竹田城跡(353.4m)  朝来市   25000図=「但馬竹田」


天空の城、竹田城跡の雪化粧

竹田城跡(天守より南千畳方面を望む)

 晩秋のよく晴れた日の朝、竹田城跡は朝霧の上に浮かび上がる。その姿は天空の城と呼ばれ、但馬に幻想的な風景をつくり出している。

 JR竹田駅に車を置いて出発。観光案内所で聞いたように消火栓のところから線路の下をくぐると駅の反対側に出た。
 大きな石柱の立つ登山口から登り始めると、すぐ左側に石垣が現れた。石垣の上は広場になっていて、「屋敷跡」の説明板が立っていた。
 城主や家臣は、普段はふもとの屋敷で暮らし、政務や戦いのときにお城に登った。この駅裏登山道は、当時から城に登るときに使われていた道だと考えられている。

円山川河畔より
竹田城址(虎臥山)を見上げる

 登山道の両側に石垣が続いた。シカ柵を抜けると、山の斜面が急になった。道は、その斜面をつづらに上っていた。
 道の落ち葉の一枚一枚に雪が乗っていた。樹上の雪が融けて、水滴がポタポタと落ちる音がした。
 標高200m辺りに大きな岩が横たわり、道から下へ突き出していた。その岩に上ると、屋根に雪を乗せて白くなった竹田の町並みが一望できた。
 道にも石段が組まれていた。その一つ一つの石は大きくて地面にがっちりと埋まっていて崩れそうにない。これも、城があった当時からのものかもしれない。

城跡への道

 ヤマナラシやヤブムラサキ・・・夏緑樹は葉をすっかり落としていたが、木に掛けられたプレートがその木の名前を教えてくれた。
 陽が雲の上に出て、地面を照らし始めた。地面をおおう雪の結晶がキラキラ光った。つづら折れの道が続いた。樹上から落ちる水滴の数がふえてきた。ときどき、融けた雪が再び固まった氷のかたまりが落ちてきた。
 斜面の上が開けたと思ったら、舗装路の終点に飛び出した(標高305m)。舗装路を渡ると、そのすぐ上に竹田城の遺構が現れた。

 竹田城は、嘉吉3年(1443)に但馬の守護大名、山名宗全が築いたとされている。その後、太田垣氏が7代にわたって城主となったが、天正5年(1577)と天正8年(1580)、秀吉の2度の但馬征伐で落城した。
 太田垣氏の没落後、山修理太夫重晴、続いて赤松広秀が城主となった。現在のような石垣積み城郭は、赤松広秀によって1600年頃築かれたとされている。

 石垣は、長さ1m前後の大きな石を横にして重ね、その間を小さな石で埋めている。石垣の表面はきれいな平面をつくり、角石は縦に並んで直線を空へと伸ばしている。
 石の声を聞きながら積むと言われる近江穴太(あのう)衆による穴太積みである。
 石垣にはこの山に産する花崗岩が使われ、含まれているカリ長石が赤いために石全体が赤く見える。
 石の赤、石に張り付いた雪の白、石垣の上に広がる空の青が、鮮やかな色のコントラストをつくっていた。

見付の石垣 赤い花崗岩の石垣

 見付の下を通り、大手門を抜けると、北千畳が広がっていた。真白い雪におおわれた北千畳には、サクラの木がまばらに立っていた。
 折れ曲がる石の回廊を通って三の丸に上がると、天守が望めた。
 武の門を抜け、二の丸を進んだ。天守から南千畳の遺構が、豪壮で律動的な景観をつくっていた。

 本丸から木の階段を上って天守へ。この城跡最高所の四角い広場に三角点が埋まっていた。

天守へ

 山城遺構は、雪化粧してここから3方向に広がっていた。
 北に北千畳、南に南千畳、西に花屋敷・・・。自然の地形を巧みに利用し、石垣によって何段もの異なる高さの平面を配している。
 平面は複雑に重なっているが、それらが見事に調和して幾何学的な美しさをつくっていた。縄張りは、南北400m、東西100mに及ぶという。

天守から見る南千畳

 眼下には、竹田の町並みが広がっていた。円山川が、その町並みを向こう側から囲みこむように湾曲してゆるく流れていた。
 金梨山や朝来山が近く、大倉部山は、尾根を直線的に競り上げている。その向こうには、ぐるりと但馬の山々が囲み、金梨山の右肩遠くに粟鹿山がそびえていた。

天守から北の山並みを望む
山行日:2012年12月27日


JR竹田駅〜駅裏登山道〜竹田城跡〜表米神社登山道〜表米神社〜寺町通り〜JR竹田駅
 JR竹田駅の観光案内所で、マップや資料をもらって出発。駅の北で線路をくぐると、駅裏登山道の石柱が立っている。
 竹田城跡は、北千畳から天守、南千畳へと進み、南千畳から表米神社への道を下った。この表米神社登山道は、舗装道に交わるまでは整備されているが、それより下は災害のよって崩落しているため通行止めとなっている。舗装路を北へ進んで駅裏登山道を下るか、南へ進んで南登山道を下らなければならない。

山頂の岩石  白亜紀〜古第三紀 花崗岩 (和田山花崗岩)
採集した花崗岩の表面
(横22mm)
 竹田城跡の石垣の岩石は、この城山(虎臥山)をつくっている花崗岩である。山頂に露頭はなく、駅裏登山道でも新鮮な岩石は観察できなかったが、大手門コースの標高265m地点でやや新鮮な標本を得ることができた。
 主に斜長石・カリ長石・石英・黒雲母から成り、少量の普通角閃石を伴っている。カリ長石(最大7×4mm)がピンク色をしているのが特徴であり、そのため岩石も全体として赤みがかって見える。
 アルバイト双晶をしているものもピンク色なので、斜長石も同じ色なのかもしれない。石英は、無色から淡いあめ色で透明。黒雲母や普通角閃石は、変質していることが多い。
 この岩体は、白亜紀末〜古第三紀に形成された山陰帯の深成岩体のひとつで、西の大路山を中心に分布し「和田山花崗岩」と呼ばれている。
 チタン鉄鉱系に属するとされているが、わずかに磁石がくっついた。

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