見上げたときには、もうそこにはいなかった。

395.6m三角点

 尾根をそのまま東へ進む。コナラ林が続いた。落ち葉の上に、木々が影を落としている。踏み跡は、はっきりと現れたり、ほとんど消えたりした。
 東西に長い450mのピークには、壊れたアンテナが横たわっていた。そのアンテナに、オレンジ色の地に黒い縁と黒い斑点、ヒオドシチョウが止まった。

尾根の切り開き

 ほとんど平らになった尾根をさらに進んだ。尾根の両側は深く切れ落ちていて、どこを歩いているのか分かりやすい。
 傾斜が急になったところで、防獣ネットが現れた。尾根の左はヒノキ林、右は雑木林。尾根に沿って続く防獣ネットの右側を進むことにした。
 倒木が多くなって歩きづらくなった。胸突きの坂を、ずっと上の木の間に見える空の青をめざして登った。
 坂を登りきったところで、方向を北に変える。平らになった尾根を進むと500mの標高点に達した。西に、上岩奥山や高場山が見えた。
 
 500m標高点から尾根を北へ下った。440mコルは深くえぐれていた。
 コルから、南東へ下った。道はなく、ヤブをこぐ。標高420m地点、ヤブを抜けたところが小さな平地になっていて、そこに一本の標柱が立っていた。
 ここは、「閻魔(えんま)坊」と呼ばれているところ。
 標柱の四方には、
 「寺前西山寺院跡」
 「建立者 北条時頼 山王本地佛 最明寺とする」
 「寺院建立年 鎌倉時代 建長七年(一二五五年)」
 「寺院焼失年 室町時代 元亀二年(一五七一年)」と標記されている。

 近くには、高さが40cmぐらいの供養塔が残されていた。建物の礎石と思われる石も地面に表れている。
 この地には、北条時頼の廻国伝承が残されている。
 時頼は、ここに七堂伽藍を建立し行儀菩薩御作の薬師如来を安置したのが最明寺の開基と伝えられている。
 これとは別に、大化年間に法道仙人がここに精舎「閻魔坊」を開いたという伝えもある。
 法道仙人、行儀菩薩、北条時頼・・・、この跡地には、いろいろな伝承が詰め込まれている。

閻魔坊跡  閻魔坊跡に残る供養塔

 標柱の建つ平地から、2つの小さな谷の間の斜面を南東に下った。地面には落ち葉が降り積もっていた。ときどきホオノキの葉が、一面に落ちていた。
 木々を縫って下ったが、やがて道らしきものが現れた。ピンクのビニールテープも現れ、それに導かれて谷へと下った。
 谷には、小さな支流のそのまた支流の、最初の一滴が岩の間からしみ出ていた。

最初の一滴

 谷を下った。いくつかの支流が合流し、水かさが少しずつふえていった。
 大池(おいけ)の上で、広い道に出た。
 そこから、「大瀬の滝」に向かった。ここまで下ってきた谷の1つ東の谷。入口には、小さな祠建っていた。

 広い道を登り、その道から分かれた細い道を下ると、大瀬の滝が懸かっていた。
 落差8mほど。水は硬いホルンフェルスの岩盤を流れ落ちていた。
 滝を囲む左右の岩には、いくつか穴がくりぬかれていて、そこに石仏が祀られていた。滝は、最明寺参道の霊地として、人々の信仰を集めてきた。

大瀬の滝

 大瀬の滝から下って、「大池(おいけ)」の畔を歩く。
 大池の堰堤に立つと、ここまで歩いてきた山の稜線が見えた。水鳥もいない池の水面には、小さな波が静かに立ち、山の影と空の青を映していた。

大池(おいけ)

山行日:2021年2月21日

立岩神社~立岩嶽頂部(300m)~395.6m三角点~500m標高点~440mコル~閻魔坊跡~大瀬の滝~大池~寺前集落
 立岩神社には、広い駐車場がある。そこから立岩嶽にとりつくのは、川や防獣ネットがあって少し難しい。立岩嶽の右の斜面を登ったが、傾斜が急なために注意が必要である。
 歩いた尾根には、踏み跡がついているところが多かった。踏み跡が消えているところも、深いヤブはなく歩きやすいところが多かった。
 大池から下った寺前集落から、立岩神社まで山際の道を歩いて戻った。

山頂の岩石 白亜紀後期 大河内層  溶結火山礫凝灰岩
 立岩嶽は、淡褐色の硬い岩石でできている。
 軽石や、流紋岩、泥岩、砂岩などの岩片をふくむ流紋岩質の溶結火山礫凝灰岩である。長石、石英、黒雲母の結晶片をふくんでいる。溶結構造は、明瞭ではない。

 大瀬の滝周辺は、砂岩や泥岩などの堆積岩が熱変成を受けたホルンフェルスが分布している。硬く、不規則に割れる岩石で、泥質部と砂質部が細かい縞模様(葉理)をつくっているところも見られた。

 大池から寺前集落に下る道沿いには、斑状花崗岩が見られた。カリ長石の色による、ピンク色の斑状花崗岩である。最大5mm程度の斜長石、カリ長石、石英や、それより小さい普通角閃石、黒雲母の斑状結晶と、主に石英とカリ長石による基質から成っている。
 この斑状花崗岩の貫入が、大瀬の滝付近に見られる堆積岩に熱変成作用を与えたと考えられる。
 

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