亀  ケ  壺             夢前町                   25000図=「寺前」「粟賀町」
十三回りを越え、今なお秘境の「亀ケ壺」へ

亀ケ壺(落ち口から甌穴をのぞき込む)
亀ケ壺(写真中央部が甌穴の位置) 木漏れ日の渓流(亀ケ壺の上流)
 
 夢前町山之内の河原口から河原谷(こうらだに)を遡っていくと、落差20m余りの滝がある。この滝の中段には、「亀ケ壺」と呼ばれている見事な甌穴(おうけつ)がある。亀ケ壺は、滝そのものをさしたりもするし、地元では滝の周辺の山を亀ケ壺山、あるいは単に亀ケ壺と呼んだりしている。かつて、この亀ケ壺には人々が自由に出入りしていたが、それが江戸時代の初期に入会権をめぐって周辺の村々で紛争が起こった。その時、神西郡(当時)からは郡境の山を越さないと辿り着けないこの地が、神西郡と飾西郡(当時)と共同の入り会いとなったのには、新野村(現、大河内町新野)の大庄屋「上月平左衛門」の功績が大きかったと言われている。
 今、新野の旧道の山裾に、その上月平左衛門の墓が立っている。その墓の右には、平左衛門の非業の死を惜しみ哀悼の意を表す石碑が立っている。平左衛門は、過酷な年貢の軽減と救済を求めて、幕府に直訴を企てたが、江戸へ向かう途中、追っ手に捕らえられ斬殺されたという。しかし、この話は資料が少なく伝説化されている部分が多いとも言われている。一方、墓の左には、平左衛門の「亀ケ壺」入会権取得の功績をたたえた石碑が立っている。 
 かつて人々は山に入り込み、柴を刈り、薪を拾い、炭を焼き、栃の身などの木の実を採ったりして生活していた。人々の生活を支え、それ故に紛争の種にもなった亀ケ壺とその周辺の山々……。人々が生活から山を切り離し、訪れる人が絶え果ててからは、かつての史実と様々な伝説がこの亀ケ壺に残った。

 午前6時45分にJR鶴居駅を後にした。鶴居の集落を北西に進み、狭い谷に入っていった。この谷を、さらに北西へ郡境をめざして進んでいく。長い谷であるがは、広い地道の林道がずいぶん奥までついている。林道の終点からは、源流からの流れに沿ったコケとシダの小径を、郡境の峠をめざして上っていった。この峠は、市川町の鶴居と夢前町の山之内をつなぐ古くからの峠で、九十九折りに13べん回ることから「十三回り」と呼ばれている。古くからここを往来してきた人々の様々な思いの残された、そして今はひそやかに佇んでいるような、そんな峠を思い浮かべて、1回、2回……と、九十九折りの回数を数えながら登っていった。九十九折りを8回繰り返して、アカマツの林を抜け出ると、なんと新しく広い林道がその谷の南斜面からそこまで伸びてきていた。目の前には、林道工事で荒れ果てた「十三回り」の峠があった。

緑の渓(亀ケ壺の下流)
 郡境を越え、河原川の源頭に降り立ち、この渓を下っていった。小さなナメ滝の上を清い水がさらさらと流れている。左右から小さな流れを合流させるごとに水量が少しずつ増えていくのが分かる。流れにそって、気持ちのよい小径が続いている。流れを渡るところには、スギの木の丸太橋もかかっている。
 シャーというかすかな音が、少しずつ近づいてくる。亀ケ壺の滝の落ち口であった。落ち口から下をのぞき込んでみる。水は、その下につくられた甌穴へ、ほとんど垂直に流れ落ちている。甌穴の水面は、流れ落ちる水の飛沫によって白く波立っている。岩に穿(うが)たれたこの甌穴は、直径3mぐらいのほぼ円形。深さは、見た限りでは分からないが、竜宮に続いているとか、播磨灘に通じているとか、いろいろと言い伝えられている。
 かつて、この穴に血の滴る牛の生首を投じて雨乞いをしていた。清きものを汚された水神が怒り狂い、大雨を降らせるというのだ。また、飢饉のときに口減らしにと、子供や老人を投げ入れたというような、今となっては想像か、または、もしかしたら本当にあったのか分からないような話もふもとの村で聞いたことがある。しかし、そんなぞくぞくするような話も、高度感あふれる滝の落ち口に立ってみると、眼下に広がる木々の緑、ときどき下から舞い上がってくる爽やかな風、飛沫をあげて流れ落ちる水の形と音によって、どこかに忘れてしまう。甌穴の底には、砂金が比重が高いためにたまっているかもしれないと想像するのも楽しかった。
 滝の右(右岸)を高巻いて降りる。岩の割れ目や、狭いテラス、岩に生えた灌木の幹を利用しながら降りていったが、かなり危険であった。もっと良いルートがあるのであろう。滝の下には、根本から分枝した大きなフサザクラの木が立っていた。その下の岩に腰掛けて、滝を仰ぎ見る。ここからは、もう甌穴は見えない。落ち口から真下に落ちた水が中段で隠れ、そこからふたたび岩盤を目の前へ流れ落ちてくる。空をおおっていた雲がときどきとぎれて、そのたびに滝を流れる水が白く輝いた。

