建 屋 山 (855.3m)      養父町                      25000図=「但馬竹田」「大屋市場」 

※山名について  養父町森の東方に750mを越す稜線がY字型に伸び、その上を小ピークが連なっている。この山塊を、養父町の伊藤三武郎氏は建屋連山と呼んでいる(1964.10.18 神戸新聞)。この稜線上の最高点、855.3mピーク(二等三角点 点名「建屋」)を、ここでは建屋山と呼ぶことにした。

石ケ堂巨石群から建屋山へ

能座より建屋連山 ホロロギ岩

 養父町能座の棚田に立つと、建屋川を隔てた北東方向にいくつかの小さなピークを山稜に連ねた建屋(たきのや)連山が見える。この中の最高点が、標高855.3mの建屋山(点名 建屋)である。最高点といっても、特に目立つ峰ではないが、その西山麓に花崗岩の巨石が散在するところがあって、これが私を惹き付けた。
 これらの巨石には、ホロロギ岩・テング岩・オオカミ岩などの名が古くから伝えられ、あたり一帯は石ケ堂と呼ばれているのである。

 昨日、電話で尋ねた管理人さんにマップと資料をもらって出発した。石ケ堂には、大テング岩からオオカミ岩まで巨石が立ち並ぶ北の尾根と、マツカサ岩・ホロロギ岩の立つ南の尾根が平行し、そしてその間の谷に洞穴遺跡がある。石ケ堂には、これらの巨石を巡る登山道が整備されている。
 古代住居、キャンプ広場を抜けると、堰堤脇に最初の巨石ビクニ岩が立ち、不思議な趣で迎えてくれた。小さな沢に沿って上っていく。左岸の急崖から、オビシメ岩が谷底を見下ろしている。スッパリと平面で切れ落ちたヒビキ岩の岩肌には、射しこんだ陽の光がイロハカエデの葉影を揺らしていた。
 風が少し枝を揺すると、クリの実がイガごと、あるいはイガから抜け出して、ボタボタと音を立てて落ちた。あたりはクリとカエデの林で、ホオノキ・ヤマザクラ・シロダモ・シキミなどが混じっている。
 さらに進むと、流れの横に幅20m・高さ20mの逆三角形の巨石が横たわり、その下が洞穴になっていた。石ケ堂遺跡である。昭和40年の発掘調査によって、この洞穴から奈良時代〜平安時代末期の土器が発見され、調査によってここが祭祀遺跡であることが分かった。
 洞穴の中に入ってみた。天井には一匹のコウモリが、足を動かしながらくるくると回転してぶら下がっていた。

古代村に復元された古代住居 石ケ堂洞穴遺跡

 洞穴遺跡から、南の急斜面にとりつく。連続するクサリ場をよじ登り、左右に立つ岩の間のわずかなすき間を通り抜けると、一気に展望が開け、正面に御祓山の雄姿が飛び込んだ。眼下に、古代村の登山口を見下ろすこの岩が、ノゾキ岩であった。
 次のマツカサ岩の上に乗ると、目の前にホロロギ岩が立っていた。塔のように屹立するこの岩は、風化によって表面が丸くなり、また節理による割れ目も発達し、粗粒花崗岩に特徴的な姿をしていた。
 

ノゾキ岩へ ノゾキ岩より望む御祓山

 ホロロギ岩を過ぎてしばらく行くと、道は尾根から離れて斜面を下り、洞穴遺跡のある沢の上流に出た。ここで登山道に別れ、この沢を東に上る。クリ・コナラなどの自然林の中には、低木や下草がなく、道が無くても歩きやすい。しかし、炭焼き窯跡で水の流れが途絶えると、急に傾斜が大きくなった。
 何度も立ち止まり、呼吸を整えた。小さなカール状の谷に陽が射しこむと、コナラの葉の緑が急に明るくなり美しかった。シカが、ピッと鋭い警戒音で鳴いた。
 最後は、木の幹につかまって自分の体を引き上げながら、ようやく最初のピーク( Ca.620m)に立った。

コナラの林を上り詰めて稜線をめざす

 Ca.620mピークからは、建屋山の西尾根を進んだ。尾根上に道はなく、かすかな踏み跡も途切れがちであった。684mピークを越えたあたりからは完全なヤブとなり、灌木が行く手と視界を妨げた。このような尾根は、上りより下りのほうが迷いやすい。下山時の不安が心に高まったが、意を決して前に進んだ。
 尾根はしだいに岩がちとなり、ミズナラが現れ始めた。北からの尾根と合流する手前から林床にササが広がり、合流してからはかすかな踏み跡が山頂まで続いていた。

