堂山 (471.6m)  神河町    25000図=「生野」


作畑の集落に佇む村の山
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旧越知谷第二小学校から見る堂山

 村の山というのがある。他の村の人は知らないが、その村の人なら誰もが知っているという山である。
 堂山はそんな山で、作畑を流れる越知川が大きく曲がった内側にあって、集落のある低地からの比高はわずか50m余りという小さな山である。
 「神河町歴史文化基本構想 資料編」(神河町 2017)には、堂山について「地域のほぼ中央に位置し、かつては頂上に妙見さんが祀られていた。」と記されている。堂山の名の由来は、「お堂のある山」によるのかもしれない。

 どこからでもすぐ登れそうだが、実はそうではなかった。集落と山の間に、ぐるりと防獣ネットが張られていてゲートのあるところからしか山に入れない。
 山頂にある三角点の「点の記」には南からのルートが描かれている。旧越知谷第二小学校の越知川対岸にあるゲートボール場に車を止めて準備をしていると、軽トラが一台通りかかった。農作業に来た地元の人で、堂山について尋ねてみた。反対側にある観音堂から登るのがいいと教えてもらい、再び車に乗って観音堂へ移動した。

 階段になった坂道を登ると、観音堂が建っていた。宝形造の屋根が夏の日差しをまぶしく反射している。手を合わせてから中を覗き込むと、一列に並んだ四天王像が見えた。

作畑観音堂

 観音堂のうしろに見えるのが堂山とばかり思っていたが、どうもようすがおかしい。地形図を見ると、この山は堂山のひとつ南のピークで、堂山は谷を一つ隔てた北にある。
 取り付き地点をまちがえたが、草むらになった道の向こうにゲートが見えたのでここから山に入ることにした。

 ヒノキ林の中の道を進むと小さな祠がひとつあった。そこで道は消えた。防獣ネットの内側を回り込むように進むと谷に出た。谷を流れる小さな沢に沿ってネットが張られている。上流へ遡って、ネットの向こうに出た。
 このルートをとったことで、沢の露頭を見ることができた。しかし、沢の岩石はどこも著しく風化していた。

 ヒノキの下の急な斜面を登った。水をふくんだ土はやわらかく、何度かずるりとすべった。
 しばらくすると、目の前にヤブが現れた。ヤブの手前を左へ回り込む。浅い谷をひとつ越して登ると、尾根に達した。
 尾根には踏み跡があった。少し登ると、山頂の手前に平地があった。木々の間から、集落の瓦屋根が見える。何も残されていないが、ここに妙見さんが祀られていたように思われた。

妙見さん跡の平地

 そこから少し進むと、山頂の三角点が埋まっていた。
 山頂は小さく開かれ、そこだけ日差しが射し込んでいた。


 堂山山頂

 山頂をおおうシダは、コバノイシカグマ。葉をちぎって空に向けて透かして見ると、葉脈が浮き上がった。シカの食べないこのシダは、神河町でもずいぶん増えてきた。

コバノイシカグマ バックは白い雲

 シダの上には、リョウブやシキミが茂っている。ムラサキシキブの実は、まだみずみずしい緑色だった。

 ムラサキシキブ

 堂山の妙見さんに人々が参っていたのは、いつの頃までだったのだろうか。道を尋ねた村の人は、もうここに妙見さんがあったことを知らなかった。
 妙見さんは人々の記憶から消えつつあるが、山の名はたしかに村に残されていた。堂山は昔と変わらず、村の中心に静かにたたずんでいた。

山行日:2023年7月23日

スタート地点~作畑観音堂~堂山山頂~ゴール地点 map
 今回のルートは、マップのとおりである。しかし、堂山の南から登るのが正解だと思われる。
 それには、越知川に架かる石風呂橋を渡り、越知川の左岸に沿って進む。すると、石風呂川を渡る小さな橋が架かっている。この橋を渡ると道が堂山の南に向かっている。

山頂の岩石 白亜紀後期 生野層 溶結火山礫凝灰岩
 今回のルートでは、数ヵ所で露頭を観察することができた。どの地点でも、風化が著しく構成鉱物は石英もふくめて変質していた。褐色でもろく、触るとぼろぼろと崩れていった。

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