高原の池を辿って静かな山頂へ
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城山南の稜線上より大蔵山を望む(2003.12.13) |
大蔵山山頂の祠とホルンフェルスの露岩 |
兵庫県の西播地方には、山崎断層より南に600mを越す山はない。この地域には、標高350~500mの起伏の少ない高原状の山域が広がっている。「西播山地」と呼ばれるこの高所は、地質学的には「富満(とどま)高原」と名付けられた準平原である。準平原をつくる平坦面は、かつて海水準での波の浸食作用でできたと考えられている。
秋も深まった日曜日、この西播山地の東端にあたり、龍野市の北に位置する大蔵山(520.1m)を訪れた。
中垣内川源頭より見上げる大蔵山
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麓の「井関三神社」に車を止め、中垣内川に沿って歩き出した。静かな平木の集落を過ぎると、中垣内教育キャンプ場に着いた。ここから、井関神社奥宮の鳥居をくぐり、山道に入っていった。自然林の中に、よく整備された小径が中垣内川に沿って続いている。木々の紅葉は進み、ときどき吹く風に木の葉が落ちた。
中垣内川の源流は、花崗岩独特の滑らかで角が丸まった河床を流れている。いくつかの小橋を渡り、小さな滝や淵を右や左に見ながら緩やかに上っていく。Ca.210mの二股を、地形図の破線路通り右に進むと、ようやく傾斜が急になってきた。狭い湿地を過ぎると高原状の平坦地に出て、近畿自然歩道に合流した。
ここから右に亀の池(きのいけ)、左に新池・大成池と、この高原の上に同じくらいの大きさの池が3つ並んでいる。
この分岐を右へ進んでみると、奥宮神社があった。簡素な社殿が、花崗閃緑岩でできた御神体の丸い岩塔に寄り添うように建っていた。
奥宮神社の少し東に、「水争い遺称地」の案内板が立っていた。亀の池から流れ出た水は南北の二つの谷に分かれて流れるが、南の中垣内川上流の村民が北への流れを堰き止めて水争いが起こったと言われている。この争いは、「播磨国風土記」には、石龍比古命と石龍比賣古命の兄妹の神の水争いとして登場する。自然現象としての「河川争奪」に、このような物語がつけられたのだろうか。
その時代から残されたものか、後年つくられたものか分からないが、尾根に沿って30mにわたり石積みがつくられていた。その石積みの上を歩き、さらに進むと亀の池の堰堤が上に見えた。この地点で、Uターンして来た道を戻った。
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奥宮神社の御神体 |
水争いの伝わる石積みの上の径 |
元の分岐から、新池を過ぎ、大成池の畔を歩いて池の西へ回りこんだ。ここで「展望台入り口」の小さな案内板を見つけ、そこから南東方向へ大蔵山を目ざして上った。
展望楼の建つCa.510mのピークまでは、急な尾根に小径がついていた。しかし、すぐその尾根の右下に山肌を削って幅2mの道が新たにつけられている。花崗岩が風化した赤っぽいマサ土がむきだしになり、一部が水の流れで削られている。せっかくの森林公園を台無しにする必要のない道である。
展望楼の下にある大きなラッパに口を当て、「ヤッホー」と叫んでみたが何も起こらない。なんか変だと思ってラッパの下の説明板を見ると、これはサウンドコープといって、耳を当て小鳥の声を聞くためのものであった。今度は耳を当てると、カーカーとカラスの鳴き声がやけに大きかった。展望楼に上がると、白いもやの中でかすかに相生湾の海が光を反射しているのが見えた。
いったん下り、上り返して踏み跡を辿ると、大小の岩の間に大蔵山の三角点が立っていた。岩の間に雑木がまばらに生えたこの山頂には、石の祠がひとつひっそりと祀られていた。
帰りは、山頂下のコルへ戻りそこから南西の峠池へ下った。峠池の周辺は公園化されていて、そこにはカリヨン(演奏できる鐘)が備え付けられていた。「赤とんぼ」の音符を見て演奏してみた。音程が大きく跳ぶところは横に移動しなくてはならないので一人では結構たいへんだ。
新旧の落ち葉を踏みしめ秋の空気をたっぷりと吸った、静かな山歩きであった。
山行日:2000年11月5日
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