三熊山(洲本城跡) 125m  洲本市  25000図=「洲本」「由良」


豊かな樹林と礫岩の石垣


大浜海岸から三熊山を見上げる

 白砂の続く大浜海岸から南を見上げる。三熊山がこんもりと盛り上がり、山稜に頭を出した模擬天守に薄日が射していた。
 三熊山の山頂部に築かれた洲本城は、縄張りが東西約800m、南北約600mにおよぶ。城の建物は失われたが、大規模な石垣が残され天守台には模擬天守が築かれている。

三熊山コース図(登山口「三熊山案内図」に赤矢印を記入)

 車道に面して、大きな「三熊山登山口」の標石が置かれていた。標石は円礫が固まった礫岩でできている。三熊山の礫岩を、はやくもここで見ることができた。

礫岩でできた「三熊山登山口」標石

 ホテルの間の坂道を登り、最初の分岐を右に進んだ。山の斜面にコンクリート道が延びている。
 あたりは、うっそうとした森。イヌマキの若木が多く生えている。
 イズセンリョウの薄く褐色に染まった実が、薄暗い森の中で目立つ。
 ヤブツバキの実は三つに裂けて、果皮だけを残していた。別の枝では、花芽が少しふくらんでいた。

イズセンリョウの実 開いたヤブツバキの果皮

 イヌマキの大木が斜めに立っていた。樹肌のらせんにねじれた盛り上がりが風格を感じさせる。
 カクレミノの葉が3分の1ほど黄色くなっていた。木の下から見上げると、緑の葉も黄色の葉も日を透かせて美しい。

 道の脇にひとつの記念碑が立っていた。「松澤重太郎先生碑」である。松澤は、横浜出身ながら1902年(明治35)から22年余り洲本中学校に勤務し淡路島の動植物・鉱物などを調べた。中でも三熊山を愛し、三熊山を植物の宝庫として世に紹介した。
 松沢の論文「植物学上より観たる三熊山の真価」(兵庫生物 第2巻4/5号 兵庫県生物学会 1954)は、松沢の死後に発表された。
 この論文で、松沢は三熊山の木本植物を列挙し、菌類や地衣類の種類の多いこともあげて三熊山の自然の保護を訴えている。
 記念碑には「先生は三熊山を好愛し、一木一石を明にし」と刻まれ、裏には「昭和24年7月16日没 享年74」と記されている。

イヌマキ

 記念碑の先で道が分かれていた。直進する道は、石垣工事のために通行止め。そこには、三熊山の岩石が和泉層群の地層であることを記したプレートが立てられていた。

 ここまで道の数ヵ所で礫岩の地層が見られた。ところどころに粗粒な砂岩の地層がはさまれている。ここに分布しているのは、和泉層群の地層である。
 和泉層群は、中央構造線の北側に四国西部から淡路島南部を通り和泉山脈まで東西約300kmの長さで細長く分布している。
 和泉層群の地層は、後期白亜紀の約7000万年前頃に前弧海盆に堆積したもので、今よりずっと大規模に分布していた。それが、新生代になって古中央構造線の活動により領家帯などとともに隆起して多くが削り取られたと考えられている。

和泉層群の礫岩層

 直進できないので、この分岐で大きく左へ折れる道に進んだ。すぐに八王子神社の鳥居が立っていて、その先は林の斜面に細いコンクリート道が続いていた。
 やがて急坂となって、道は幾度も折れて上っていた。道の脇には、礫岩から飛び出した丸い小石がいくつも転がっていた。
 途中から、地層は砂岩に変わった。粗粒の砂岩で、細粒層をはさんでいるため層理面がわかりやすい。

八王子神社へ続く道 和泉層群の砂岩層

 道の脇に、石垣が現れた。何段かの石垣を縫って登るとその上に平地があって、奥に八王子神社が鎮まっていた。
 巨岩が重なり、地面と巨岩との間に小さな社が建てられている。社の屋根に岩がのしかかっているように見える。

八王子神社

 巨岩は、礫岩と砂岩の互層。礫岩と砂岩が複雑に指交するようすや、礫岩の丸い礫が一列に並んでゆるくしゅう曲しているようすが観察できた。
 八王子神社は、洲本城の北東にあって鬼門を封じているといわれている。境内は、赤や黄の落ち葉に敷き詰められていた。

八王子神社の巨岩
(礫岩と砂岩の互層)
指交する礫岩と砂岩
(円礫が一列に並んでいる)

 神社の上は、十二支を祀った赤い鳥居と祠が並ぶ参道。ここを抜けると、洲本城の「八王子木戸」と呼ばれている虎口に達した。
 ここはもう、洲本城の広い縄張り。張り巡らされた石垣の間を歩いた。
 石垣は自然石を使った「野面(のづら)積み」や割り石を使った「打込みハギ」。割り石は横長に積まれ、横目地が通るように組まれている。

