感状山(305m)〜三濃山(508.6m)  相生市   25000図=「二木」


感状山城跡から三濃山への冬の縦走

三濃山山頂に立つ老アカガシ

 標高508.6m、三濃山は相生市の最高峰である。
 冬の一日、感状山を経て尾根沿いに三濃山に上り、鍛冶屋谷に沿って下った。

 相生市矢野町瓜生の羅漢の里に、感状山登山口があった。道標に「石仏まで250m、城跡まで650m」とある。
 ここから100mほど歩くと大きなモミの木が立っていて、その下が石仏と感状山城跡との分岐になっていた。
 まずは、石仏に向かった。
 橋を渡り、苔むした大きな岩の間を抜け、石段を登っていくと「瓜生羅漢石仏」に達した。薄暗い岩窟の中に、数えてみると釈迦如来像を中心に19の石仏が座っていた。
 案内板には、朝鮮の僧、恵便(えべん)恵聡(えそう)一行が作ったという伝説や、室町時代に真言宗の山伏が作ったと推定されていることなどが記されていた。

瓜生羅漢石仏

 石仏を降りると、「立木如来」という案内板があったので、次にそちらへ向かった。道は、感状山と谷一つ越えた尾根の方に続いていた。
 だいぶん高いところにあるらしい。なかなか如来は現れない。今日は道のりが長いので、如来をあきらめて、先の感状山との分岐点に戻った。

 丸太階段の整備されたつづら折りの急な坂を登ると、感状山の南尾根に出た。
 尾根を少し北に進むと、やがて感状山の城跡に入った。その入口には、岩盤が露出した物見岩という高台があった。
 この上に立つと、下に矢野の町がよく見えた。戦いの時、攻め上がってこようとする敵をここから見張ったのであろう。
 感状山の山頂方向に目を向けると、城跡の南の曲輪群が階段状に見えた。青空に巻雲がかかっていた。

物見岩から感状山を望む
(南曲輪の平坦面が階段状に見える)

 物見台から山頂をめざした。
 城跡には石垣が組まれ、何層もの平坦面が段をなす上に倉庫跡、井戸跡、大手門跡などが残っている。
 何層もの平坦面を緩やかに登っていくと、感状山の山頂に達した。

 建武3年(1336年)、足利尊氏が京都から九州に落ち延びたとき、赤松円心は白旗城にあって新田義貞の追討軍を防いだが、円心の子、則祐がこの城にこもって奮闘した。感状山の名の由来は、このとき則祐が尊氏から感状を与えられたことによると伝えられている。

 山頂は、T曲輪の平坦面にあたる。裸地にコナラ・クヌギが生えていた。
 真冬というのに穏やかな天気であった。下から吹き上げてくる緩やかな風も、どことなく春を感じさせる。
 ふと地面を影が走った。見上げると、山頂を横切った一羽のトビが空に二、三回輪を描き北へ飛んでいった。
 南風が吹いたのか、乾いた落ち葉が北側に吹き寄せられていた。

感状山山頂

 感状山山頂から、北の曲輪を何段か降りると自然林の中のはっきりとした登山道に出た。ここから、ほぼ地形図の破線路に沿って北に三濃山をめざした。
 落ち葉の敷き詰められた快適な尾根道であった。落ち葉と霜柱を踏みしめながら歩るく。ところどころに、ホオノキの大きな葉が落ちていた。
 339.3mピークの横を通り過ぎると、送電線の下に出た。送電線に沿って、その下を西に歩いた。
 小さな谷を越えると、地形図では破線路が大きく南に曲がっているが、道はそのまま送電線の下を羅漢の里・感状山・三濃山の分岐三叉路に続いていた。
 鉄塔の立つこの分岐は道標もあり、ここでひと休みした。

