上月城跡(荒神山194m)〜目高の築地(後山405.1m)
佐用町   25000図=「上月」


上月城跡からハイキングコースを歩く

 天正5年(1577)〜天正6年(1578)の半年間に、2度も落城した上月城。その城は、佐用町荒神山に当時の縄張り跡を残している。

 今日は、まず上月城跡に登り、そこから尾根伝いに後山(405.1m)の砦跡「目高の築地」まで歩いた。

 上月歴史資料館を前にした山際が登山口。説明板の下に貼られた、「まむしに注意!!」「ススメバチに注意!!」が新しい。
 小川に架かる小さなコンクリート橋を渡って山道に入った。いきなりの急登に丸太階段がついていた。

上月城跡登山口

 この夏は、ここまでよく雨が降った。道の土は、昨日までの雨をふくんでじっとりと湿っていた。頭上で、ミンミンゼミやツクツクボウシがにぎやかに鳴いている。これはいつもの年と同じで、何か安心する。
 急な坂道を登ると、尾根に出た。雑木の中に木漏れ日が射し込み、木の幹や地面の落ち葉をまだらに照らした。
 
尾根へ

 休郭と呼ばれている小さな平坦面の上に出ると、北への見晴らしが開けた。眼下に作用川がゆるく曲がって流れ、その向こうの尾根に、西はりま天文台「なゆた」のドームが白く光っていた。
 そこからは、道の傾斜がゆるんだ。コナラやリョウブの林を、木漏れ日を浴びながら進んだ。
 堀切を越すと、木々が疎らになり、地面にササが生えてきた。2段の郭跡を左に見て登り詰めると、上月城主郭跡(194m)に達した。

 平坦にならされた城跡は切り開かれ、その端に3基の供養碑が立っていた。中央が、秀吉に攻められて自刃した赤松政範のもの。その左右の供養碑には、合戦で命を落とした人々の名が刻まれていた。

上月城跡(荒神山山頂)


 天正5年、信長の命を受けて播磨制圧をめざす秀吉は、ここ上月城に兵を進めた。秀吉軍は、12月3日、場内に攻め入り、城兵の首をすべてはね、城内の女子ども200余人をはりつけや串刺しにしたという。
 その後、上月城には秀吉側の尼子勝久と山中鹿介の主従が入ったが、翌年の4月、毛利方3万の軍勢に取り囲まれて孤立し、7月4日に開城した。尼子勝久は自刃、山中鹿介は護送中に殺された。

 戦乱の世、激しい戦いの地となった上月城の城跡は、今は静かに鎮まって、クヌギやナラガシワの葉が微風に揺れていた。地面をカナヘビがカサカサ音を立ててはった。

 主郭跡から尾根に沿って、細長く縄張りが続いていた。ゆるく下って上り返したところが二の郭。その先に、北に開けたところがあった。案内板の観望図を見て北に利神城を探した。利神城は、低く重なる山並みの中に、天守台を浮かべていた。
 

利神城方面を望む

 城の縄張り跡を過ぎると、急な下りとなった。7,8mの崖を下ったところが、西側の堀切。その先の165mコルに、下山道が分かれていた。

 このコルから、尾根伝いに南に向かって「上月城跡 歴史と自然の遊歩道」が整備されていた。この道をゆるく登っていくと、休憩処のベンチが置かれていた。
 樹脂製のベンチの上に、ソヨゴのまだ青い実が2つ。山の中で、このベンチだけが乾いていた。座って、早めの昼食にした。

雑木の遊歩道 ベンチにソヨゴの実

 そこから、傾斜のない道がしばらく続いた。道の赤土はぬかるんでいて、水の浮いたところには丸太が縦に渡されていた。小さなカエルが、足元ではねた。
 道がようやく上り出したところにサクラの木が立っていて、「きたがたの大桜」というプレートがかかっていた。見上げると樹冠が大きく広がっている。葉のすきまから見える空は、白い雲におおわれていた。
 湿った落ち葉が降り積もった道が続いた。落ちた木の枝もくさりかけていて、踏むとフワッと柔らかい感触が伝わった。
 雑木林がスギやヒノキに変わり、林内はさらに暗くなった。手入れされていない植林には広葉樹が混じり、ホオノキの大きな葉がところどころに落ちていた。

 標高300mの小ピークは砦跡。この高みを北に巻いてつけられていた道は、ここを通過するように変更されていた。
 ついさっき雨が降り始めたと思ったら、もう日が射し込んできた。砦跡ではアベマキの葉がまぶしく光り、セミの声がまた大きくなった。

