上 島(46m)    姫路市               25000図=「真浦」
key words:上島、神嶋、神島、播磨国風土記、石神、家島


神の嶋の石の神、上島を訪ねて

「神嶋」に立つ「石神」

1.上島へ

 荒井漁港を出航した漁船FUTURE丸は、工場に囲まれた水路を走り播磨灘に出た。乗り組み員は、私・Sさん・Tさん・Syoくんの4人。Sさんに世話をしていただいて、Tさんの漁船で上島をめざした。

 船は、穏やかな海に波しぶきを立てて進んでいった。防波堤を出てしばらくすると、TさんとSさんが前方を指差した。その方向を見ると、海上のもやの向こうに小さな島影がうっすらと浮かんでいた。これが上島だった。
 上島は、家島諸島の東端に位置する南北350m、東西220mの小さな島である。播磨灘にこんもりと丸く浮かんでいる。高砂あたりでは、その姿から「ほうらく島」と呼ばれているとSさんに教えてもらった。

 この島に歴史の彩を添えているのは、『播磨国風土記』の中の次のような記述である。

 「神嶋。伊刀嶋の東にある。神嶋というわけは、この島の西の辺に石神がいる。形が仏像に似ている。だから、この像によって島の名前とした。
 この神の顔に、五色の玉がある。また、胸に流れる涙もあって、これも五色である。泣いているわけは、品太天皇の世に新羅の客人が日本にやってきた。そうして、この神の立派なのを見てたいへん珍しい玉と思い、石神の顔をくじり取り、その一つの瞳を掘り取った。神はそれで泣いている。そこで神は大きく怒り、暴風を起こして客の船を打ち壊した。」

 この「神嶋」が、上島に比定されているのである。

2.海から見る上島

 船は、島影をめざしてまっすぐに進んでいった。島の色が少しずつ濃くなり、緑におおわれた森とその下の白っぽい絶壁が識別できるようになってきた。そのうち、島の頂に白い灯台が立っているのが分かった。
 島の周りには多くの釣り船が浮かんでいた。その釣り船を縫って、Tさんが島の周りを一周してくれた。

東から見る上島 南から見る上島


 島には海食崖が発達し、周囲は切り立った絶壁で囲まれていた。絶壁は植物を寄せ付けず、褐色の岩肌をむき出しにしていた。ところどころに入り江があるが、入り江にできた浜辺はどこも狭かった。
 双眼鏡を取り出して島を観察した。船がぐるっと回ってくれるので、パノラマのように島の地形や地質が次々と順に観察できた。ところどころに岩脈が走っているのが分かった。絶壁は島の南側や西側でより高く、縦に割れ落ちるようにして荒々しく海に落ち込んでいた。
 そして、島の西から北へ回り込んだところに、ひときわ目立つ岩があった。その岩は、節理によって斜めに傾いた大きな岩盤の上に、四角い形で乗っていた。背後の岩や岩に生えた木々の緑からひとつ前へ突き出している。島に「石神」が今も在るのなら、この岩なのかもしれないと思えた。

3.上島に今も立つ「石神」

 島を一周した船は、島の北面の東につくられたこの島唯一の船着場に着いた。Syoくん、Sさん、私と船を下りる。ここまで私たちを乗せてくれたTさんは、このあたりで釣りである。島に3人を残してFUTURE丸は船着場を離れた。早速ウニの殻を採ったSyoくんは、この無人島でしばらく遊ぶことになった。私は、Sさんと島の岩石の観察に出かけた。