 ここから、河原川を下っていった。流れはところどころに小さな淵をつくり、その淵の水は岩の色を映して青い。水をたたえたある淵からは、その下に水は消えていた。累々と重なった大小の岩石の下に伏流しているのである。100mも下ったあたりの岩の間から、水はいっそう浄化されてわき出していた。木々の葉、倒木や岩や土に張りついたコケ、小径に生えているシダ、薄い緑色の珪化した凝灰岩の重なり岩の上を流れる清らかな水と、差し込む日の光は、いっそう渓谷の緑を引き立てていた。

山行日:2001年7月28日
※1 亀ケ壺については、「探訪ひょうごの滝(神戸新聞総合出版センター (1996年)」に紹介されています。
※2 最近では、島田一志さんのHP「山であそぼっ」で河原口から亀ケ壺までの山行記録がレポートされています。

山 歩 き の 記 録
JR鶴居駅〜鶴居配水池建物(地形図に記載なし)〜地形図189mの標高点〜送電線下〜コンクリート橋(標高300m地点)〜新林道分岐〜林道(旧林道終点、標高330m+)〜峠「十三回り」(標高520m+)〜亀ケ壺〜林道分岐のコンクリート橋(標高約240m)〜堰堤〜車デポ地(河原口から3.7km地点)
 JR鶴居駅を午前6時45分に出発。鶴居の集落を北西に進み、「十三回り」につながる谷へ入っていく。ししがきの開き戸を抜けると、牛の放牧地であった。放牧地の端で、道はなくなったが踏み跡を50m程度進むと、広い林道に合流した。鶴居配水池の白い建物を通り過ぎ、未舗装の林道をどんどん北西へ進む。ウツギやヌルデの木が多い。歩き出してから1時間15分程度で、送電線の先の分岐(地形図では新野につながっている)を越し、すぐ先のコンクリート橋(標高300m地点)に着く。ここで、最初の休憩。コンクリート橋から歩き出すとすぐに、地形図にはない新しい林道が左へ分岐していた。渓に沿った古い林道をそのまま進む。標高330m+の二股の地点(地形図の川の流れを示す青線のちょうどはじまり)が林道の終点。林道終点の左に小橋がかかり、この橋を渡って暗い山の中の小径に入っていった。渓に沿った湿ったこの道は、倒木や土や岩にびっしりとコケが生えている。イノシシの足跡が随所に見られる。顔にからみつくクモの巣を払い払い、登っていく。やがて、水は枯れて数本の流路が走るようになる。コースを北向きから西向きに変え(地形図の通り)、九十九折りの坂を登っていく。8へん回って斜面を南へトラバースし、マツの林を抜けるといきなり広い林道に出た。ここが「十三回り」であった。先ほどの、新林道がここまで伸びてきているのである。南北に連なる郡界尾根にはかすかな踏み跡がある。南へ登れば、松尾山(662.3mピーク)である。
 峠からスギの植林を西へ降りていく。今度は11回折れると、河原川の源頭に降り立った。ここから亀ケ壺までは、流れの横に気持ちのよい小径がついている。途中、何ヶ所かで流れを渡ったが、そんな所にはスギの丸太橋がかけられていた。亀ケ壺は、右岸を高巻いて降りた。甌穴の高さまでぐらいが、かなり危険であった。滝の下のフサザクラの木に、兵庫登山会の「亀ケ坪 落差20m」のプレートが掛かっている。20mよりも、もう少し高いと思うのであるが……。
 亀ケ壺からさらに渓を下っていく。スギや雑木の中につけられた小径を歩いたり、渓のガレ石の上やゆるやかなナメ滝をつくる岩盤の上を歩いたり、渓を飛び石で渡ったりしながら歩いていく。美しい渓谷であった。地形図標高約240mの林道分岐には、廃屋が建ち、その横の木に「亀ケ壺の滝へ(約50分)」のプレートが掛かっていた。ここから道は広くなる。そのすぐ先で、北からの沢が滝となって合流し、堰堤によって小石で完全に埋められた広い河原を左に見て、昨日デポした車に辿り着いた。
   ■亀ケ壺周辺の岩石     白亜紀 生野層群下部累層 珪化凝灰岩

累々と重なる凝灰岩のガレ石
 亀ケ壺の滝をつくる岩石は、非常に硬く緻密である。これは、SiOに富む珪化した凝灰岩である。少量の石英の結晶を含み、また斜長石や有色鉱物も認められる。ただし、斜長石や有色鉱物は、岩石全体の珪化に伴なう変質を受けている。岩石の色は、緑色がかった灰色である。周辺の転石には、溶結構造のはっきとした凝灰岩が多く、亀ケ壺の珪化凝灰岩も元は溶結凝灰岩であったと思われる。
 亀ケ壺の滝の落ち口には、垂直方向に明瞭な節理(割れ目)が走っている。滝をつくる岩盤は、この節理と同じ方向である。このことから、亀ケ壺の滝は、岩石の節理によってできた滝であるといえるかもしれない。
 今回歩いたコースでは、鶴居側の林道で、花崗岩が見られた。細粒で、有色鉱物の割合が小さく、全体がピンクがかった褐色の花崗岩である。この花崗岩の岩体は、播磨地方のところどころに小規模に分布している播磨花崗岩の一つとされている。

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