砦跡

 砦跡を下ると、土塁状の通路が20mほど伸びていた。これも、城の遺構かもしれない。このあたりから、道が荒れ始めた。倒木が増え、道は掘られて溝のようになっていた。
 道が曲がったところに、2度目のベンチが現れた。少し風が通ったので、ここでも休んだ。

 さらに進むと、柊神社との分岐に出た。柊神社まで100m。2基の石燈篭の間を抜けると、古くなった社殿が見えた。もう訪れる人も絶えているのか、祀られたシキミの葉は茶色に乾燥していた。黒いアゲハが、社殿の前をひらひらと横切った。

 分岐に戻り、広くなった道を西へ進んだ。
 「キョッ、キョッ、キョッ」・・・。キツツキの鳴き声に双眼鏡を向けると、アオゲラだった。ヒノキに止まったアオゲラは、枝の高さまで幹を上ると、どこかへ飛んでいった。

 道の左右に竹林が現れた。標高365mまで登ると、次の分岐に達した。もうここは、「目高の築地」と呼ばれている砦跡。この分岐を南へ登ると「南の砦」、北へ登ると後山山頂の「北の砦」である。
 まず、踏み跡を探して南の砦へ向かった。標高385mの高みに「大成の南の砦」という標識があったが、木々に埋もれて人口の跡がほとんど分からなかった。
 次に、木漏れ日のヒノキ林を北へ向かった。道に、イノシシのヌタ場がひとつ。ヒノキ林を抜けると、また雑木林になった。
 倒木だらけの荒れた林。ところどころに、風化に残った花崗岩の丸みを帯びた岩が転がっている。道は判然とせず、どこかに迷い込んだよう。
 赤いテープを頼りに、木々を抜けて進んだ。最後の急坂を登り切ると、一気に明るい日差しの中に飛び出した。
 そこが、後山の山頂「目高の築地」の北の砦であった。

目高の築地 北の砦(後山山頂)

 山頂は切り開かれていて、ここだけ地面が乾いていた。ノボロギクの黄色の花は枯れ、白い綿毛が開き始めている。タケニグサが、実を大きくしていた。
 切り開きの真ん中に、三角点が埋まっていた。「目高の築地(つんじ)」は、北の砦と南の砦を結ぶようにコルを横断して曲輪や土塁が築かれている。戦国時代の砦跡と考えられていると、説明板に書かれていた。
 曇ったり、晴れたりを繰り返した一日だった。空を見上げると積雲が連なるように広がっていたが、山頂の上だけぽっかりと青空が広がっていた。

山行日:2014年8月19日


上月城跡登山口(上月歴史資料館前)〜上月城跡(荒神山山頂)〜きたがたの大桜〜砦跡(標高300m)〜柊神社〜目高の築地(後山山頂)〜利他の花咲く村=(自転車)=上月城跡登山口
 上月歴史資料館前の登山口を確認して、寄延と目高の集落を抜け後山のすぐ北の峠まで車で上がる。ここには「利他の花咲く村」があり、その柵の外側に自転車をデポする。
 登山口に戻り、そこから歩き始める。遊歩道の地図は、パンフレット「時を越え戦国の地へ(佐用町観光協会)」にあり、道の駅や上月歴史資料館で手に入れることができる。
 「上月城跡 歴史と自然の遊歩道」のコースに沿って歩き、自転車で下った。
 

山頂の岩石  上月城跡 → 三畳紀 超丹波帯 頁岩
          後山(目高の築地) → 斑れい岩(周辺は花崗閃緑岩〜トーナル岩)
 この山域には、超丹波帯の地層が分布している。歩いたコースでは、褐色の頁岩が卓越していた。頁岩は、暗灰色〜黒色のことがあったり、粒度が大きくなって細粒砂岩に漸移している部分もあった。上月城跡山頂付近でも、褐色の頁岩が見られた。

 柊神社〜後山山頂手前あたりには、花崗閃緑岩またはトーナル岩が見られた。中粒で、長石(主に斜長石)・石英・普通角閃石・黒雲母(少量)から成っている。
 後山山頂を中心とする狭い範囲で、斑れい岩が見られた。粗粒〜細粒まで、粒度が変化し、主に輝石と斜長石から成っている。輝石と斜長石の割合は多様で、一部に輝石のみが濃集している部分もある。輝石は、ダイアレイジ様に裂開が発達していることがある。
 花崗岩〜トーナル岩、あるいは斑れい岩の時代や周囲の地層との関係は不明である。

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