御 嶽 山  (552m)            社町        25000図=「比延」
清水寺への巡礼の道

清水寺への道 清水寺大講堂

 シイやカシにスギやヒノキが混じる急な斜面に、広い山道が九十九折りに上っていた。土の中から顔を出す石や、道ばたに転がる少し大きな石の上には、2、3個の小石が積み上げられている。御嶽山の山上にある清水寺への巡礼の道である。
 
御嶽山清水寺は、西国巡礼二十五番札所。登山口の先には、料金所があって、清水寺まで有料道路が続いている。駐車場に車を止めて山歩きの身支度をしていると、路線バスまでもが料金所のゲートをくぐっていった。
 清水寺へは、参詣の道が四方からあるが、この南麓からの道は本坂と呼ばれている。二十四番札所中山寺からはるばる歩いてきた巡礼者が、清水寺へ向かう道である。登山口の標石に、『距離18丁(約2km)』とあったが、歩き出すとすぐに17丁になった。歩くほどに丁石の数字が小さくなっていく。
 6丁の上の曲がり角に、久米坂(明石道)との分岐を示す2本の標石と地蔵さんが立っていた。帰りに、この久米坂へ下りようとしたが、踏み跡はすぐに消え、激しいヤブに退却した。
 3丁には、高さ10m近くもある板状の岩『稚児岩』が歴史の跡をとどめている。1383年、赤松氏範が摂津中島で反乱を起こしたが敗退。ここまで逃げ延びて、この岩の前で我が子と別れたという。氏範は、この後、自害している。岩の下には、フユイチゴが小さな赤い実をつけていた。

御嶽山
 法華山一乗寺への分岐から、長い石段を上ると、清水寺であった。山上の境内には、石垣によって何層もの平坦面がつくられ、多くの伽藍が立ち並んでいる。大晦日の昼間、訪れている人はわずか。正月の参詣者を待つのか、境内には幕を下ろした出店が並んでいた。境内の一段と高いところに、根本中堂が建ち、その奥に小さな井戸があった。この湧き水は、滾浄水(こんじょうすい)と呼ばれ、この寺を開基した法道仙人が水神に祈って湧出させたという。これが、清水寺の名の由来となった。井戸の前の案内板に、『この井戸をのぞき込んで、自分の顔を映したら寿命が三年延びる』とあった。帽子を取って、暗い井戸の中の水面に顔を映してみる。家に帰ってその話をすると、『なんか「三年峠」の話みたいやなあ。』と娘。もっと、何回も顔を映しておくのだった。
 根本中堂の上には昭和40年の台風で大破した大塔の跡があった。その北東が、さらにまだ高くなっている。御嶽山の山頂をめざして、林の中に分け入った。山頂と思われる高みは、枯れ落ちた枝葉の積もるスギの木立の中にあった。茶色の世界の中に、ササ・シロダモ・ヤブツバキ・ヒイラギの幼樹の緑が、林間を吹く風にかすかに揺れていた。
山行日:2001年12月31日

山 歩 き の 記 録
行き:清水寺登山口駐車場〜久米坂分岐〜稚児岩〜西坂分岐〜清水寺大講堂〜根本中堂〜滾浄水(こんじょうすい)〜御嶽山山頂
帰り:行きと同じ
久米坂分岐
 清水寺へは、古くからの巡礼の道がいくつかある。今回は、中山寺と結ばれる有馬道からの「本坂」を歩いた。登山口は、有料道路のゲートの手前にある。登山口には、「播州清水寺徒歩登山道」と記された立派な標石が立っている。「距離18丁(約2km) 約40分」との表示もある。
 登山道は、よく整備された幅の広い道。丁石が、寺までの残された距離を教えてくれる。
 6丁の先に、2つの標石と地蔵さんの立つ久米坂分岐がある。久米坂の道は、完全にヤブに没していた。稚児岩を過ぎてさらに進むと、清水寺への長い石段の下に着く。ここは、古法華山一乗寺に続く西坂(法華山道)との分岐となっていて、大きな標石が立っている。
 山頂のすぐ下には、有料道路から続く広場(駐車場となる)がある。この広場の一番上に、大きな露岩がある。この上に立つと、北から東への展望が開ける。
   ■山頂の岩石■ 白亜紀  有馬層群平木溶結凝灰岩層  流紋岩質凝灰岩

 御嶽山山頂のすぐ南東下に、好露頭があった。岩石は、多結晶質の流紋岩質凝灰岩。径1〜2mm程度の石英と白濁した斜長石の結晶片を多く含む。石英の結晶片は、最大5mm。また、黒雲母と角閃石と思われる結晶片も含まれている。基質は、灰色である。1cm程度の黒色頁岩、灰色シルト岩などの異質岩片をわずかに含んでる。
 本坂のコースに露出する岩石は、いずれもこの多結晶質流紋岩質凝灰岩であり、岩層変化は少ない。方状に節理が発達し、花崗岩によく見られるようなマネギ状風化を呈する部分もある。

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