床尾山塊のふもと、朝来市の竹ノ内地区。その集落のはずれ、糸井川に架かる奥村橋の手前に「竹ノ内隕石落下之地 隕石落下日本第1号発見」の看板が建っています。 隕石落下の何が第1号なのか?竹ノ内隕石(竹内隕石)について調べてみました。
看板から50mほど、田んぼの中の道を歩くと広場に石碑が建てられていました。石碑には隕石落下の由来が次のように記されています。 「竹ノ内隕石落下之地」 隕石の由来 明治十三年(一八八〇)二月十八日午前五時三〇分頃大きな火の玉が尾を引きながら南から北に向けて飛び来り一大音響とともに落下した この光芒は兵庫大阪京都の三府県でも観察された 落下地点の字名により竹ノ内隕石と命名され重さは七一八、七グラムあった 国立科学博物館村山定男氏の調査の結果本邦に於いて落下日時場所標本が確認され化学分析等の科学的研究が行われた最初の隕石である このことは日本の科学史上貴重な資料であるといえる ここに落下百年を記念し現地に碑を建立して後世に伝える 「隕石落下日本第1号」というのは、科学的研究が行われた日本で初めての隕石であることをさしていたのです。
『和田山町の歴史3(和田山町史編纂室 1987)』に、岩田豊氏が「竹ノ内隕石」の知見を書いています。それによると 落下当時、糸井村内では珍しいこととして評判になったが、いつしか忘れ去られていた。ところが、1980年、国立科学博物館理化学部長村山定男博士からの通報により、 @落下当時の詳細な状況記録が残っていること、 A隕石の成分分析が精密になされていること、 B隕石の現物が今も国立科学博物館と国土庁日本地質調査所に保管されていること で、この隕石が貴重な資料であることを教えられた。 隕石の落下場所は、養父郡糸井村竹ノ内字奥村(現在、朝来市和田山町竹ノ内字奥1020番地)で、岩田佐二郎氏宅の土蔵の壁に当たって地面に落下埋没した。 同じ文献に竹ノ内隕石のもつ意義として、下の3つをあげています。 (1)わが国に落下した隕石は多数存在するが、そのほとんどが落下地点、落下時期などが不明であるのに対し、竹ノ内隕石は目撃した同村の岩田林八氏の報告により、落下日時、落下地点、落下時の状況、隕石の現物が正確に判明しているわが国ではもっとも古い隕石である。 (2)わが国内に落下した隕石の中で、最初に化学分析などの科学的研究が行われた。 (3)わが国内に落下した隕石の中で、外国人が化学分析し、その結果を世界に公表した最初のものである。 そして、「天文学史上ならびに隕石の研究上でも、大きな貢献をしてきた隕石である。(同文献)」としています。 また、この隕石の化学分析の結果を「明治13年、2月10日付、農商務省農務局地質課発行の報告書」から引用しています。コルシェルト オスカー氏による化学分析です。 隕石の重量は718.7グラム、比重は3.494。 化学分析は、「ビリツ氏の方法」に準じたとあります。それがどのような方法かわかりませんが、岩石の湿式分析のひとつだと考えられます。 その結果を、Feに注目してみると、 金属としてのFe 17.99% 硫化鉄FeS 2.01% 珪酸塩鉱物中のFeO 12.28% これらの数値は、この隕石が今でいうコンドライトのHグループに属することを示しています。 また、この分析では、珪酸塩鉱物を塩酸に溶ける成分と溶けない成分に分けて分析し、かんらん石と輝石の化学成分を算出しています。 塩酸に溶ける成分(かんらん石) SiO2 37.96% MgO 35.71% CaO 1.6% FeO 24.63% 塩酸に溶けない成分(輝石) SiO2 56.07% Al2O3 4.56% FeO 9.27% CaO 5.15% MgO 23.48% K20 0.55% Na2O 0.92% この成分による輝石はブロンザイト(古銅輝石)になります。
