鶴居城山(433m)・大中山(662.3m)        市川町  25000図=「寺前」


鶴居城山から大中山へと辿り、十三回りへ

市川町甘地から見る大中山(左)と鶴居城山(右)

 七種山塊の北に位置する662.3mのピーク、大中山。毎朝の通勤途上で見る山のひとつである。
 南から見る大中山は、鶴居城山(以下城山)からの稜線を小さく起伏させながらも、ほぼ直線的に山頂までせり上げている。それが、市川に沿って国道を北に進むほどに、両山の距離が縮まり、やがて大中山は城山の後にぴたりと隠れる。
 大中山が次に現れたときは、城山の右に位置を変えている。このときの大中山は、城山からの稜線が大きく起伏し、北の御所山山塊との間に、どっかりと座っている。

 10年ぶりに、この大中山を訪ねてみた。

 皿池北の墓地の脇を抜けて林に入ると、城山の登山口があった。鳥居のような立派な門ができている。昨年、地元の「城山城址の会」によって、ここから城山山頂まで登山道が開かれた。
 獣よけフェンスを開けて登山道に踏み込むと、「城山山頂あと1000m」と書かれた小さな木の札が掛かっていた。丸太階段を登ると、すぐに南東尾根に出た。
 空は層積雲におおわれ、風は冷たい。4月も終わりだというのに、今年は春らしい陽気が続かず、すぐに季節が逆戻りする。それでも、木々は新しい葉を広げようとしていた。
 枝の先端から上を向いて芽生えたリョウブの若葉は、まだ柔らかい。アセビのオレンジ色の新葉は、小さくて薄かった。林の中には、ウグイスやホオジロのさえずりが響いていた。

小さなプレート リョウブの若葉

 尾根の道は、しだいに急になった。天然木の丸太階段は上品につくられていて、自然によく溶けこんでいた。傾斜が緩くなって丸太階段が途切れると、アカマツ林の下に285.6mの三角点が埋まっていた。ここから東が開かれ、眼下に鶴居や美佐の家並みと田園が広がっていた。ゴトゴトと音を立てて走る赤茶色の電車は、まるでおもちゃのように見えた。
 尻が痛いのをがまんして、丸太1本を渡してつくられたベンチに座っていると、雨が落ちてきた。
 
 尾根は、再び傾斜が急になった。岩の割れ目に、小さなスミレが咲いていた。
 今度は、日が射してきた。この日は、晴れたり降ったりと天気がめまぐるしく変わった。
 木々に固定されたロープを引っ張りながら急坂を登ると、木の札には「あと300m」の表示。100mごとに掛けられている札の数字は、どんどん減っていった。
 標高390mあたりから、尾根に小さな平坦地がつくられていた。この平坦地は階段状になって、山頂まで何段も続いた。ところどころに、石積みも残されていた。
 中世、ここには赤松氏が播磨北の要地として稲荷山城を築いていた。道は、この城の遺構を損なわないように、平坦地の間を縫ってつけられていた。

 歩き出してからちょうど1時間、城山の山頂に達した。10年前、ヤブにおおわれアセビの花が咲き誇っていた城跡は、きれいに刈り払われていた。真ん中あたりに3本のコナラの木だけが残され、それらの木に山頂プレートが渡されていた。
 山頂の周りには、木の杭がぐるりと立ち、ところどこに周囲の山々の名を示した板が打ちつけられていた。南西に、七種槍がその鋭鋒から両翼を広げ、その右に七種山が絶壁をいただいて雄々しい姿を見せている。さらに右には、大中山が大きくそびえていた。
 南には、低い雲が山並みに垂れ下がっていた。播磨灘の海の色は見えなかったが、上島が麻生山の左肩に乗るように、白いもやの中に薄く浮かんでいた。
 

鶴居城山山頂 山頂より七種槍(左)と七種山(右)を望む

 城山をあとにして、大中山をめざした。尾根には、明瞭な切り開きがあった。木漏れ日の射す落ち葉の道。このあたりに来ると、コバノミツバツツジは、まだたくさん花を残していた。
 送電線の鉄塔の下を通過した。尾根は岩がちになって、いくつかの岩を乗り越えて進んだ。Ca.470mピークを越えたコルには、南の工業団地への道が分岐していた。498mピークは南側を巻いて通過した。
 空は、また暗くなった。風に揺れる葉音が大きくなった。ハンマーで割った石に、ポタリと雨粒が落ちた。ウィンドブレーカーを合羽がわりに着ると、また空が明るくなってきた。

