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甑岩(こしきいわ)で見る六甲花崗岩 甑岩(こしきいわ)は、西宮市越木岩神社にある大岩です。周囲約40m・高さ10mといわれ、酒米を蒸す「甑(こしき)」に似ていることから名付けられました。 甑岩は古くからこのあたりの「産土神(うぶすなかみ)」としてあがめられ、越木岩神社のご神体として祀られています。この岩の名前から、神社名や町名も起こりました。 1.越木岩神社と甑岩 大鳥居から社叢林(しゃそうりん)の中の参道を進むと拝殿が建っています。拝殿で手を合わせてその先に進むと、石段の上に「甑岩大神」の扁額のかかる鳥居がありました。 その鳥居をくぐると、小さな祠のうしろに大岩が立っています。甑岩です。
岩は節理によって大きく割れ、いくつかの岩が重なっているように見えます。下部にはぐるりとしめ縄が巡らされ、岩肌には木々の葉が濃い影を落としていました。 越木岩神社は市杵島姫(いちきしまひめ)を御祭神とし、古くから女性守護・安産・子授けに御利益があると信仰を集めてきました。ご神体の甑岩は名所としても有名で、この日も多くの人たちがここを訪れていました。
甑岩を見たあと、北へゆるく登っていくと岩盤が大きく現れていました。岩盤の上には、節理によって割れた岩が重なっています。この前に「雨乞社」の祠があって、貴船大神と龍神が祀られています。 この岩盤を回り込むように登ったところが小山のてっぺんで、ここに「北の磐坐」がありました。男性神として数個の石が並んでいますが、この並びには人工が加わっているかもしれません。
2.甑岩の花崗岩 甑岩は花崗岩からできています。岩のまわりをぐるりと見て回り、岩肌がいちばんきれいなところで観察しました(写真下)。 中粒の花崗岩で、主に斜長石・カリ長石・石英・黒雲母からなり角閃石をふくんでいます。斜長石は白色、カリ長石は淡ピンク色、石英は灰色透明です。この中でカリ長石の結晶が大きく、多くの部分が斑状花崗岩といえます。 黒く見える鉱物の大部分は黒雲母ですが、柱状の角閃石の結晶も見られます。
甑岩の花崗岩は、六甲山地に広く分布している六甲花崗岩です。甑岩は、その分布地域の東端に近く、芦屋断層と甲陽断層にはさまれた地域に位置しています。
下図は、甑岩周辺の地質図です。甑岩の花崗岩は、六甲花崗岩の本体とは離れて中位段丘堆積物の中に基盤岩として小さく分布しています。 この地域の六甲花崗岩は、周囲を大阪層群や段丘堆積物におおわれていますが、地下では大きく広がっていてつながっていると考えられます。
六甲花崗岩は、古くから「御影石(みかげいし)」として石材に利用されてきました。カリ長石が淡いピンク色をしているのが特徴で、その色調が暖かな印象を与えます。六甲山で切り出され、御影港から船で運ばれたのでこの名前があります。 御影石は花崗岩として名が高く、全国に分布している花崗岩も石材名として御影石の名が使われています。 六甲花崗岩からは、8,700万年前や7,500万年前という年代が報告されています。これは、後期白亜紀にあたります。同じころ、このあたりでは大規模な火砕流によっていわゆる有馬層群と呼ばれる地層が堆積しました。 六甲花崗岩は、大規模な火砕流を発生させたマグマと同じマグマが再び動き、先にできた火砕流堆積物の中に貫入して地下で固まったものと考えられます。 日本がまだユーラシア大陸の一部であったころのできごとです。 日本列島は、新第三紀鮮新世の終わり頃(300万年前頃)から東西に圧縮され、西日本で山地が隆起を始めました。このときの東西圧縮の原因は、フィリピン海プレートの沈み込む方向が北から北西へと変わったためだと考えられています。 この東西圧縮によって、六甲山付近は100万年前頃から隆起が本格的になりました。断層によってブロック状に分断された山塊が上昇していったのです。この変動を六甲変動といいます。 この隆起によって、六甲花崗岩は地下深くから上昇しました。上にあった地層は侵食されてなくなり、六甲花崗岩が地表に顔を出したのです。 3.花崗岩の表情 甑岩では、花崗岩のいろいろな特徴が見られます。 岩石にできた平面的な割れ目を節理といいます。花崗岩には、岩体を直方体状(方状)に分離する方状節理が見られること多いのですが、ここでも方状節理に近いものが見られます。 いくつかの節理によって囲まれた岩塊を節理塊といいますが、甑岩は節理塊が重なってできています。 花崗岩の節理は、冷却による収縮、構造運動による応力などによってつくられます。