 船の着いた入り江の崖は花こう岩でできていた。風化していて、半ば土になりかけている。ハンマーがぐさりと突き刺さった。入り江にできた小さな浜を西へ歩くと、島を上る石段がついていた。その下で、岩石は表面の白っぽい溶結凝灰岩に変わった。この島の大部分は、この溶結凝灰岩や流紋岩でできている。花こう岩との境界は、断層粘土がはさまっていた。
 船から見えたあの岩を近くから見るために、石段の真ん中あたりから、さらに島の西へ移動することにした。
 海に突き出した岩を乗り越えて、小さな浜辺に下りた。Sさんに、オオヘビガイの貝殻を教えてもらった。真っ白で、ヘビがとぐろを巻いたような不思議な形だった。
 浜辺を渡り、次の岩にとりついた。岩の割れ目にできた棚を利用して、トラバース。ちょっとしたフリークライミングの気分である。いくつかの突き出した岩を越し、島の北面の西端まで移動すると、そこに船から見えたあの岩が立っていた。

 岩が何に見えるかは、見る人によって異なったり、見る条件によって異なったりする。しかし、その岩は、一見して人の顔の形に見えた。
 岩の表面が直線的に切れ落ち、両目と鼻をつくっている。その顔は、威厳ある表情で、じっと静かに遠くを見つめていた。
 しばらくの間、呆然として二人でこの岩を見上げていた。
 自然の摂理による偶然が創り出した、不思議で素晴らしい造形……。岩に表情を見出し、意志を読み、そして神を感じる風格がこの岩には確かにあるように感じた。

「石神」 「石神」


 島では、トベラの花が満開だった。船着場に戻る途中で、石段の上からトベラの木を見下ろすと、濃厚な匂いが海風と共に上ってきた。咲き誇る淡いクリーム色の花は、青く透き通った海によく映えていた。岩場には、ハマボッスが小さな白い花をつけていた。

満開のトベラ ハマボッス


4.島を後に

 船着場に戻るとTさんが釣りをしていた。船のエンジンのギアにトラブルがあって、船を泊めているとのことだった。Tさんのクーラーには、ベラやアブラメが入っていた。
 ギアのトラブルにも関わらず、船は無事動き出した。最後にもう一度、「石神」の正面まで船を回してもらった。「石神」は、裳裾のように斜めに傾いた岩の上に乗って、静かに北北西の方向を向いていた。遠い昔から、じっとこの姿で海をみつめて……。

船は、島を後にした。「石神」は背景に溶け込んで見えなくなり、島全体も薄く小さくなっていった。

海から望む「神嶋」の「石神」


5.「石神」の実在について

 「神嶋」の「石神」に関する記述は、『播磨国風土記』の中でも最も印象的な伝承の一つである。その実在については、昔から多くの人たちの関心を集めていたようである。
 古い読売新聞(日付不明、記事から昭和7年の30数年後に発行されたものであることが分かる)に、『「あった」人面の巨岩』というタイトルの記事がある。これには、昭和7年8月17日に家島の郷土史家8名が、上島で初めて「石神」を発見したときのようすが記されている。発見者は、メンバーの一人中上実氏であった。
 また、古い神戸新聞(日付不明)にシリーズとして掲載された「海のロマン@上島」にも、『悲劇秘める”人面岩”』の記事がある。これは、記者が中上実氏に話を聞き、実際に上島に渡って「石神」を確認したものである。これには、「自然にさらされ、風化した石は中央が盛り上がり、なるほど人間の顔をしていた。」と記されている。
 2つの新聞には、「石神」の写真も載せられている。それらの写真からは、その岩の表面の模様までは見えない。しかし、岩の輪郭から、中上実氏が発見した「石神」は、今回私たちが目にした岩と同じものであることが分かった。
 この「石神」は、『播磨国風土記疑解(米谷利夫.1972)』でも取り上げられている。それには、「石神については、江戸時代の学者が実地踏査したが分からなかったという記録があるが、中上実氏がその実在を確かめられ、現存していることは洵に奇偉なことである。」という記述がある。

