谷城山(206m)・横倉山(282.7m)・川辺城山(323.6m) 市川町
谷城山・横倉山 25000図=「粟賀町」「寺前」 川辺城山 25000図=「北条」
市川の両岸に立つ二つの城山
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| 谷城山 |
川辺城山 |
播磨には、中世の山城跡がいくつもある。今回は、その中で、市川町の2つの城跡を訪れた。
@ 谷城山
谷城跡は、市川町谷の大歳神社の北、標高206mの山頂にある。最近ここは、落葉樹の木立と歴史に親しむ「谷しろやまの杜」として整備され、ハイキングコースがつくられた。
大歳神社の石段を上り、社殿左のユズリハの木の下をくぐると、谷城山への坂道が始まった。あたりには、コジイの老木が残され、木の上でヒヨドリがズイ−とにごった声で鳴いた。
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| 大歳神社 |
少し上ると、村相撲の土俵があって、そこからの石段の上に稲荷大明神と奥の院が並んで建っていた。奥の院からは、細い山道となった。林は、照葉樹林からコナラやアベマキの夏緑樹林に変って明るくなった。
山道を上ると、道の両側に数段の曲輪跡があった。そこを抜けると、もう谷城山の山頂だった。
山頂は本丸跡で、下草が刈り払われて開けていた。ヒノキが影を落とす平坦面に、説明板やベンチが設置されていた。城主は、赤松幕下の永良近江雅親。この城は、別名「永良城」とも呼ばれていた。
山頂から、南に市川町の町並みが見渡せた。家々の間に広がる田はパッチワークのような模様をつくり、いくつかは黄金色に染まっていた。
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| 谷城山山頂(本丸跡) |
谷城山山頂から市川町の町並みを望む |
ハイキングコースは、ここから北へ伸びている。城跡の地形はよく保存されていて、山頂(主郭)下の曲輪が二郭、その下が三郭である。二郭と三郭の間は、高さ5,6mの急崖になっていた。
三郭の下には掘切があって、そこに丸太の橋が架けられていた。掘切にはクサギが花を咲かせ、橋を渡ると芳香がかすかにした。尾根の東側は切り立っていて、上から数年前の山崩れ跡が見えた。西斜面を下って井戸跡を見たあと、尾根をさらに進んだ。
ずっと、コナラやアベマキの林が続いた。ルリタテハが地面に下りて羽をゆっくりと動かし、空色の帯と白紋を見せた。
180mピークには、「ストレッチ・ジャンパー」という遊具が丸太でつくられていた。「チャレンジ3周」というのをやってみたが、きつい!息が上がって、その前のベンチに座り込んだ。
ここを下りると、「四季の森交差点」。ここには、腕立て台があった。「腕立て5回、うしろ向き腕立て5回」。これは楽勝!枝から落ちたソヨゴの実を踏んで丸太階段を上ると、展望やぐらが組まれていた。やぐらに駆け上る。すっかり、この新しいコースのペースにはまっている……。
平易に書かれた城跡や里山の説明板、多くの道標、丸太階段や遊具……。「谷しろやまの杜」は、ファミリーハイキングに適した山になった。
やぐらの上は、北の眺望が開けていた。市川がゆるく曲がりながら南へ流れ、そこに架かる屋形橋のアーチが見えた。市川の右岸で峰を尖らせているのが鶴居城山。永良近江雅親は、鶴居城山の城主も兼ねていたといわれている。空には、いつの間にか夏雲が湧いていた。
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| 「谷しろやまの杜」ハイキングコース |
展望やぐらから望む鶴居城山 |
展望やぐらのピークを下ると、道は尾根をはずれて260mピークの西を巻いていた。コナラの林は里山としてきれいに整備され、刈りそろえられた木の幹や枝が立ち木の根元に積み上げられていた。
横倉山観音堂の分岐を過ぎて、そのまま道を北へ進むと、地蔵峠に達した。石の祠の中のお地蔵さんは、この山の石でつくられていた。風化して目鼻がほとんど消えているが、丸くなった輪郭から温和な表情が感じられた。
ハイキングコースはここで終わっているが、先ほどから木の間越しに見えていた横倉山に上ることにした。コシダを分けてひと上りすると、横倉山の山頂に達した。ネズミサシの木の下の三角点は、地中にすっぽりと埋まって、頭だけを出していた。
山頂から、ハイキングコースに戻った。千手観音をしずめ、その縁起を今に残す横倉山観音堂は、山の中腹に静かに建っていた。ここから、石仏の並ぶ参詣道を下り、振子川沿いの道を歩いて大歳神社へ戻った。
A川辺城山
川辺城山は、谷城山の南東、市川を隔てたところにある。標高323.6mと低い山であるが、鳥が翼を広げたように南北にゆるく稜線を下ろした姿は里からよく目立つ。
南麓には永勝寺があり、ここから上った。尾根には、祠に納められた石仏が次々に現れ、それらを縫うように道が九十九折りについていた。
早朝の川辺城山
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西のスポーツセンターから上ってきた道と合流したところに、金毘羅さんの小さな社があった。社は背後の岩盤につながって建っている。この岩盤は、白・オレンジ・黒がまだら模様をつくる層状チャートだった。
谷城山が約7000万年前の火山活動でできた地層からできているのに対して、この川辺城山はおよそ2億年前に付加した地層からできている。大部分が黄土色に風化した頁岩だが、その中にチャートや砂岩がレンズ状あるいはブロック状に含まれていた。
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| 丹波帯の頁岩 |
丹波帯の層状チャート |
ここから、道があやしくなった。荒れて消えかかった切り開きを、身をかがめながら進んだ。ミツバツツジやソヨゴに混じるネズミサシの葉が痛かった。
アラカシやアベマキが大きくなったところでは林内が薄暗く、下層の低木も少なくなって歩きやすかった。ところどころに、地面から飛び出しているのはチャートの岩体だった。
緩急を繰り返す尾根の坂を、コシダを分け、クモの巣を払いながら進んだ。最後の急坂では、ときどき立ち止まって息を整えなければならなかった。ここにきて、ストレッチジャンパーのチャレンジ3周がきいてきたか……。
尾根を上りきると、東西に細長い平坦面に達した。川辺城跡である。城主は、大野弾正忠氏。やはり、赤松氏の幕下である。
平坦面を東に進むと、モチツツジ・アラカシ・タカノツメなどの雑木の下に、三角点が埋まっていた。
三角点から一段低いところにアンテナが立っていた。ここから南東に、日光寺山と深山が近く、その下に池が緑色の湖面をたたえていた。山頂から尾根を北へ進み、226mピークから北西へ折れて盛林寺へ下りた。
川辺城山から望む深山(左)と日光寺山(右)
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山行日:2008年9月6日