城山(置塩城跡) (380m) 夢前町 25000図=「前之庄」「姫路北部」
萌黄色に染まる山上の城跡
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| 城山(置塩城跡) |
城山登山口
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細長い沖積平野をゆるやかに流れる夢前川。かつて、山上に赤松氏最後の居城をのせていた城山は、その夢前川に左岸から迫っている。
櫃蔵(ひつくら)神社の裏手にあたる山の南西面は、この時期コジイがいっせいに花を咲かせて萌黄色に染まる。1本1本の樹が、もこもこと盛り上がり、山は躍動感にあふれて見える。
登山口から山に入ると、道はすぐに急傾斜になった。水も流れていないような小さな渓に沿って上っていく。道端に立つ丁石が、行程を教えてくれる。この丁石は、茶室跡の18丁まで続いていた。
3丁を過ぎたあたりから、道は右へ曲がって渓を離れた。雑木林の中は薄暗く、空気がよどんで夏のようにむせている。それでも、ときどき高木の樹冠は風に揺れてザワザワと音をたてた。
5丁目あたりからさらに傾斜が強まり、道はつづらになった。ずっとそのまま、つづらに上っていった。
9丁の手前で、小さな尾根に出た。ここには、5m四方ほどの平坦面がつくられていた。リョウブ・アラカシ・コナラが影を落とし、地面には腰掛けて休むのにちょうどよい石が2つ並んでいる。そこからは南が開け、S字に曲がって流れる夢前川が眼下に見えた。
12丁で、ようやく道は一旦ゆるやかになった。そこには炭焼窯跡が残り、道を歩くと降り積もったシイやカシの落葉がカサカサと乾いた音を立てた。
南曲輪群
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道は再びつづらになり、山上の南曲輪群に達した。尾根の上に数段の平坦面が階段状につくられている。
南曲輪群の上の平坦面は、茶室跡とされている。ここには、終戦頃まで井戸があったと聞いたことがあった。
茶室跡から石垣の下を過ぎると、道は東西に伸びる深い空堀の中を通っていた。空堀北の三の丸跡に上ると、2本の大きなシロダモが生え、広い平地の真ん中に標柱が立っていた。
空堀を隔てて南に広がる二の丸跡からは、昨年度、庭園遺構が発掘された。地面に大小15個程の景石が配され、土塁や建物の雨落ち溝も発見された。
発掘跡は、再び埋められて保存されているが、その一部が植林されたヒノキの間に出ていた。なかでも、庭園の中心となる高さ80cmくらいの立石が目を引いた。庭園のすぐ北には屋敷跡も見つかった。
二の丸は、城郭の中でほぼ中心に位置し、庭園を前にしたこの屋敷は、城主の居所と考えられる。屋敷内からこの庭園を見ると、うしろに控えた書写山がちょうど借景となる。
戦国時代末期の乱世に備えながらも風流を楽しもうとした赤松氏。再興を果たし、ここに赤松一族待望の城を構えた政則は、京生まれの京育ちで、猿楽に通じ、またすぐれた刀工でもあった。
庭園をつくったのがどの城主の時代なのか分からないが、そんな文化人であった政則の系譜がここに息づいていたのだろう。
本丸・二の丸・三の丸、放射状に伸びる曲輪群……。その壮大な規模に驚かされるのと同時に、地形を巧みに利用した遺構の配置には美しささえ感じる。
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二の丸庭園跡
(中央奥に立岩) |
二の丸庭園跡発掘現地説明会
(2004.11.7) |
空堀の中の道を進み、コガクウツギの咲く山道をひと上りすると城山山頂に達した。
山頂では、先客の家族連れが帰るところだった。小さな子どもたちの笑い声の後には、小枝を集めてつくられたケルンが残されていた。
山頂は、置塩城の本丸跡で、櫓跡も発掘されている。今は、繁みで展望は途切れがちであるが、それでも南に立てば前方が開けた。左には広峰山系の緑が広がり、右には書写山がゆるく稜線を引いている。その間を流れる夢前川を先にたどれば、播磨平野が広がり、さらに播磨灘には小さな島が霞んで浮かんでいた。
赤松氏の栄枯盛衰の跡は、アベマキやコナラ、あるいはサクラの木の下に、発掘跡を保護するための青色シートにおおわれて眠っていた。
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| 本丸跡、木の枝のオブジェ? |
本丸跡付近から広峰山系を望む |
茶室跡に戻り、南西曲輪群を通って三の丸下の斜面を西へ進んだ。
ときどき、生甘い濃厚なにおいが漂ってきた。そこには、コジイの木が立ち、見上げると、枝先に群れ咲く花が樹冠を黄色に染めていた。
やがて、西曲輪群に達した。何段も続く平坦面の横を下っていくと、狭い伐り開きで道は途絶えた。ここが、大手門跡であった。
かつては、ここから大手道が通じていたという。踏み跡ぐらいはあるだろうと、ヤブの中に踏み込んだが、容赦ないシダや潅木の小枝やつるに行く手をさえぎられた。カナメモチが、赤い若葉をつけていた。
大手道をあきらめ、茶室跡へ戻って、来た道を下った。ときどき、ホトトギスが樹上で鳴いていた。
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| コジイの花 |
大手門跡 |
山行日:2005年5月21日
置塩城跡案内図