篠 の 丸(320m) 宍粟市 25000図=「山崎」
山崎の街を見下ろす城跡から播磨灘を見る
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| 山崎のスーパー屋上から望む篠の丸 |
宝永5年に片岡醇徳の著した「宍粟郡誌」に、「今に山の名を篠の丸と云えり 疑らくは山の名は篠山なるべし 古へ城ありし時丸字を加えて城の名に唱えたるべし」とある。
山崎の街の北西に丸く見えるのがこの篠の丸で、338.0mピークのひとつ東の平坦面が篠の丸城址にあたる。山頂から街の中心に下る尾根の途中の高まりは最上山と呼ばれ、毎朝登山のコースなどとして市民の憩いの場となっている。
弁天池から谷に沿って歩く。遊歩道にかかるモミジの葉は、昨日の雨でまだ濡れていた。道は180度折れて、谷から小さな尾根に辿った。尾根の上に何段かの平坦地が広がり、一面にモミジの木が生えている。太い幹に緑白色のコケをつけ、風格のあるのはアベマキ。クリやコナラも混じっている。あたりをうろうろしていると、地元の人たちが追い抜いていった。
交差した車道を少し歩き、妙見宮の鳥居をくぐって再び遊歩道に入った。傾斜が増して、コンクリート製の丸太を踏んで上った。モミジの多い雑木林の中を、大きく折れ曲がりながら進むと、まもなく「篠ノ丸城址」の石碑の立つ山頂に出た。
山頂には、平坦面が広がっている。その周りに百度石や石の灯篭、墓が立っている。ブランコやすべり台もつくられていた。この山頂のシンボルであった一本松は、約一世紀前に枯死したという。今は、6年前に植えられた三代目の一本松が成長していた。
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| 山頂の一本松 |
篠の丸城址 |
篠の丸の広い山頂の西端には、あずま屋が立っている。あずま屋に向かっていると、一人のハイカーに声をかけられた。
「本格的なもの持って歩かれているが……。」
「いや……これは、岩石ハンマーで……石を調べたりしてるので……。」
「私の友達にも石の好きな人がいて……。えーと、そこから瀬戸内海の島が見えるけど。」
ということで、その人はUターンして私をあずま屋のその位置まで案内してくれた。
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| 山頂あずま屋より後山・駒の尾を望む |
ここから海が見えるとは思ってもいなかった。
南の視野の中で、左右から尾根が下がって一番低くなったところを双眼鏡で見ると、本当にうすく山影が見えた。これが、太島(ふとんじま)にあたるという。その手前に、わずかに光る平面が見えるような気がする。これが播磨灘である。視程のよい日なら、もっとはっきりと見えるだろう。
その山影が太島とわかるまで、1年かかったという。龍野の金輪山で見た太島の形と岩肌やマツの樹林がつくる模様が、この篠の丸から見た双眼鏡の中の山影と同じことから、ついに分かったそうだ。帰ってから、地形図の上で篠の丸と太島を結んでみると、揖保川の流れにピタリと一致した。
北には、お椀を伏せたような山頂部にコンクリートの建物の立つ黒尾山が高い。その左奥には、後山と駒の尾の稜線がかすんでいる。手前の長水山の背後には、水剣山の吊尾根が大きくかぶさっていた。
二人で周囲の山々を一通り眺めると、太島を私に教えてくれたその常連さんは山を下りていった。
あずま屋は、きれいに片付けられていた。一人腰かけて休んでいると、壁の柱時計が懐かしい音で正午の鐘を鳴らした。
あずま屋の西は、急崖となっていた。空堀の遺構のようである。踏み跡を探しながらいくつかの空堀を横切って進んだ。小さなコルから上り返した高みに、338.0mの三角点が立っていた。
ここで引き返し、あずま屋に戻る。ここから、今度は南東尾根をそのまま千畳敷、百畳敷、尼ケ端(鼻)と辿り、最上稲荷山経王院へと下った。
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| 揖保川の対岸に立つ篠の丸 |
山行日:2005年10月16日