岩石は、表面から風化していきます。風化によって、岩石があたかも玉ねぎの皮をむくように薄殻となって表面からはがれていく風化を「玉ねぎ状風化」、あるいは「球状風化」といいます。花崗岩には、この玉ねぎ状風化が見られることが多く、甑岩でも観察できます。 花崗岩ではねぎ状風化がひとつの節理塊を単位にして進むため、丸みを帯びた岩が重なる光景をつくり出します。そのため、岩肌の表れている山を遠くから見ても、それが花崗岩の山だとわかることがあります。
花崗岩が風化すると、真砂(まさ)になります。真砂は、主に石英や長石からなり、雲母・カオリン・褐鉄鉱などをふくんでいます。 甑岩の周辺には花崗岩の岩盤も現れていますが、そこで風化によって真砂になりかかっているところが見られます。道は、淡い褐色の真砂におおわれています。 風化が節理面から進んでいくと、節理塊の中心部が硬い岩塊として残ります。これをコアストーンといいます。甑岩から北の磐坐までの道では、風化によってできた真砂の中のコアストーンや真砂が流れ出て裸になったコアストーンが見られます。 また、コアストーンが移動して集まり丸みを帯びた岩塊が重なっているようすも見られます。
甑岩の花崗岩の中に幅20cmほどの薄いピンク色の岩脈が見られます。これはアプライト(脈)と呼ばれ、花崗岩にしばしば見られます。 アプライトは周囲の花崗岩より細粒で、主にカリ長石・斜長石・石英からなり、黒雲母などの有色鉱物はわずかしかふくまれていません。そのため、白っぽく見えます。 甑岩では、一本のアプライト脈が隣り合う節理塊に連続しています。このことから、このふたつの節理塊は互いに動いていないことがわかります。 アプライト脈は、花崗岩マグマの残液が、先に固まった花崗岩の割れ目に入りこんでできた考えられます。
4.大阪城の石垣に 甑岩の上の方に矢穴が残されています。石を割るときには、「矢」と呼ばれる鉄製の楔(くさび)を一列に並べて打ち込みます。矢穴は、その打ち込まれた矢の跡です。 甑岩の下には、割れ落ちた岩がいくつか転がっています。また、矢穴はあけたものの、割るのを途中で止めた岩も見られます。
甑岩の側面に、同じ形の刻印が二つ刻まれています。刻印は、その形がよくわかるように白く塗られていました。これは、岡山松山城主の池田長幸が使用した刻印です。 池田長幸は、1620年(元和6)から徳川秀忠によって再建が始められた大阪城の天守台や本丸・二の丸などの石垣を築きました。
越木岩神社の境内には、肥前佐賀城主の鍋島勝茂の刻印のある割り岩も残されています。鍋島勝茂も大阪城再建のための石垣普請にあたった大名の一人です。 これらのことから、越木岩神社やその周辺が大阪城再建のときの石垣採石地だったことがわかりました。
この再建の30年ほど前、初めの大阪城は1583年(天正11)から1598年(慶長3)にかけて羽柴(豊臣)秀吉によって築かれました。このときも、越木岩神社の花崗岩が使われようとされていたそうです。これについて、次のような言い伝えが残されています。 『霊岩甑岩を大阪城築城のために切り出そうと豊臣秀吉が石工たちに命じて割らせていたところ、今にも割れんとする岩の間より鶏鳴し真白な煙が立ちのぼり、その霊気に石工達は岩もろとも転げ落ち倒れ伏し、如何にしても甑岩は運び出せなかった。』(越木岩神社社務所 現地案内板) これは、矢穴や石垣普請にあたった大名の刻印があるにもかかわらず甑岩が変わらない姿であることから生まれた伝承だと考えられます。 参考文献 藤田和夫・笠間太郎(1982) 大阪西北部地域の地質(5万分の1図幅).地質調査所 ■岩石地質■ 後期白亜紀 六甲花崗岩 |