 ここからは、緩やかに起伏する道を、いくつかのピークを越え、北へ北へと進んでいった。ときどき、倒木が道をさえぎっていた。
 尾根が広がったところで道がはっきりしない箇所があったが、木の枝に垂らされたピンクのテープをたよりに進んだ。
 途中、シジュウカラの群に出会った。ギャーギャーとうるさいカケスの鳴き声も聞かれた。
 竹林にぶつかって、小谷を右に見ながら西に進むと、救福教寺の参道下の分岐点に辿り着いた。
 ここには、大きな「三濃山史蹟案内図」が立っている。この図には、三濃山の山頂に「経納山」と記されていた。
 参道をまっすぐに上がると、こじんまりとした救福教寺の本堂が建っていた。本堂の鐘(ドラ?)を鳴らすと、人気のない静かな森によく響いた。

救福教寺

 たどり着いた救福教寺からまっすぐ登ればすぐ三濃山の山頂に着くのだが、その道を見逃してしまい、大きく左に回り込んでようやく山頂に達した。
 先行の三人連れに背後から声をかけると、「どこから上がってきたんですか。」と驚かれてしまった。

 山頂には、老いたアカガシの大木が立っていた。まだわずかに先を伸ばしている細い根に水を与えるため、木の下には給水タンクが置かれていた。
 「赤樫を守る会」の案内板に「必死に生きようとしているこの老木に心を動かされ、有志と樹木医で治療を行いました」とある。
 ほとんど空洞化した幹からわずかに葉をつけた枝が出ている。その葉の間からは、新芽が出ていた。今年もまた、確かにこの老木は春を迎えようとしていた。

帰路、正面池から三濃山の山頂方向を望む
(山頂はここからは見えない)
山行日:2000年2月5日


行き:瓜生 羅漢の里〜羅漢石仏〜感状山登山口〜感状山(305m)〜鉄塔(羅漢の里、感状山、三濃山 三叉路分岐)〜案内板(三濃山史蹟案内図)〜救福教寺〜大きく西に回り込んでしまって三濃山(508.6m)
帰り:三濃山〜救福教寺〜案内板(三濃山史蹟案内図)〜正面谷池〜金出地分岐〜鍛冶谷に沿って羅漢の里
 羅漢の里に車を止め、まずは羅漢石仏へ。石仏を降りたところに、感状山の登山口がある。急な坂をつづらに登ると尾根に出て、北に進むと感状山の山頂に達した。
 そこから尾根道を北にたどり、339.3mピーク、三叉路分岐、434mピーク、472mピーク、救福教寺を経て三濃山の山頂に達する。

 下りは、救福教寺下の分岐を西にとり、正面谷寺に出て、鍛冶屋川谷を南へ下った。

山頂の岩石  感状山:白亜紀 相生層群鶴亀累層 流紋岩質凝灰岩
         三濃山:白亜紀 相生層群鶴亀累層 頁岩

 ふもとの羅漢石仏の周辺の岩は、表面がでこぼこしている。これは、凝灰岩が多くの火山岩塊(10cm程度のものが多い)を含んでいるためである。異質岩片として、チャートも含まれていた。

 感状山の山頂付近は、流紋岩質の凝灰岩である。石英、長石の結晶を多く含んでいる。また、角閃石の黒くて細長い結晶も観察できる。基質はやや緑がかった灰色で少し粗い感じがする。石仏周辺のように大きな火山岩塊は見られないが、1cm以下の泥岩の岩片が含まれていた。。

 感状山から三濃山への尾根は、凝灰岩が広く分布している。
 434mピークと472mピークの間には、表面がなめらかに丸まった花崗閃緑岩が転がっていた。ハンマーでたたくとタマネギの皮のように表面がうすく割れる。ここでは、凝灰岩の中に花崗閃緑岩が貫入している。

 三濃山の山頂に近づくと岩石は一転して、真っ黒い頁岩(けつがん)に変わる。これは、泥が堆積して固まった泥岩がその後さらに押し固められて、薄くはがれやすくなった岩石である。

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