古城山(609m)・太盛山(611m)・釜床山(648.8m) 
朝来市    25000図=「生野」「但馬新井」


銀山の町を見下ろす古城山から釜床山へ

JR生野駅と古城山

 古城山は、生野銀山発祥の地と言ってもよい。天文11年(1542)の古文書「銀山旧記」に、城山の南表に銀石を初めて掘り出したと記録されている(生野で銀が発見されたのは、大同2年(807)とも伝えられている)。
 明治の写真を見ると、古城山は木のまったく生えていないはげ山であった。鉱山の精錬所から出る排煙によって植物がすっかり枯れてしまったのである。その山も、今は豊かな緑に包まれて、銀山の町生野を背後から静かに見下ろしている。

1.古城山へ

びわの丸公園展望台より口銀谷の町を見る

  今年の梅雨は、この日一気に明けた。古城山の南麓、びわの丸公園の上空には、夏の雄大積雲が次々と流れていた。
 S字に曲がる長いすべり台に沿った石段を登った。歩道の横に、戦国時代初期のものと推定されている間歩(まぶ)があった。公園の建設中に偶然発見されたという。のぞき込むと、大きなヘビノネゴザが穴をふさいでいた。
 公園の一番上にある展望台に登ると、口銀谷の町並みを見渡すことができた。銀山の町として、華やかな文化を発展させてきた生野。今もその香りを色濃く残している。
 私の祖父はここに住み、鉱夫として金香瀬坑に入っていた。そして、当時の多くの鉱夫がそうだったように珪肺で死んでいった。三年三月十日の修行を経て一人前の鉱夫になった証「昇進免状」だけが、実家に残されている。

 展望台の少し下に、古城山への登山口があった。道は草むらの中にほとんど消えかかっていた。マムシを警戒しながらおそるおそる進んでいくと、目の前が突然ガサッと動いた。シカの茶色の毛と白い尻が飛び出し、飛び去っていった。シカも驚き、私も驚いた。
 山は、昨日までの雨でじっとりと湿っていた。タケニグサが、白く細い花弁を開いていた。つづらになった道を登っていくと、下草も少なくなり、道が開けてきた。

 標高450mの尾根上に、広い平地があった。びわの丸と呼ばれていた曲輪である。アセビやソヨゴにおおわれて、今は見通しがきかない。アカマツの葉にチクチク刺されながら進んでいくと、イノシシの大きなヌタが茶色の水をたたえていた。
 びわの丸を過ぎると、道は尾根の東側をつづらに上っていた。ウリハダカエデが、大きな葉を広げていた。雑木林の中は湿っていて、「今はヒルがいっぱいおって……」という生野書院の館長さんの言葉を思い出した。
 標高540mの地点にも小さな曲輪跡があった。さらに登って590mを越えると、広い台地状の平地に出た。平地の端に、「二の曲輪」と書かれた白い標柱が立っていた。
 曲輪の中の道は、うっそうと茂ったシダに没していた。少し戻って、木の枝を折り取り、その枝で足先をたたきながら進んだ。近くでウグイスが、のどかに鳴いていた。

 シダの草むらを抜けて一段上ると、古城山の山頂、主郭跡に達した。

古城山「二の曲輪」跡 古城山山頂(主郭跡)

 応永3年(1427)、山名時煕(ときひろ)は将軍足利義持に赤松満祐の討伐を命じられて、ここに山城を構えた。山頂に主郭をつくり、派生する尾根上に大小の曲輪を配した。今は、石垣などがわずかに残っているのに過ぎないが、生野の人々はこの山を「御主殿」と呼び続けてきた。
 主郭跡は、いびつな四角形をしていた。まわりはどこも急角度で落ちている。眼下に広がる口銀谷の町は、多量の水蒸気によって白くくすんでいた。西に高星から平石山の稜線が雄大に伸びていた。

古城山より平石山を望む 夏雲と八幡山

2.太盛山へ

 山頂から、北側に連なる曲輪跡に下り、そこから尾根を北東へ進んだ。
 雑木を抜けると、足元からまっ逆さまに麓まで落ちる絶壁に行き当たった。大規模な採石がなされ、山の南側がここまで大きくえぐり取られていた。下をのぞき込むと、真下に沈殿池がある。その向こうに工場の建物が並び、3つの丸い沈殿槽が緑色の水を張っていた。
 向かいの崖の上に、太盛山の山頂(611m)が見える。そこから、崖の上の尾根を南に目でたどると、煙突が一本立っていた。煙害を減らすために明治32年(1899)に作られた排煙用の煙突で、遺構として残されている。

