田野城山(221m)      姫路市      25000図=「姫路北」


ルーペとカメラとハンマーをもって城跡まで

田野城山(左のピーク)

 自宅から一番近い山、田野城山へ夫婦で向かった。
 持ち物はポケットにルーペとカメラ、腰にハンマーだけ。散歩気分だが、足にはちゃんと登山靴を履いた。

 香寺台の団地の奥に、練金(ねりがね)下池がある。池のほとりに、「田野城跡」の案内板があってここから一本の道が池の横を通って山に入っている。
 誰が放したのか下池に泳ぐ鯉を見ながら、次の上池の横を進んでいくと、倒木に道がふさがれた。数本の倒木の下をくぐり抜けて先へ進もうとしたが、その先にはさらに大量の倒木が。
 あきらめて帰りかけたとき、妻が上を見上げて、「あの平らなところ、道と違う?」。
 「そうやった!」
 20年前に登ったときのことを思い出した。 登山口は、案内板の下(東)20mぐらいのところにあった。
 登山口をまちがえると大変なことになるので、みなさんも気をつけてね。

 登山口はここじゃないから気をつけて! 登山口

 登山口から、よく整備された道が雑木林の中に続いていた。モチツツジやヤマツツジが咲いている。アズキナシが、おしべの目立つ花をつけていた。

アズキナシの花

 左下に、練金下池の濁った緑の水面が見える。上池を通り越したあたりから、道はほとんど平らになった。若葉をつけた雑木林の木漏れ日が瑞々しい。アラカシの若葉を触ってみると、まだ柔らかだった。
 シジュウカラが姿を見せ、木々の間からクロツグミの声が聞こえてきた。落ち葉が乾いた音を立てたと思ったら、カナヘビが出てきた。

城跡への道

 左の谷の上部を巻くように渡ると、ヒノキ林に入った。ヒノキの丸い堅果がたくさん落ちていて、いくつかをお土産にひろった。林床のベニシダは、紅色の若葉を伸ばしていた。
 ヒノキが切れたところが、日当たりの良い草地になっていた。そこにはタチイヌノフグリ、カタバミ、ハコベ、タネツケバナなどが咲いていた。トウバナとハナイバナも花をつけている。木陰には、ヒメウズ。どれも、見落としてしまいそうなほど小さな花である。
 
トウバナ  ハナイバナ

 道は再び上り始めた。ヒノキ林が雑木林に変わり、曲輪らしい地形の残る小さな尾根を越えた。
 一登りすると西に開けたところがあって、谷を一つ隔てて間近に山頂が見えた。山肌は、樹木の種類ごとにいろいろな濃さの緑に彩られていた。
 そこから、山の斜面をトラバースするように道がついていた。点々と落ちている紫は、フジの花。タツナミソウが咲いていた。
タツナミソウ

 方向を変えて斜面をつづらに上ると、城山とその東の230mピークとの間のコルに達した。
 ここからの尾根道がかなりの急傾斜。2本の新しいクサリを伝い、さらにロープを伝って登った小さな平坦面で一休み。 樹上では、メジロが大きな声でさえずっていた。

本丸跡手前の平坦面

 急な坂が続いた。短いクサリが連続している。クサリ場を越え、さらに登っていくと見晴らしの良いピークに達した。
 ここは、田野城の本丸跡の東の端。丸く切り開かれていて、地元の人が登ってくるのは普通ここまでである。
 東に開け、田野や中仁野の集落や田んぼが見渡せる。平野の中に、甲山が低くこんもりと盛り上がっている。その手前を、市川がゆるくうねるように流れていた。

田野城山(本丸跡)

 田野城は、十四世紀初めの頃、赤松円心の旗下であった堀氏が築いた。当時は今部城と呼ばれ、天正五年(1577)秀吉の中国征伐によって落城した(登山口近くの説明板より)。
 『播磨鑑(1762)』には、「田野城山 東西廿間 南北五間  西ノ丸 東西廿三間 南北六間」とある。この本丸と、もう一つ西ノ丸があったわけである。
 西ノ丸跡へは道がなく、ササを分けて尾根を進んだ。しばらくは平坦な本丸跡が続いた。
 モチツツジの花に埋まったところから下って、小さなコルを越して一登りすると西の丸跡に達した。こちらの方が、本丸跡より少し高い。
 地形図の221m地点、田野城山の山頂である。ソヨゴの木の幹に「田野城山」の山名プレートが一つ掛けられていた。
 アラカシやアベマキやコナラに囲まれた静かな山頂。木々の間から、北に遠く笠形山が見えた。

田野城山 山頂(西ノ丸跡) 山頂より笠形山を望む 

 1時間半ぐらいで行って帰った二人の小さな山歩き。
 家に帰って、お好み焼きを食べ、ビールを飲んで、それからうとうと夢の中へ。
山行日:2020年4月29日

練金(ねりがね)下池手前の登山口〜田野城本丸跡〜田野城西ノ丸跡(田野城山山頂 221m)
 香寺台の団地から須加院に抜ける峠道にさしかかったところに、練金(ねりがね)下池がある。ここに「田野城跡」の案内板が立っているが、その手前20mぐらいのところが登山口。
 そこから本丸跡まで、明瞭な道がつけられている。本丸跡の手前は急峻な尾根道で、何本もの鎖が固定されている。
 本丸跡から山頂(西ノ丸跡)までは道がなく、ササや灌木を分けて進む。尾根をいったん下り、コルから登り返すと山頂に達する。

山頂の岩石 白亜紀後期 広峰層上部  角礫岩
角礫岩の露頭
 
 田野城山には、白亜紀後期の広峰層が分布している。
 登山道に入ったところでは細粒砂岩が見られ、それがやがて頁岩に変わる。標高100mあたりからは、角礫岩となり、これが山頂付近まで続く。
 角礫岩の礫の種類は、砂岩に限られている。礫の砂岩は、暗灰色〜淡灰色で、珪化していることが多く硬い。礫の大きさは数cmのものが多いが、一部で30cmに及ぶものも見られた(写真左)。

 今から8000万年前の頃、恐竜全盛期の白亜紀という時代、このあたりで大規模な火山活動があった。
 地下から大量のマグマが噴出したので地面が陥没し、カルデラという地形がつくられた。
 火山活動はその後も続き、カルデラの中は火砕流による堆積物で埋められたが(広峰層下部)、火山活動が収まるとその上に水がたまって湖をつくった。
 ここで見られる角礫岩は、その湖の底に堆積してできた地層(広峰層上部)の一部である。

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