洲本城の石垣群
 
洲本城本丸東石垣
(左は野面積み、右は打込みハギ、隅角は算木積み))

 石垣の石は、ほとんどが礫岩と砂岩。三熊山周辺に分布する和泉層群の岩石である。礫岩は、礫とマトリクスが分離しやすく硬さも不均質なので加工しにくい。こんなに多くの礫岩が使われている石垣は珍しい。
 石垣の石はおもしろいが、城の石垣はとくにそう。
 この秋訪れた高知城は、四万十帯のチャートが主に使われていた。和歌山城は三波川変成岩、犬山城は美濃帯のチャートなどの堆積岩、いつも見ている姫路城は後期白亜紀の凝灰岩である。
 城の石垣の石は、その地域の地質を色濃く反映している。

本丸大石段と本丸南石垣
(石垣は横目地がよく通っている)

 本丸の石垣と、その石垣に沿って斜めにつけられた大石段は、石積みの圧巻。
 石垣は割り石が使われているので打込みハギといえるが、荒い加工なので野面感がある。一つひとつの石が横長に積まれ、横に目地が通っているのでリズム感がある。
 石垣を見ながら、大石段を登った。石垣の間に、一輪のヒナギキョウが青紫の小さな花をつけていた。

石垣の礫岩と砂岩 石垣に咲くヒナギキョウ

 本丸は広場になっていて、一本の大きなクスノキが立っていた。本丸の北側に天守台の石垣が築かれて、この上に白壁の模擬天守が建っている。
 ここには大天守と小天守を櫓でつないだ連結式天守があった。現在の模擬天守は、1929年(昭和4)に築かれたもので、模擬天守としては日本最古といわれている。

洲本城本丸

 三熊山に初めて白を築いたのは、紀州熊野水軍出身の安宅(あたぎ)氏。室町時代の後期で、土塁や柵で造った「土の城」だった。
 「本能寺の変」後の1582年(天正10)、羽柴秀吉配下の仙谷久秀が城主となり、四国攻めの前進基地となった。
 1585年(天正13)には、同じく秀吉配下の脇坂安治が城主となり、1609年(慶長14)までの24年間の在城中、現在見られる「総石垣の城」を築いた。洲本城は、大阪城や大阪湾、紀淡海峡を守る役割をここで担った。(以上、「国指定史跡 洲本城跡(淡路島観光協会)」より)。

 石段を登り、大きなスダジイの木の下をくぐって天守台へ。天守台は絶好の展望地で、いくつかベンチが設置されている。

スダジイをくぐって天守台へ

 北には大浜海岸の白い砂浜と松林。洲本港の突堤の先に青い海が広がっている。そこから淡路島の海岸線が北へと続いている。
 ずっと向こうの高い山は妙見山。明石海峡大橋の主塔が青い山影の上に見える。
 淡路島の島影はそこから東へと高度を下げ、対岸の神戸市の市街地の白色に溶け込んでいた。

洲本市街と大浜海岸(北の風景)

 北西で洲本市の市街地の向こうに尾根を長く引いているのは先山。先山のふもとからゆるやかに高度を下げている低地は、洲本川のつくった大きな沖積平野へと続いている。

先山と洲本市街(北西の風景)

 東も木々の間から眺めることができた。大阪湾に友ヶ島が浮かんでいる。その先に、和歌山県の山影がかすんでいた。
 南は眼下に武者走り台の石垣が曲線を描き、その向こうに山々が重なっている。空を区切る稜線は、柏原山から兜布丸(かぶと)山へと続いていた。

 紅葉が見頃の秋の一日。地元の人たちや観光客も見かけたが、静かな城跡だった。
 帰路は、城跡を東へ進み武者溜(むしゃだまり)からふもとへ下った。

柏原山から兜布丸への稜線(南の風景)
  
山行日:2025年11月15日

大浜公園駐車場~登山口~八王子神社~洲本城跡~武者溜~登山口~大浜公園駐車場 
 大浜公園の東端に、海に突き出た駐車場がある(無料)。近くにトイレもあって、ここに駐車するのが便利。
 登山口には、三熊山案内図が立っている。この図の、「おすすめ遊歩道 最短コース650M」は、石垣工事のために通れなかったので、分岐から八王子神社を経由するコースをとった。
 帰路は、城跡を東の武者溜へと進み、そこから遊歩道(一部車道)を下った。

山頂の岩石 後期白亜紀 和泉層群北阿万層 砂岩または礫岩
 三熊山には、和泉層群北阿万層が分布している。歩いたコースでは、礫岩と粗粒~中粒砂岩が見られた。
 山頂の城跡では、露頭を見出すことができなかった。

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