観音山(387.4m)〜下三原とんがり山(383m)〜野間山(320m)
八千代町 25000図=「西脇」「中村町」
観音山と野間山を結ぶ尾根歩き
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| 楊柳寺仁王門(中央)と観音山 |
野間山(中央の平坦なところが山頂) |
野間川とその支流大和川の間に、観音山・383m峰(下三原とんがり山)・野間山は稜線をつないでいる。
数段の石段を上り、楊柳寺の仁王門をくぐると、長い石段がさらに上へと続いていた。その石段を上り切ると、鐘楼堂の立つ広場があった。ここで、道は三手に分かれた。一番右の道が、本堂への参道である。
石仏の立ち並ぶこの参道を進むと、阿弥陀堂に達した。小さいが、屋根の曲線が美しい趣のある建物である。その隣、改修中の本堂は足場やシートでおおわれていた。休憩の終わった大工が二人、その中に入って仕事を始めた。足場の下をくぐって、本堂の裏から山道に入った。
道の傍らには、石仏がさらに並んでいる。山道には、スギの根が張り出し、土にはコケがむしている。地面の上、横に渡された丸太は、朽ちて自然に帰ろうとしている。道は谷に沿って、つづらに上っていた。
途中で、左へ道が分かれていた。この道を少し上ると、「閼伽(あか)水」と表札の掛かった小さな社が建っていた。観音開きの戸を開けてみると、岩の間のくぼみに水がたまっていた。これが、寺を開いた法道仙人の加持によるとされている井戸であった。
「閼伽水」を下り、分岐に戻って石仏の続く道を先へ進む。谷から右手の斜面を上った小さな尾根を行くと、石段があった。石段を下から仰ぐと、ヒノキの間に奥の院が見えた。白壁と朱塗りの柱、銅で葺かれた緑青の屋根。ところどころペンキが剥がれて、下のコンクリートが見えているが、その色彩は樹林の中で鮮やかだった。
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| 楊柳寺参道(鐘楼堂から上へ) |
楊柳寺奥の院 |
奥の院の裏手の、シイの林を上る。急な坂をしばらくつづらに上ると、道はTの字型に左右に分かれていた。左の道を等高線に沿うように進むと、南西尾根の道と合流した。岩がちの尾根を上ると、あずま屋の立つ観音山の山頂に出た。
山頂は、伐り開かれた跡に生えた木々が大きくなって、もう展望は開けていなかった。クサギは、がく片が赤紫になって星型に開き、その中に藍色の果実をつけていた。
観音山の山頂から、383m峰をめざす。初めは北へ、途中から東へ尾根をたどる。進むほどに、尾根の伐り開きはあやしくなり、倒木も多くなった。
コルから、急斜面を真っ直ぐに上ると383m峰の頂上に達した。そこは、コナラ・ソヨゴの下にヒサカキ・アセビ・イヌツゲ・ヤブツバキなどの生えた雑木林であった。
息を整えてから、帽子やズボンにまとわり付いたクモの巣をとった。この日初めての日差しが、木々を透かして地面にまだらに降り注いだ。
383m峰から、急な岩場を下りていった。岩の上からは、正面に野間山の平坦な頂上やその右の「しようどの丸」の小さな高まりが見下ろせた。岩石が流紋岩に変わると、尾根はさらに峻険となった。左右に切れ落ちた岩の上を、割れ目に根を張った小さなアカマツをつかみながら下った。振り返ると、岩尾根の上に383m峰が鋭く立っていた。
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| 野間山(左)としようどの丸(右) |
下三原とんがり山(383m峰) |
コルから上り返すと、掘り割りが尾根に直交していた。堀の底へ下りて、急斜面を直登すると野間山城跡に出た。城跡は、北東ー南西に長く、平坦面が棚田のように何段も重なっている。この形が、鶴が翼を広げた姿に似ているので野間山城は「鶴林城」とも呼ばれたという。一本のノグルミの木に、一枚の山頂プレートが掛かっていた。
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| 野間山城跡 |
あとはここを下りるだけである。山頂の笹の上に座り込んだ。ササの葉のすき間に、新しいどんぐりが落ちていた。上を見上げた。コナラの木は、太くて高い。柿の実はいろ色づき始めている。イロハカエデは、葉よりも先に、果実の翼が赤く染まっている。タカノツメの紫黒色に熟した実は、線香花火を想わせた。
下山後、下三原で畑仕事をしている人を見つけた。下三原の集落の背後には、383m峰が大きく立っている。この山の名を聞いてみると、「ここらでは、『とんがり山』いいよらねぇー」と返ってきた。
山行日:2005年10月1日