暁 晴 山 @(1077.2m) 神河町・宍粟市 25000図=「長谷」
坂の辻峠から町界尾根をたどって峰山高原へ
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| 峰山高原(1015mピークより) |
兵庫県の中央部に、標高1000mの高さで広がる峰山高原。高原の周囲はいくつのも残丘で囲まれ、最高点は暁晴山の1077.2mに達している。
峰山高原は、その位置と高さから兵庫の屋根と呼ぶのにふさわしく、また、岩塊流・化石周氷河斜面など氷期に形成された貴重な地形を残している。
高原の中央部に新しくホテルが建ち、そこまで気軽に車で上ることができる。今回、坂の辻峠から、1002mピーク(点名平野)を経て峰山高原までたどった。
薄日の差す穏やかな朝であった。峠越の道沿いには、ウツギの花が満開となってあちこちに垂れていた。
二体の地蔵さんが祀られた板の辻峠には、南からは林道が延びてきていたが、北の尾根への取り付き点は見当たらなかった。峠の少し下から草木を分けてスギの林内に入り込んだ。斜面を上って尾根に出ると、スギ林の中に一筋の切り開きがあった。
この切り開きを北へ進んだ。一匹のアサギマダラが、目の前をふわりと飛んでいった。
スギの落ち葉は、やがてアカマツの落ち葉に変った。アカマツにコナラやアセビの混じった雑木林となり、林間にコガクウツギが白い花を際立たせていた。
尾根は、再びスギの植林地となった。あたりには、スギの葉のにおいがかすかに漂っていた。一本の木に、「雪彦山⇔峰山」と記された標識が架かっていた。かつては、縦走路として岳人たちが歩いた道だったのだろう。
標高880m地点は南側が伐採されていて、染河内川を隔てた山並みが一望できた。その山並みの稜線を送電線がほとんど真っ直ぐに伸びていた。
ここから、尾根上には鹿よけネットが張られていた。鹿よけネットに沿って急登した。風化によって丸くなった花崗岩が表れ始めた。
1002mピークは、なだらかな広いピーク。アカマツがまばらに生えている。ササと倒木の間に三角点を探したが、とうとう見つからなかった。
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夜鷹山(左)と大田池(右)
(1002mピークより) |
暁晴山
(951mピークより) |
電波塔の林立する暁晴山を見ながら急坂を下り、上り返すと951mピークに達した。展望の良いピークであった。北に峰山高原の南側を縁どる丘が見え、丸く飛び出した夜鷹山の右には太田池をのせた高原が広がっていた。
951mピークを下ると中坪峠。ここには、道が3方向から集まっていた。北へも道は伸びていたが、自然林の中の町界の切り開きを上っていった。コナラやクリの葉はまだ瑞々しく、緑色の木漏れ日が林内に射し込んだ。
尾根を進んでいたのに、町界はその両側が平らになり、ついには浅い谷となった。谷の真ん中はやや高まり、そこには半ば埋もれかけた小規模の岩塊流が連なっていた。
複雑な地形を観察しながら進んでいくと、町界尾根に沿って人工的な土手が現れた。土手の上を上っていくと1015mピーク。峰山高原を縁取る残丘の一つである。ここから、暁晴山、1054mピーク、1037.9mピーク、夜鷹山にぐるりと囲まれた峰山高原を見渡すことができた。
土手の上を下った。ミズナラがふえてきた。土手の上にはアセビの木が大きく茂り、行く手をさえぎられた。そのたびに土手を下りて、ササを分けて進んだ。目の前を、小鹿が駆け抜けた。
黒土の湿った小さなコルを過ぎて上り返すと、きれいに整備された道に出た。この道を横切り、再び町界尾根にもぐりこんだ。町界には、まだ土手が続いていた。土手の高さは2mほど。ところどころ、シカが通り道として使っているのか低くなっていた。根元から何本もの幹に分かれた古くて大きなリョウブが立っていた。
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暁晴山
(1015mピークより) |
リョウブの木 |
土手の上は、もう歩けなくなった。土手を下りて、ヤブの中を進んだ。ヤブはしだいに深くなり、ササやアセビ・ツツジの細い幹が体にからんだ。頭から倒れ込むように強引に突っ込んだ。やっとの思いでヤブを抜けたところが、暁晴山の山頂だった。
電波塔の下に座ると、北風が心地よく吹き抜け、火照った体を冷やしてくれた。一等三角点の埋まる山頂からは、四方をぐるりと見渡すことができた。
黒尾山、日名倉山、後山、三室山、氷ノ山、藤無山、妙見山、千ヶ峰、笠形山……中国山地東端の1000m級の山々がずらりと並んでいる。
眼下には、侵食から取り残されたいくつかの残丘の中に峰山高原が広がっている。中央部には新しいホテル。高原を歩けば、幾本かの岩塊流を目にすることができるだろう。
ホトトギスやカッコウの声を聞きながら、はるか昔、氷期の地形形成に思いを寄せた。ニシキウツギやタニウツギが花を風に揺らせていた。
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| 暁晴山山頂より峰山高原を望む |
タニウツギ |
山行日:2008年6月14日