大山城跡(486.8m)~障子場②(883.8m) 神河町  25000図=「生野」


中世の城跡から長い尾根を行く
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大山の集落越しに障子場(中央)を望む

 障子場は、大山の集落の東に雄大にそびえている。
 この山へは、かつて七寶寺から障子岩を経由して登ったことがあった。今回は、杉から大山城跡へ登り、そこから尾根を東へたどるルートをとった。

 杉の集落を車で走っていると、「大山城跡」の標識がかかっていた。道のない斜面を直登する覚悟でやってきたが、もしかしたら・・・。
 防獣ネットのゲートをくぐり、少し進むと車の絵に「駐車場」と書かれた新しい看板。もう、道があるのはまちがいない。

 杉より望む大山城跡

 駐車場から歩き始めた。兵庫県でもこの夏初めての猛暑日が予想がされた朝だったが、渓流に沿った林道には涼しい風が渡っていた。
 すぐに、「大山城跡登山口」の標柱が立っていた。流れを渡り、標識に沿って次の分岐を右に進む。スギやヒノキの下には、一抱えもある角張った岩が散在していた。
 矢印に「こちら」と書かれた標識が立っていて、そこから北へ山道が上っていた。

登山口 林道から山道へ

 溝にかかる橋をわたって少し行くと、傾斜が急になった。落ち葉やその下の黒土は、ここ数日間の雨でたっぷりと水をふくんでいた。
 さらに道が急になると、ロープが固定されていた。ロープを頼りに登っていく。いつの間にか、コナラやアラカシなどの自然林へ入っていた。
 道にはステップがきられ、くずれやすいところには刈り取った枝で階段がつけられている。キビタキが樹上で鳴いていた。

 ロープの固定された登山道

 しばらく自然林が続いた。日当たりの良いところには、コシダやウラジロが生えていた。
 右から上ってきた尾根と合流すると、木々の枝葉のすき間から青い空が見え始めた。山頂が近くなって道が緩くなると、左側に堀切が現れた。堀切の先には、曲輪跡が細長い平地をつくっている。
 そこを過ぎると、今度は深さ7,8mもある大きな堀切が尾根をまたいでいた。

 主郭西の大規模な堀切

 その堀切を越すと、三角点の埋まる大山城跡の主郭跡に達した。
 
 「大山城は貞治元年(1362)ころ赤松直頼によって構築されたと伝えられている。播磨赤松氏が但馬山名氏の侵攻に備えた最前線の砦で当時、この大山城を中心に粟賀から真弓峠にかけて幾たびか戦いが繰返されたと記録にある。山頂には階段状の砦の跡が残っている。」(国道の「大山城址」案内板より)

 三角点の周りは丸く切り開かれていた。山頂を囲む木々によって眺望は開けないが、上空には梅雨の晴れ間の青空が広がっていた。
 二羽のアオスジアゲハが高速でもつれあいながら、木々の上を舞っていた。

 大山城跡山頂

 城跡から東へ続く尾根を進んだ。城跡まで道があったため、まだ10時前。地質も単純で、ずっと白亜紀後期の火砕流堆積物が厚く続いた。石英の結晶片が多い岩相も変わらない。しかも、尾根にはずっと切り開きがある。
 尾根の林床に繁茂するシキミの葉に木漏れ日が当たって、つややかに光った。
 ゆるくアップダウンをくり返したあと、少し登ると515m点。このあたりから、一方的な上りとなった。尾根は長く続いていた。スマホのGPSが示す標高の値が、少しずつふえていくのが励みだった。
 南からの尾根と合流したところに地籍図根三角点。
 尾根にスギが一列に等間隔で植えられていた。木の下の道もまっすぐに延びている。
 アカゲラの声が先ほどから聞こえていた。ほとんど真上から聞こえてくるが、姿は見えなかった。

 標高640mを越えると、傾斜が一気に急になった。スギ・ヒノキ林の下のハードな登り。尾根には、大きな岩も現れた。柱状節理や板状節理が発達している。
 大きな岩の上に座って、昼休憩とした。岩の上から、左下に岩塔(トア)が見えた。大きく細長い岩がまっすぐに立っている。
 そこまで下りてみた。岩塔は、高さ7mほど。平面で囲まれている。その岩の上にも下にも、大きな岩が重なってロックフォールをつくっていた。岩塔は露頭のようには見えなかった。上から崩落してきた岩が地面に突き刺さるようにしてここで止まったのかもしれない。
 