 このように、、この「石神」は新聞に載り、出版物にも取り上げられているのに、なぜか人々から忘れ去られてしまったかのようである。その後刊行された「播磨国風土記」に関する出版物で、しばしばこの「石神」の伝承が取り上げられているが、「石神」の実在に関しては存在しない、あるいは不明とされていたり、触れられていない場合がほとんどである。
 例えば、 「この上島は家島本島の約十五キロ東に浮かぶ無人の小島であるため、私はまだ訪れる機会を持てないでいるのだが、海のきらめきを受けて輝く石像の美しさは容易に想像できる。自然の石の造形を仏像とみ、光の照り返しを宝石と思い、胸元の光のゆらぎを涙とまで受けとめたという濁りのない目を、私は羨望すると同時に、暗い恐怖を覚える。」(寺河俊人.神々のさすらい 播磨国風土記の世界.1979)
 「こんにち、この伝承を裏付ける実在の石神は存在しないようだが、家島群島に石材が多く採取されるという事実に基づいていることはいえる。」(田中壮介.播磨国風土記ところどころ.2003)
 「島の西側にあるという石の神というのは、人工的に彫られた神像ではあるまい。おそらくは形の変わった自然石のことをさすのであろう。しかもそれが光の当たり具合によって、美しく輝いて見えたのではあるまいか。現在も上島の北西付近の崖には、大小さまざまな奇岩が海に向かって露出している。昔の人はそのような奇岩群のうち、もっと西側にある岩の一つを、あたかも神の像のように考えたのであろう。」(坂江渉.風土記から見る古代の播磨.2007)
といった具合である。家島町誌(家島町役場.1979年)でも、その実在については述べられていない。

 なぜ、この岩が、「石神」の実在として広く伝わらなかったのだろうか。
 「石神」の話は、『播磨国風土記』に描かれた古代の伝承にすぎない。しかし、伝承には、その裏づけとなる事実が秘められていることも多い。そこから、古代の記録と現在を結びつける作業が可能となる。
 その作業には、客観的な目と想像力が要求される。「神嶋」の「石神」についても、いろいろな想像による多様な解釈ができるのかもしれない。
 「石神」は、本当に上島に実在するのか。そして、この岩がその「石神」なのか。それは、誰も断定することができない。

 ただ、世の中から長い間その存在を忘れ去られていたおかげで、私たちはこの「石神」を昔の姿のまま見ることができた。そう考えると、何もかもこのままでよいと思えてきた。

6.「石神」の岩石と大きさ

 「石神」は、溶結凝灰岩でできていた(相生層群伊勢累層)。ガラス質で非常に硬い。石英、長石の結晶片、あるいは頁岩などの異質岩片を含んでいる。暗灰色を呈するが、風化によって岩の表面は白っぽくなっている。
 硬い岩石であるので、風化に耐えて風土記の頃からあまり変化していない可能性がある。しかし、周辺の岩石は節理が発達し、岩の姿は節理から割れ落ちることによって作られている。そう考えると、風土記から約1300年の間に変化している可能性もある。先に取り上げた古い神戸新聞の記述の中の、「自然にさらされ、風化した石は中央が盛り上がり、なるほど人間の顔をしていた。」というのも、今のようすと少し違うようにも思える。

 人面の岩の大きさについては、先に取り上げた読売新聞では「縦6メートル、横4mもあろうか」とされている。また、神戸新聞には、「縦、横三、四メートルはあろうか」とある。今回、島の頂の高さ(46m)とこの岩の高さを、島を遠望した写真で比較してみた。それによって、岩の大きさを算出してみると、海面から頭の上までが約15m、あごの下までが約8.5m。したがって、顔の長さは、約6.5mとなった。


 今回、T氏には漁船を操縦していただき、私たちに上島を踏査する機会を与えていただきました。また、一緒に島を巡ったS氏には今回の踏査の計画を立てていただき、上島に関して多くのことを教えていただきました。
 また、このページを作るために、郷土史を研究されている土井治道氏から古い読売新聞と神戸新聞の記事をはじめとする貴重な資料の提供をいただきました。以上の方々に、深く感謝します。

2008年5月17日訪問、5月31日ページ公開

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