鶴居城山山頂から大中山を見る コバノミツバツツジ

 雑木のトンネルをくぐるように、狭い切り開きを身をかがめて進んだ。エナガがかわいい姿を見せて、さえずった。標高530mあたりで、切り開きは尾根を離れて、南斜面をトラバースするように伸びていた。山の斜面は樹木がうっそうとしていて、しっとりと湿っていた。ほとんど水平に進んだあと少し上ると、七種山から続く尾根に出た。
 ここから、さらにかすかになった切り開きを北に登ると、大中山の山頂に達した。

 三角点の周りは小さく開かれていた。周囲から、ソヨゴやコナラ、アセビ、ネジキ、ツツジなどが枝を伸ばし、山頂の空を半ばかくしていた。数枚の小さな登頂プレートが木の枝に掛かっていた。山頂の光景は、10年前とは何も変わっていなかった。

 1971年、多田繁次は、谷峠からこの大中山にたどり、十三回りを経て河原谷へ下っている。そして、この山域の風光の素晴らしさ、清らかさと静けさの漂う山稜の道、季節ごとに山を彩る草花を讃えて愛した(「続兵庫の山々、1973」)。
 それから40年……。林道が、大中山北東の山腹をきざみ、十三回りの峠の景観を一変させてしまった。しかし、なんとかそれ以上の破壊をこばんでいる。
 但馬でも播磨の北でも、不必要に大規模な林道が主稜線に延々と伸び、景観や自然を台無しにした。この七種の山塊は、いつまでも自然豊かで、このまま静かであって欲しいと願う。

大中山山頂

 大中山山頂から北へ向かった。かすかな切り開きがあったが、倒木が行く手をさえぎった。このあたりの山は、2004年の23号台風で多くの木が倒れた。そのとき、根こそぎ倒れた木が尾根にそのまま残っていた。
 倒木を越えたり、くぐったり、回り込んだりしながら進んだ。突き出た木の枝にゴツンと頭をぶつけ、顔を上げると、アセビの釣鐘状の花がぶら下がっていた。
 風が急に冷たくなった思ったら、今度はあられが降ってきた。そしてまたすぐに、陽射しが注いだ。635mピークは、重なった岩の上だった。

ヒカゲツツジ
 倒木が減って、ずいぶん歩きやすくなった。そして、ヒカゲツツジの小さな群落があった。
 ヒカゲツツジは、ここまで目にすることができなかったので、今回は半ばあきらめていたが、ここに咲いていた。
 淡黄色の花びらは、陽が当たって明るく輝いていた。その花びらをルーペで見ると、小さな粒が陽を透かして水晶のようにきらきらと光っていた。


山行日:2010年4月24日

鶴居城山登山口〜285.6m三角点〜鶴居城山(433m)〜498mピーク〜大中山(662.3m)〜635mピーク〜十三回り〜甲良川標高300m地点=(自転車)=鶴居城山登山口
 瀬尾高圧工業の北にあるのが皿池、その皿池の北に墓地がある。この墓地の右脇から林に入ると、鶴居城山登山口があった。
 登山道は、2009年に地元の「城山城址の会」によって整備された。この道は、すぐに南東尾根に出て、その尾根をそのまま山頂まで伸びていた。
 城山から大中山までは明瞭な切り開きがあった。この切り開きは、ほぼ尾根に沿ってついているが、標高530mあたりから尾根を離れ南斜面をトラーバスしていた。標高550mあたりで、七種山から続く尾根に出て、かすかな切り開きを北に登れば大中山の山頂である。
 大中山山頂から十三回りの峠までは、かすかな切り開きがあった。山頂近くは倒木が多くて、進むのが困難であった。

山頂の岩石 後期白亜紀 七種山層 流紋岩質溶結火山礫凝灰岩
 この山域には、後期白亜紀の七種山層が分布している。今から、約6700万年前の火山活動によってできた地層である。
 尾根のところどころに露頭があった。岩石はどれも、火砕流によってできた溶結凝灰岩。全体的に風化が進んでいた。
 城山山頂の北、標高420m地点で採集した岩石は、帯緑灰色の基質に、カリ長石(最大3mm)・斜長石・石英の結晶片、頁岩・流紋岩などの岩片を含んでいた。
 軽石が扁平につぶされた溶結構造が顕著である。軽石のレンズは最長1cm、多くが緑色をしている。

「兵庫の山々 山頂の岩石」 TOP PAGEへ  登山記録へ