大嶽山 (453.1m)    神河町               25000図=「粟賀町」

柏尾城跡を頂く大嶽山の秋

大嶽山を南より望む

 市川とその支流猪篠川の間には、いくつかのピークが南北に稜線を連ね、全体として大きな山塊をつくっている。大嶽山は、その山塊の南端に位置する標高453.1mのピークである。
 山の西面は採石によって大きく削り取られ、東面は「桜華園」として木々が切り払われ桜が植林されている。大嶽山は、人の手によって無残にも変貌してしまったが、山頂に柏尾城跡をいだく歴史ある山なのである。

 大嶽山南麓、柏尾の法性寺の左脇から沢に沿って道があった。入り口近くのアラカシの下に六地蔵が祀られていた。(ここから左へ、尾根へと続く道が分かれている。この道が大嶽山への登山道であったが、このときは分からなかった。)
 沢沿いに進むと、すぐに大きな砂防堤が現れた。左手の階段を上って砂防堤の上に出ると、そこには灌木と枯れ草の生い茂った浅い谷が広がり、左の山すそに一筋の細い道が見えた。この道を進み、もう一つの砂防堤を過ぎると、道は杉の木立の中の下に続いていた。
 沢には、もう水がほとんどなくなった。道はしだいに不明瞭になり、踏み跡を探しながら沢に沿って進んだ。現れた二股を左に入ったところで、踏み跡もほとんど消えた。ここで、沢を離れて左手の斜面を真っ直ぐに上った。
 しっかりした杣道に出合ったと思ったら、そこがこの道の終点だった。そこから、かすかな踏み跡がつづらになって上へ向かっていた。シカのひづめの跡が、しばらく続いた。斜面を上りきると、大嶽山山頂とその南東のCa.390mピークとの間のコルあたりに出た。
 尾根には道がなく、ちょっとしたヤブコギをして山頂に達した。

山頂から北を見る 山頂に残る石垣

 山頂には、NHKのテレビ中継所の白い建物といくつかのアンテナが立っていた。展望を探して、それらの施設を取り囲む金網のフェンスを一周した。木々の間から北が見えた。市川の流れる谷に尾根が左右から交互に下がり、それらが重なっている。その先を平石山の山塊が大きく壁のようにふさいでいた。
 南側の木のすき間からは、市川町の街並みがかすみ、ゆるく蛇行して流れる市川がにぶく光っていた。

 三角点の北が少し高かった。そのヤブの中に足を踏み入れると、岩が出ていた。明らかに人の手によって積み上げられたものもある。少し下って、その裏側にまわってみると石垣が残されていた。これが柏尾城跡と思われる。
 柏尾城は、赤松氏の幕下にあり、このあたりを制していた粟田氏(文献によっては、粟生田氏あるいは栗田氏とも記されている)が永禄年間に築いたものとされている。山の斜面に沿って竪堀が畝状に連続した畝状空堀群(畝形阻塞)を持つ珍しい山城として知られている。
 播磨と但馬の国境近くにあり、市川と越知川と猪篠川沿いの平地が見下ろせるこの山頂は、山城としては恰好の地にあったのであろう。
 
 三角点に戻って、その横に座って休んだ。コナラの葉が、黄色・オレンジ色・茶色・紅色とさまざまに色づいている。葉の中心に緑が残っているものもある。ソヨゴは赤い実をつけている。ネジキの葉も、赤褐色に染まっている。地面のワラビは葉がもう枯れ始めていた
 ゆるく風が吹くと、木々の葉が乾いた音を立て、ときどき舞い落ちた。

 帰りに、フユイチゴの実を摘んだ。家族で食べた晩秋の山の味覚は、甘く酸っぱかった。

大嶽山を振り返る(右が山頂) フユイチゴの実

山行日:2005年11月26日
法性寺〜砂防堤〜Ca.370mコル〜大嶽山山頂(453.1m)〜桜華園への尾根道〜電動ゲート〜砂防堤〜法性寺
 柏尾の法性寺(地形図卍記号)から、北へ沢(柏尾川)に沿って道がある。大きな砂防堤の左につけられた階段を上ると、道は細い山道になる。そのまま、沢沿いに上り、二股(Ca.250m)を左に進むと道は消えた。そこから、西へ斜面を上る山頂とCa.390mピークとの間のCa.370mコルに出た。
 ここから尾根を北西に進み、大嶽山山頂に達した。
 山頂から尾根を北東に進み、分岐から南への支尾根の広い道を進んだ(柏尾川東の支尾根)。電動ゲートをくぐり、桜華園への道に分かれて山の斜面を柏尾川の大きな砂防堤に向かって下った。
■山頂の岩石■ 白亜紀後期 流紋岩

 山頂の岩石は、流紋岩である。岩の表面には、2mmほどの大きさの球顆が多く見られる。

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