トアとロックフォール

 もとの岩まで登って、再び上をめざした。今度は、大きな柱のような岩が横たわっていた。長さを測ってみると3.9m。断面は対角線が0.8m程度で変形した六角形。柱状節理によって割れ落ちた岩であるが、内部は板状節理による割れ目が平行に走っていて、くじらの腹のように見える。障子場の「くじら石」と名付けることにした。

障子場の「くじら石」 急坂をひたすら登る 

 急坂はまだまだ続いた。なんでこの山はこんなに高いんやろ?と思ってしまう。重い足を一歩ずつ前へ上げる。
 シハイスミレのふ入りの葉がところどころに生えていた。
 標高850mまで登るとようやく傾斜が緩んだ。しばらく進んで、最後のひと登り。ネジキの幹をつかみ、スギの幹に抱きつき、クリのイガを踏んで登ると傾斜がなくなった。節理で割れた岩が散在する先に三角点が埋まっていた。

 三角点の前に、山名プレートが一枚かかっていた。山頂は、カラマツやミズナラやリョウブが高く、その下にウリハダカエデやツリバナが生えている。地面は、シカの食べないイワヒメワラビにおおわれていた。

障子場山頂

 午後1時過ぎに、山頂を発つ。峠まで、あいまいな尾根の複雑なコースを地形を読みながら下った。地形図の破線路は、かつてここに大山と越知を結ぶ峠道があったことを示しているが、その道は完全に消えていた。

 峠から西へ「かつら谷」を下った。初めは広くて浅い谷だった。スギの落ち葉を踏んで、間伐で倒された木を乗り越えて下っていく。
 この谷を流れる川の、初めの一滴を見た。
 標高670mあたりには、幅30m、長さ50mほどの広さでロックフォールが広がっていた。岩はコケで厚くおおわれている。木漏れ日がコケの緑を明るく輝かせていたが、よく見るとその上にブヨ柱が立っていた。

かつら谷のロックフォール

 谷はだんだん傾斜が急になって険しくなってきた。重なる岩や倒木が行く手をさえぎった。歩きやすいところ求めて、何度も沢をまたいだ。沢は、枝沢と合流するたびに水量を増していった。オオルリが鳴いていた。
 

 かつら谷の渓流

 標高550mで左岸に山道が現れた。この山道を下っていくと、標高450mで白いビニールテープが道をふさいでいた。立ち止まって対岸を見ると、広い道が見えた。

山行日:2023年7月4日

スタート地点(駐車場)~登山口~大山城跡(486.8m)~515m地点~障子場山頂(883.7m)~峠=かつら谷=ゴール地点 map
 大山城跡へは、最近登山道がつくられた。杉の集落から東へ進み防獣ネットのゲートを抜けると、広い駐車場がある。ここから、山道の入口まで標識が立てられ、山道に入ると急なところにはロープが張られている。
 城跡から障子場までの尾根は、よく切り開かれていて歩きやすい。障子場から峠までも切り開きがあるが、地形が少し複雑である。
 かつら谷の源頭部は道がない。標高550mで左岸に山道が現れ、標高450mで右岸に広い道が現れる。

山頂の岩石 白亜紀後期 笠形山層 溶結火山礫凝灰岩
溶結火山礫凝灰岩(左右22mm)
(かつら谷標高650m地点)
 大山城跡から障子場、かつら谷には、白亜紀後期の笠形山層の溶結火山礫凝灰岩が分布している。
 大規模なカルデラ噴火によって発生した火砕流が堆積してできた地層である。
 石英・斜長石・カリ長石・黒雲母の結晶片に富み、一部に普通角閃石の結晶片をふくんでいる。左の写真で、白い粒が斜長石、無色透明で(写真では黒く見える)ガラス光沢のあるのが石英である。泥岩・チャート・安山岩・流紋岩などの岩石片をふくんでいる。
 溶結レンズは肉眼では確認しにくいが、薄片を顕微鏡で観察すると強く溶結していることがわかる。
 赤褐色~灰色~青灰色で、結晶片や岩石片の量が多少異なったりするが、岩相変化は少ない。
 標高の高いところでは、柱状節理や板状節理の発達している。節理で岩石が割れ落ちることによって、トアやロックフォールなどの地形がつくられた。
 

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