高峰城跡(粟賀城跡)~426m峰 神河町 25000図=「粟賀町」
球顆流紋岩の山を歩く map
中村6号橋あたりから見る高峰城跡(写真左のピーク)2022.6.29撮影
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高峰城は、神河町粟賀町の南東に広がる山域の尾根の突き出たところにあった。粟賀城とも呼ばれ、今は木々によって展望を失っているが、当時は宿場町として栄えた粟賀町や中村を見下ろしていた。
高峰城の縄張りは大きくはないが、その城跡は主郭を中心として南北や西に数段の郭が連なり、石垣や堀切・土塁の跡がよく残されている。
神河町歴史文化基本構想資料編(2017年 神河町)によると、高峰城は永生~大永年間(1504~1527)に活躍した武将、赤松一族の伊豆孫四郎祐国によって建立された。山麓の慈増寺が建っているところに、居館があったという。
慈増寺の裏手に山に向かう道があった。道を進むとすぐに谷川にぶつかった。丸木橋が架かっているが、その手前で右に折れて、山に取り付く地点を探した。
スギやヒノキの植林地。その下にあまり草木が生えていないところから急斜面を登っていった。シキミやヒサカキの低木を分けて進む。落ち葉の間のコケの緑がみずみずしい。
やがて前方にウラジロの茂みが立ちはだかった。はじめは何とかそのすき間を抜けることができたが、やがてすき間がなくなった。ウラジロを乗り越えながら急な坂を登っていく。ウラジロの下にも枯れたウラジロが積み重なっている。足場が悪くて、なかなか進まない。息が上がる。
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ウラジロの森へ |
ウラジロの茂みをようやく抜け出ると、背の低いコシダにおおわれた平地が広がっていた。
そこからかすかな踏み跡が右へ延びていた。その道をたどっていくと、高峰城跡の北郭の一番下に出た。
ヒノキが植林されているが、遺構はよく残されていた。尾根に沿って南北に三段の平坦面が連なり、堀切や土塁の跡も認めることができる。
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高峰城跡北郭 |
堀切跡からさらに登っていくと、主郭に達した。広い平坦面で、周囲は帯郭で囲まれている。中心部のヒノキは伐られているが、周りのヒノキや侵入してきたソヨゴやアセビの枝葉によって展望はない。
南端には土塁の高まりがあって、その下に石垣の跡が残されていた。
主郭の南にも堀切があって、その先に南郭の平坦面。さらにその先の尾根が狭くなったところにも、堀切の跡があった。
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高峰城跡主郭 |
主郭の南に残る石垣 |
堀切を渡ったところに岩が出ていた。地層面が表れて、割れ目が平行に走っている。火山礫凝灰岩であった。流紋岩などの岩石片や軽石などを多くふくみ、粒の大きさの違いによる級化構造が見られる。
このあたりは、兵庫県版レッドリスト(地質)で「流紋岩溶岩の流理と球顆」がCランクに選定されている。今日歩いたコースのほとんどで流紋岩が見られたが、このように凝灰岩をはさんでいるところもあった。
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火山礫凝灰岩の露頭
(高峰城跡のすぐ南の尾根) |
尾根を南へ進んだ。雑木林の尾根には、コシダの間に踏み跡程度の道がついていた。
踏み跡は消えかかったと思ったら、またはっきりしてきた。樹上から、コゲラやシジュウカラの声がする。
急な坂を登ると、335.8mの三角点に達した。三角点の標石は、現地の石に囲まれて埋められていた。
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コシダの尾根の踏み跡 |
335.8m三角点 |
三角点のピークを越えてさらに南へ。大きな岩が尾根に沿って現れた。大きさ数mm~数cmの球顆をふくんだ流紋岩で、岩の表面はごつごつしている。
そこからピークを一つ越すと、眺望の開けた岩の上に出た。眼下に市川や越知川の流れがつくった沖積平野が広がり、家々の間を道路が縦に横に貫いている。
平野の向こうには屏風のように山々が稜線を連ねていた。南に、そうびろ山、薬師峯、七種槍、七種山の七種四山。その北に大中山、そこから稜線が複雑に起伏しながら高場山へと続いていた。
尾根の西は切り立った岩盤となっていた。雲で覆われた空からときどき薄日が差した。西から強い風が吹き上がってきて帽子を押さえた。
