鶏籠山(218m)~祇園嶽(458.0m) 龍野市・新宮町 25000図=「龍野」 |
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城山に散った赤松氏の城跡を辿る縦走路
龍野市街地の北、揖保川の西に南北に連なる山並みがある。
両見坂に戻り、的場山を目ざす。はじめから急登であった。コシダの上に、それよりわずかに緑の薄いウラジロが重なっておおいかぶさり、壮観な光景である。そのウラジロの群落の中に、よく踏み固められた道が続いていた。ウラジロの茎の先端についた2枚の新葉は、どれもわずかに開きかけていた。 丸太階段を上り切った大きな電波塔の下が、的場山の山頂であった。眼下に、揖保川がゆるく曲がって流れている。空気が揺らいでいるせいか、どの車も朝の光を反射して、淡くかすんだもやの中で、きらきらとまたたいている。ずっと先には、冬の瀬戸内海がにぶく光っていた。 的場山の山頂から、尾根に続く山道を北へ進んだ。道には、コナラの新しい落ち葉が降り積もっている。道の両側には、アカマツ・ネズミサシ・コナラ・ソヨゴ、その下にはモチツツジ・ミツバツツジ・ヒサカキ・マメツゲ、林床にはコシダ・ウラジロといった、播磨の白亜紀火山岩類地帯によくある植生が続く。ソヨゴの赤い実が、雑木林の光景に彩りを添えていた。 正面に目ざす城山を見ながら、「新龍アルプス」とも呼ばれている縦走路を、いくつかの起伏を超えながら進んでいく。左手の深い谷を隔てて、山頂にホルンフェルスをのせた大蔵山が大きくそびえている。重量感のある大きな山体である。 尾根に東から上ってきた谷が回りこむように近づいてくる。それらが出会った地点に平坦面があった。出土品などから、この郭が城山城赤松居館跡と考えられている。京で将軍足利義教を暗殺した(嘉吉の乱 1441年)後、城山城へ撤退した赤松満祐は山名軍に追われここで一族69名と自害した。 ここは、三方をスギや雑木の斜面に囲まれ、南だけに小さく開けている。そこから下を見下ろせる位置に、直方体の岩がひとつ置かれていた。この石に腰掛けて、しばらくの間、そのはるか昔の出来事を思った。
居館跡を裏に回りこむようにしてスギ林を抜け自然林を歩くと、城山山頂の郭に達した。ここからは、揖保川の左岩に立つ「觜崎の屏風岩」が正面に見える。双眼鏡を取り出して、その先に見えるはずの置塩城跡を探した。嘉吉の乱から28年後に赤松氏の再興叶ったその山城跡は、山の輪郭が背景の棚原山にうずもれて分からなかった。 城山から北へなだらかに下った。馬立から矢野への道が交差する十字路には「亀岩」がユーモラスな形で立っている。このあたりの岩石は花崗岩(花崗閃緑岩)。亀岩を形づくるのに、花崗岩に特有な「たまねぎ状風化」が一役かっていた。すぐ近くの「蛙岩」は、カエルというよりセントバーナードの顔に見えた。 さらに北へ下り最後のコルを上り返して祇園嶽に上った。祇園嶽の山頂の西には城山城の出城跡である数段の郭が残っていた。 祇園嶽山頂の岩峰に立った。北には北播磨の山並みが重なり、厚い雲のぼやけた底がその稜線を隠していた。その雲の切れ間から、遠くに雪をのせた山が2つ3つ見えた。
山行日:2003年12月13日
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市野保の越部八幡神社に自転車を置く。 |
■山頂の岩石■ 鶏籠山・的場山 → 後期白亜紀 的場山層 流紋岩質凝灰岩 城 山 → 後期白亜紀 揖保層 輝石安山岩 祇園嶽 → 後期白亜紀 揖保層 シルト岩 鶏籠山から祇園嶽にかけての山域は、後期白亜紀の火山岩類からできている。 鶏籠山・的場山~赤松屋敷跡あたりまでは、灰色で珪質緻密な流紋岩質凝灰岩が分布している。この岩石は、淡緑~褐色に変質していることが多い。粒状の石英、柱状の長石、小さな黒雲母の結晶片を含んでいる。岩片はあまり含まれていない。 的場山層 (山元他、2000) 城山の山頂付近には、暗灰色の安山岩が分布している。柱状の輝石と斜長石の斑晶を含んでいる。硬く、ハンマーで叩いても容易に割れない。花崗閃緑岩の貫入によって再結晶化している可能性がある。 揖保層 (山元他、2000) 祇園嶽には、黄土色のシルト岩が分布している。もろく、ハンマーで叩くと不規則に割れる。山頂付近は、破砕されたような産状を示している。 揖保層 (山元他、2000) また、亀岩付近には、中粒の花崗閃緑岩が露出している。有色鉱物として黒雲母と角閃石を含んでいる。長さ1cm程度の淡褐~淡ピンクのカリ長石が斑状に含まれている部分がある。 |