太盛山の採石地 太盛山

 しばらく崖の上を回りこむようにして進んだ。この尾根は、中央分水嶺にあたっているが、新旧の地形図を比べてみると採石が分水嶺に届いていることが分かる。
 崖の上にテラス上の平地があったので、そこへ下りて石を叩いてみた。石は凝灰岩。一部がろう石化していて、その中に緑泥石ができていた。何か光るものがないかと探したが、見つけることはできなかった。
 主稜線を離れ、太盛山山頂へ向かった。道はなかったが、下草がシカにすっかり食べられていて自由に歩けた。広い丘の上の、大きなホウノキの下が太盛山の山頂だった。山頂からわずかに下ったところに、新しい金属標の四等三角点が埋められていた。
 いつの間にか夏雲が全天をおおい、吹く風もひんやりとしてきた。その風に、葉音もなにやら大きくなってきた。少し急ぐことにした。

3.釜床山へ

 主稜線に戻り、北へ向かった。意外にも、雑木の中に広くて快適な道がついていた。
 600mのピークを越えたところで、展望が大きく開けた。送電線鉄塔の向こうに釜床山が姿を現し、その東に法道寺山(806.5)がたくましくそびえている。さらにその東の奥にもっつい山(775.7)の山頂部が見えている。どれも中央分水嶺をつなぐ山々である。
 空は、ここへきて再び安定した。くずれた積雲が、重なる山並みの上をゆったりと流れていた。
 道が細く、踏跡のようになってきた。ときどき赤い杭が現れた。植林されたヒノキが混じってきた。
 523mの標高点を過ぎると、送電線の手前がコルになっていた。ここから、道が尾根の西側に伸びていた。釜床山を巻き、北の鷲原寺へ抜ける道である。途中までこの道を利用することにした。
 送電線をくぐると、小さな沢があって、その傍に石仏が立っていた。そこから、もう一体の石仏に出会ったあと、この参拝の道から分かれ、踏跡をたどってもとの主稜線に出た。

 15時ちょうどに、釜床山の山頂に達した。山頂は広く開かれ、セミの声が大きかった。広場の周りは、コナラ、アセビ、ネジキ、ホウノキなどの自然林。それらの木陰に入ると、木漏れ日もまばらで涼しかった。 

登路より見る釜床山 釜床山山頂

 山頂を北へ下った。急な下り。クロツグミの鳴き声が、林の中をよくとおった。
 北に進むと鷲原寺に抜けるが、今日はこの道から分かれて、竹野原へ下る予定だった。その分岐がなかなか分からない。地図と高度計で見当をつけて、間伐されたスギ林を下ると、谷につづらにつけられた道に出合った。
 この道を下り、沢が合流した地点から林道を南に向かうと、ヘアピンカーブ地点(銀山湖手前)にデポした自転車が見えた。
山行日:2010年7月17日

びわの丸健康公園〜古城山〜太盛山〜523m〜釜床山〜標高540m分岐〜生野ダム手前ヘアピンカーブ地点(標高360m)=(自転車)=びわの丸健康公園
 びわの丸公園から古城山山頂まで、登山道が通っている。古城山から、採石場の縁を回り込んで太盛山山頂へ。太盛山から、主稜線を釜床山にたどり、そこからさらに北に進んだ後、竹原野に下った。
 この時期、マムシやヒルの注意が必要である。今回、尾根上で2匹のマムシと出会った。また、ふくらはぎにヒルの吸い跡ができていた。

山頂の岩石 古城山 → 後期白亜紀〜古第三紀 安山岩
        太盛山・釜床山 → 後期白亜紀 生野層 火山礫凝灰岩
 古城山から釜床山には、後期白亜紀の生野層が分布している。また、一部に安山岩が貫入している。

 古城山の山頂付近には、帯緑灰色で緻密な安山岩の貫入岩体が分布していた。斑晶として、柱状〜板状の斜長石(max.5mm)、柱状の輝石(max.3mm)を含んでいる。弱い鉱化作用を受けていて、黄銅鉱と方鉛鉱がわずかに認められた。
 太盛山山頂付近には、風化した火山礫凝灰岩が露出していた。石英・長石・黒雲母の結晶片を含んでいる。採石場の崖の上部(標高550mあたり)に、南にゆるく傾斜する層理の発達した堆積岩の地層が観察された。この地層の露頭として、太盛山山頂北の尾根上で葉理の発達した細粒砂岩が観察された。
 釜床山山頂のすぐ下には、火山礫凝灰岩が分布していた。緑〜褐色で、風化による変質が著しい。チャートの岩片を含んでいた。

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