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岩の上からの眺望 |
岩の上から前方に目を移すと、426mピークがそびえていた。コルまで下って、そのピークを目指した。
尾根に大きな岩が立っていた。踏み跡は、その岩を右に回り込むように上っている。木々をつかみながら胸突きのその坂道を登る。
大岩の上に出ると、いったんゆるやかになった。最後に再び現れた急坂を登り切ると、コシダの向こうで雑木におおわれた426mピークに達した。
人工物の何もないピーク。コナラの下には、シキミやネジキやタカノツメなど。ナツハゼの実は、緑から赤茶色に変わり始めていた。コジャノメがどこからか飛んできて、地面に落ちた枯葉の上に止まった。
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426mピーク |
ナツハゼの色づき始めた実 |
ここから、335.8m三角点まで戻り、そこから北西へ延びる尾根を下った。ここにも、うっすらと踏み跡がついていた。
尾根が分かれたところで北東へ下った。このあたりで踏み跡はほとんど消えたが、地籍調査の跡が尾根に沿って残されていた。足元からハグルマエダシャクが飛び立っては、少しずつ前に移動してコシダや木の葉の裏にピタリとくっついて隠れた。
尾根を谷川へと下ったところに、白い道しるべが立っていた。
道しるべは、「登山口」と「城山」を示している。高峰城跡への登山道があることを初めて知った。
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高峰城址登山道の道標 |
どんなコースなのか、もう一度ここから城跡まで登ってみた。
ところどころに、この白い道しるべが立てられていた。始めはつづら折りに登り、尾根に達してからはほとんど真っすぐに登っていく。短い行程だが、なかなか急なコースである。
登り詰めたところが、高峰城の主郭跡であった。
この道を下った。キビタキが近くで鳴いていた。
この道に出会った地点を過ぎ、防獣ゲートをくぐって山際を進むと、町内の道と出会ったところに登山口があった。登山口には、高峰城跡の説明板が立っていた。
※ 高峰城跡の縄張りの記述では、TAKUさんのブログ「山城賛歌」の「粟賀高峰城跡」を参考にさせていただきました。
山行日:2022年6月25日
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慈増寺~高峰城跡~335.8m三角点~426mピーク~335.8m三角点~谷川の道しるべ
谷川の道しるべ~(登山道)~高峰城跡~登山口 map |
慈増寺の西、約300mのところに高峰城跡への登山口がある。そこから防獣ネットに沿って進み、ゲートをくぐると、登山道が城跡までついている。山頂付近は道が消えかかっているので、下るときには道を踏み外さないように注意が必要である。
この道を知らなかったので、今回は慈増寺の裏手より城跡を目指した。城跡から、尾根を南へ進み335.8m三角点を越えて426mピークまで進んだ。
335.8mピークへ戻り、そこから西へ延びる尾根を下った。 |
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山頂の岩石 白亜紀後期 笠形山層 流紋岩(球顆流紋岩)
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この山域には、流紋岩が分布している。流理の方向や火山礫凝灰岩をはさんでいることから、この流紋岩は岩脈ではなく溶岩であると考えられる。
観察できた多くの地点で、流紋岩には球顆がふくまれていた。大きさは数mm~3cm程度のことが多く、球顆が密集しているところもあった(写真左)。
また、マグマの流れた跡を示す流理構造が発達したところもあった(写真右)。
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流紋岩に見られる球顆(写真横29mm) |
流紋岩に見られる流理(写真横27mm) |
ここに分布しているのは、白亜紀後期の笠形山層とされている(5万分の1地質図幅 生野地域の地質 産総研地質調査総合センター 2005年)。
しかし、笠形山層は溶結した火山礫凝灰岩や凝灰岩から成っているので、この流紋岩溶岩の位置づけは再考が必要である。
本文中で述べたように、この流紋岩は兵庫県版レッドリスト(地質)で「流紋岩溶岩の流理と球顆」としてCランクに選定されている。
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