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大山城跡(486.8m)~障子場②(883.8m) 神河町 25000図=「生野」 中世の城跡から長い尾根を行く map 障子場は、大山の集落の東に雄大にそびえている。
駐車場から歩き始めた。兵庫県でもこの夏初めての猛暑日が予想がされた朝だったが、渓流に沿った林道には涼しい風が渡っていた。
溝にかかる橋をわたって少し行くと、傾斜が急になった。落ち葉やその下の黒土は、ここ数日間の雨でたっぷりと水をふくんでいた。
しばらく自然林が続いた。日当たりの良いところには、コシダやウラジロが生えていた。
その堀切を越すと、三角点の埋まる大山城跡の主郭跡に達した。
城跡から東へ続く尾根を進んだ。城跡まで道があったため、まだ10時前。地質も単純で、ずっと白亜紀後期の火砕流堆積物が厚く続いた。石英の結晶片が多い岩相も変わらない。しかも、尾根にはずっと切り開きがある。
もとの岩まで登って、再び上をめざした。今度は、大きな柱のような岩が横たわっていた。長さを測ってみると3.9m。断面は対角線が0.8m程度で変形した六角形。柱状節理によって割れ落ちた岩であるが、内部は板状節理による割れ目が平行に走っていて、くじらの腹のように見える。障子場の「くじら石」と名付けることにした。
急坂はまだまだ続いた。なんでこの山はこんなに高いんやろ?と思ってしまう。重い足を一歩ずつ前へ上げる。
午後1時過ぎに、山頂を発つ。峠まで、あいまいな尾根の複雑なコースを地形を読みながら下った。地形図の破線路は、かつてここに大山と越知を結ぶ峠道があったことを示しているが、その道は完全に消えていた。 峠から西へ「かつら谷」を下った。初めは広くて浅い谷だった。スギの落ち葉を踏んで、間伐で倒された木を乗り越えて下っていく。 この谷を流れる川の、初めの一滴を見た。 標高670mあたりには、幅30m、長さ50mほどの広さでロックフォールが広がっていた。岩はコケで厚くおおわれている。木漏れ日がコケの緑を明るく輝かせていたが、よく見るとその上にブヨ柱が立っていた。
谷はだんだん傾斜が急になって険しくなってきた。重なる岩や倒木が行く手をさえぎった。歩きやすいところ求めて、何度も沢をまたいだ。沢は、枝沢と合流するたびに水量を増していった。オオルリが鳴いていた。
標高550mで左岸に山道が現れた。この山道を下っていくと、標高450mで白いビニールテープが道をふさいでいた。立ち止まって対岸を見ると、広い道が見えた。
山行日:2023年7月4日
スタート地点(駐車場)~登山口~大山城跡(486.8m)~515m地点~障子場山頂(883.7m)~峠=かつら谷=ゴール地点 map |
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| 大山城跡へは、最近登山道がつくられた。杉の集落から東へ進み防獣ネットのゲートを抜けると、広い駐車場がある。ここから、山道の入口まで標識が立てられ、山道に入ると急なところにはロープが張られている。 城跡から障子場までの尾根は、よく切り開かれていて歩きやすい。障子場から峠までも切り開きがあるが、地形が少し複雑である。 かつら谷の源頭部は道がない。標高550mで左岸に山道が現れ、標高450mで右岸に広い道が現れる。 |
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| 山頂の岩石 白亜紀後期 笠形山層 溶結火山礫凝灰岩 |
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大規模なカルデラ噴火によって発生した火砕流が堆積してできた地層である。 石英・斜長石・カリ長石・黒雲母の結晶片に富み、一部に普通角閃石の結晶片をふくんでいる。左の写真で、白い粒が斜長石、無色透明で(写真では黒く見える)ガラス光沢のあるのが石英である。泥岩・チャート・安山岩・流紋岩などの岩石片をふくんでいる。 溶結レンズは肉眼では確認しにくいが、薄片を顕微鏡で観察すると強く溶結していることがわかる。 赤褐色~灰色~青灰色で、結晶片や岩石片の量が多少異なったりするが、岩相変化は少ない。 標高の高いところでは、柱状節理や板状節理の発達している。節理で岩石が割れ落ちることによって、トアやロックフォールなどの地形がつくられた。 |
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