日本に落ちた隕石でこれまでに確認されているものは、2018年3月12日現在で51個です(国立科学博物館)。 いちばん古いものは、861年(貞観3年)5月19日、福岡県直方市に落下した直方隕石とされています。直方隕石の落下には1749年7月13日とする説もありますが、861年なら落下の目撃記録のある世界最古の隕石となります。 竹ノ内隕石の落下は、1880年2月18日。これは、日本で15番目に古い隕石です。 兵庫県に落ちた隕石には、竹ノ内隕石の他に、篠山市岡野に落下した岡野隕石(1904.4.7)、神戸市北区に落下した神戸隕石(1999.9.26)があります。
竹ノ内隕石の実物はいくつかに切断され、地質調査所(現、地質調査総合センター)と国立科学博物館に保管されました。 現在、つくば市の産総研地質標本館で常設展示されているものが前者と思われます。 また、国立科学博物館に保管されたものは、そのレプリカが朝来市の「和田山郷土歴史館」に展示されています。 和田山郷土歴史館を訪ねてみました。 そのレプリカは、ガラス製の展示棚の中、アクリルケースの中に収められていました。長さ8cm、高さ5cm程度の大きさです。 隕石の表面は、なめらかな薄い表皮でおおわれています。これは、隕石が地球の大気を通り抜けるときに大気との激しい摩擦で高温になり溶けた跡で、溶融皮殻と呼ばれています。 また、切断面に銀白色の丸い粒が黒い基質の中に多数ふくまれています。この丸い粒はコンドルール(球粒)とい隕石特有のつくりです。このようにコンドルールをもつ隕石をコンドライト(球粒隕石)といいます。 ただ、このレプリカはコンドルールの光沢や輪郭が強調されすぎているように思います。 この隕石の化学分析を行ったのは、コルシェルト オスカー(Korshelt Oscar)。コルシェルトの写真と業績の簡単な紹介が展示されていました。 コルシェルトが日本にいたのは、明治8年〜17年(1875〜1884)。内務省地理局の地質課・地質調査所分析掛長で、明治13年より東京大学医学部で「製薬化学」を講義しています。いわゆる、「お傭い外国人」の一人でした。
隕石は小惑星のかけらなどが、燃え尽きないで地上に落下したものです。宇宙からやってくるものとして流れ星がありますが、隕石とはその起源が違っています。 流れ星は、彗星から撒き散らかされた塵が地球の重力に捕えられたもので、ほとんどが大気中で燃え尽きてしまいます。 これに対して隕石は、主に火星と木星の間の小惑星帯から地球へ飛来した岩石のかけらだと考えられています。隕石は原始太陽系星雲の中で物質が凝縮してできました。多くは、一度できた原始惑星が破壊した破片だと考えられています。 隕石は、「始原的な隕石」と「分化した隕石」の2つに分けられます。 「始原的な隕石」は、全体が融けた形跡のない、太陽系ができたころの物質をそのまま集めたもので、すべてが「コンドライト」です。 一方、「分化した隕石」は一度全体が融けて化学的な分化を受けた隕石です。この中には、岩石質の「エコンドライト」、金属の鉄とニッケルを主成分とする「鉄隕石」、金属と岩石質が半分ずつの「石鉄隕石」があります。 竹ノ内隕石は「コンドライト H5」に分類されています。 「コンドライト」は、コンドルールをもつ隕石であること。 「H」は、コンドライトの化学的な分類で、鉄の多いグループにあたります。コンドライトは、主に金属相(Ni-Fe)、トロイライト(FeS)、珪酸塩鉱物(かんらん石、斜方輝石)などから構成されていますが、Hグループの斜方輝石はブロンザイトである特徴があります。 「5」は、岩石学的な分類で1〜7の数字があります。この数字は、コンドライトが形成された後に受けた熱変成作用の違いを表していると考えられています。5は、コンドルールの輪郭が何とかわかるものです。 太陽系ができた頃を記録しているのが隕石です。隕石は、太陽系や地球がいつどのようにして生まれ、どのように進化したかを教えてくれる重要な物質です。また、地球内部がどうなっているかという推定にも隕石の研究が役立っています。 |