国府山(98m)  姫路市   25000図=「姫路南部」


官兵衛の見た景色、国府山城跡

御旅山への登路より望む国府山

 国府山(こうやま)は、市川の河口に位置する標高98mの小さな山である。地形図には、甲山(こうやま)と記され、古くはいさほし山と呼ばれていた。
 元弘3年(1333)、妻鹿孫三郎長宗が居城を置いたと伝えられ、その後、天正8年、羽柴秀吉に姫路城を譲った黒田官兵衛がここに移った。大河ドラマ「軍師官兵衛」の放映が始まると、この小さな山も一躍脚光を浴びることになった。

 登山口は、南西麓の荒神社。境内には「妻鹿城跡」の石碑が立ち、国府山城跡の地図や説明版、黒田家が財を成したメグスリノキなどが並んでいた。
 日曜日の今日は地元ガイドもいて、「国府山城想像絵図」を見せてもらった。その絵には、山全体が幾重にも曲輪に囲まれた要塞が描かれている。山頂には本丸が置かれ、山の西に突き出たところに天守が建てられていた。
 ガイドさんに官兵衛や秀吉の辞世の句を見せてもらい、それがよく読めたとほめてもらってご機嫌な妻と、石段の上の拝殿で手を合わせた。

官兵衛の幟の立つ荒神社

  神社から、山道に入った。冬枯れの雑木林に、ヒサカキやマメツゲ、アオキが緑の葉をつけている。ところどころにシュロが立っていた。
 道はよく整備され、林内には柔らかな木漏れ日が降り注いでいた。
 道はつづらになり、城の遺構が現れ始めた。石で囲まれた「井戸跡」のくぼみには、落ち葉の上に水がたまっていた。
 道が平らになると、「門石跡」。次の「かまど跡」の標識に沿って左に折れると、枝を大きく広げたモチノキが立ち、その下に7,8個の石が丸く並べられていた。

門石跡あたり モチノキ

 また、少し登ってクスノキの下をくぐると、送電線の下に広場が開けていた。「馬駆け」の標識が立つこの広場を西に進むと、市川に向かって突き出た地点に達した。送電線鉄塔の下に、「甲山経塚」の説明版が立っていた。

経塚と市川河口

 道はここで北へ折れていた。ゆるく登っていくと、「廓跡」「土塁跡」「狼煙廓」「二層の隅櫓跡」などの標識が次々と現れた。曲輪や土塁はどれも低くて、よく見ないとそれと気づかないぐらいだった。ヒトツバの群落があった。
 ウバメガシの小判型の落ち葉を踏んで林を抜けると、国府山の山頂だった。

国府山山頂からの景観

 山頂は、北西方向に切れ落ちていた。眼下に横たわる市川の流れは、ほとんど止まったように播磨灘にそそいでいる。河口の先には家島の島々がかすんでいた。
 市川の向こうには、姫路の市街地が広がっていた。その中ほどに、修理のための幕でおおわれた姫路城が小さく見えた。

 今日は、妻と二人の歴史ウォーク。山を下りた後、官兵衛の父職隆の廟所と元宮八幡神社にある「母里太兵衛生誕の地」の記念碑を訪れた。

山行日:2014年2月23日

荒神社〜馬駆け〜甲山経塚〜国府山山頂〜磐座跡〜馬駆け〜荒神社
 荒神社の下に車を止め、神社から山頂へ向かった。山頂部には、ぐるりと城跡を一周できる道が整備されている。山頂には丸いコンクリート製の椅子が置かれ、大きな写真による案内板が設けられていた。
 黒田職隆廟と母里太兵衛生誕の地記念碑は、妻鹿の街の中にある。荒神社から、歩いて10分くらいである。

山頂の岩石  後期白亜紀 伊勢累層 流紋岩質溶結火山礫凝灰岩
 国府山の岩石は、溶結した火山礫凝灰岩である。無色透明石英、白色の斜長石、ピンク色のカリ長石の結晶片を含んでいる。有色鉱物として、黒雲母と普通角閃石が含まれているが変質している。石英は融食している。

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