 静かな山頂であった。枯れたアカマツに、三角測量の際の櫓が朽ちながらもそのまま残っている。南はミズナラ・クリ・ウリハダカエデ・イヌシデ・クロモジ・アセビなどの自然林。北は、スギ・ヒノキの植林であった。
 山頂からの展望は利かないが、山頂の手前から建屋川を隔てた奥山や能座の集落や棚田が見えた。秋の陽を浴びて佇む村の光景は、まるで時間が止まっているかのようであった。

 1,2度迷いながらも、元の石ケ堂登山道に戻ることができた。帰りは、大テング岩で北の尾根に出た。大テング岩の上にまたがった。北がスッパリと切れ落ち、すごい高度感である。ここからは、中テング岩、小テング岩、カガミ岩、ウス岩、オオカミ岩と、巨石が連続する。それらの石を縫うようにして下ると、岩とマツが調和した庭園のような光景が現れた。

大テング岩の上 立ち並ぶ巨石

 この石ケ堂は、地元養父町の伊藤三武郎氏が1964年10月18日の神戸新聞に「建屋のひもろぎ(神籬)群」として世に紹介した。そこで氏は、巨石群を「巨岩は自然石ではなく、相当に人工を加えて計画的に置かれた」と書いている。このことの真偽は分からないが、近くの森地区で旧石器時代の尖頭器が発見されたことや石ケ堂遺跡の存在などを考えると、石ケ堂は太古から神霊を祭る神聖な場であったに違いない……巨石を静かに巡ってみると、そう自然に感じたのだった。

山行日:2003年9月27日

山 歩 き の 記 録

行き:石ケ堂古代村駐車場〜ビクニ岩〜ヒビキ岩〜石ケ堂洞穴遺跡〜ノゾキ岩〜マツカサ岩〜ホロロギ岩〜(登山道に別れ)〜Ca.620mピーク〜684mピーク〜建屋山(855.3m)
帰り:建屋山〜684mピーク〜Ca.620mピーク〜(登山道へ)〜大テング岩〜中テング岩〜小テング岩〜カガミ岩〜ウス岩〜345.3mピーク〜オオカミ岩〜石ケ堂古代村

 建屋川に沿う県道(養父朝来線)を北上し、原の集落にさしかかったところで右に折れると300m程で「石ケ堂古代村」に着く。巨石の並び立つ建屋山西麓には、これらの巨石を巡る登山道が整備されている。

 石ケ堂中央の谷を東へ上り、ビクニ岩、ヒビキ岩を経て石ケ堂洞穴遺跡へ。ここから南へ斜面を上り、ノゾキ岩を通って南の尾根上のマツカサ岩・ホロロギ岩へ。ホロロギ岩からは、しばらく進んだところで尾根を離れて中央の谷へ下りた(洞穴遺跡の谷の上流)。
 ここで登山道と別れ、その谷をCa.620mピークまで上り詰める。そこからは、建屋山西尾根を進んで山頂に達した。

 山頂からは、もと来た道を洞穴遺跡上流の登山道へ戻る。ここから、北の尾根を大テング岩からオオカミ岩まで立ち並ぶ岩を縫って下り、はじめの駐車場に帰り着いた。

※地図は、「石ケ堂古代村ガイドマップ」です。マップ内をクリックすると大きくなります。

   ■山頂の岩石■ 三畳紀 夜久野層群(御祓山層群) 砂質ホルンフェルス  

 建屋山の山頂の西、標高750m〜820mあたりの尾根上に小規模な露頭が連続している。岩石は灰色で緻密な砂質ホルンフェルスである。珪質で非常に硬く、熱変成によって生じた小さな黒雲母が肉眼でも観察できる。一見チャートと思えるような岩石中にも、ルーペで観察するとわずかに黒雲母を含んでいることが分かる。この地層は、下部三畳系の夜久野層群に属していて、このあたりでは御祓山層群と呼ばれている。

 一方、建屋山西麓の石ケ堂の岩石は、粗粒の黒雲母花崗岩である。灰色透明の石英、ピンク色のカリ長石、白色の斜長石、黒色で劈開面の光る黒雲母から成っている。石ケ堂に散在する巨石は、丸みを帯びた外形をし、また大きな節理による割れ目が発達するなど、風化の進行しつつある花崗岩に特徴的な姿をしている。ここに露出する花崗岩は、和田山町を中心として分布する和田山花崗岩の西縁部にあたる。

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