石 の 宝 殿

 岩盤をくり抜いて造られた巨大な石造物……。「石の宝殿」は、古代の謎とロマンに包まれて高砂市宝殿山の中腹に生石(おうしこ)神社の御神体として鎮まっています。
 石の宝殿は、その圧倒的な存在感から昔より人々の注目を浴びてきました。江戸時代には、宮城県御釜神社の「神釜」、宮崎県霧島山の「天の逆鉾」とともに、「日本三奇」のひとつとされました。
 いつ、誰が、何のために造ったのでしょうか。石の宝殿とは何なのでしょうか。この岩は、これまでにさまざまな神話や伝承、そして学説を生み出してきました。

1、石の宝殿

石の宝殿
横幅6.4m、高さ5.7m、突起物を入れた奥行き7m、推定重量は500トン
 

 高砂市、生石神社……。石段を上り、割り拝殿の中をくぐり抜けると、石の宝殿が目の前に大きく立ちはだかりました。岩の大きさは、一辺が約6m。正面は平らですが、左右には幅1.6mの溝が縦に掘られています。また、背面は屋根型に中央部が突き出しています。
 左右と裏側の三方より岩壁が迫っています。周囲の岩が掘り除かれ、真ん中に石の宝殿を掘り残すというように造られているのです。岩の底も削りこまれていて、まるでその下の池に浮いているように見えます。
 掘り除かれた部分が回廊のようになっていて、岩の周りをぐるりと回ることができます。しかし、岩との距離が近すぎて、その全貌をなかなかとらえることができません。岩の表面を見ると、ノミの跡が生々しく残っていました。
 岩の周囲には、岩盤を階段状に彫り込んだ遊歩道がめぐらされています。ここから石の宝殿を見下ろすと、それが家を横に倒したような形であることがわかります。

2、石の宝殿の謎

生石神社

 「石の宝殿」は、古代よりいろいろな文献に登場してきました。

 最初に現れるのが、720年頃に書かれた「播磨国風土記」です。
 『南の原に作石(つくりいし)がある。形は屋のようである。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもまた同じくらいである。名を大石という。伝えて言うのには、聖徳太子の御世、弓削の大連(物部守屋)が造った石である。』
 「聖徳太子の御世」ということは、600年前後。「伝えて言うのには、」とあるように、風土記の書かれた頃には、石の宝殿はすでに伝承となっていたのです。

 播磨国風土記は、江戸時代後半に再発見されるまで人々の目から隠れていました。その間に、別の伝承が生まれました。南北朝時代の1348年に成立した「峯相記」には、次のような記述があります。
 『生石子(おおしこ)の神と高御倉(たかみくら)の神が陰と陽の二神として、夫婦となって現れた。この二人の神が天から降りてきて、石で社を造ろうとしたが夜が明けるまでに押し起こすことができなかった。そこで、天に帰ってしまった。今もある。社は大きく、凡夫のなすところではない。』
 石の宝殿を造ったのが、ここでは神ということになっています。

 江戸時代の地誌「播磨鑑(1762年)」には、
 『神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)が天の岩船に乗ってこの山に来て高御位大明神と称した。もう一神は小彦名命(すくなひこなのみこと)で、生石子大明神と称した。二神は気持ちを合わせて五十余丈の岩を切り抜き、石屑は一里北の高御位山の峰に投げた。一夜の間に二丈六尺の石の宝殿を造り、二神の尊(みこと)が鎮座している。まことに石は万代、堅固の姿を示している』
 ここで、神は大己貴命と小彦名命という出雲の神となりました。

 そして、各地によく似た話として残されている天の邪鬼伝説も生まれました。
 『石の宝殿を一晩のうちに造ることを神から命じられた天の邪鬼が、労役がしんどいからといって鶏を早く鳴かせ、朝が来たといって途中で止めにした』……。

 伝承の移り変わりを見ていくとおもしろいものがあります。伝承からいろいろと想像することはできますが、これらから石の宝殿の謎を解くことはできません。

石の宝殿の底部 石の宝殿を見上げる

 石の宝殿とはいったい何なのでしょうか。

 一般的には、石棺の一種と考えられることが多いようです。大きさからすると、石棺というよりも、棺を納めるための部屋、石槨(せっかく)だったのかもしれません。
 石の宝殿に似たものに、橿原市の「益田の岩船」があります。長さ11m、幅8m、高さ4.7mで、こちらも巨大な石造物です。文献が残っておらず、造られた時期や目的は不明ですが、方形の穴が二ヶ所に掘られていることから横穴式石槨を造りかけて途中で止めたものだという説が有力です。
 その完成したものが、明日香村の「牽牛子塚古墳」の横穴式石槨だと考えられています。

 そこで、石の宝殿にも穴が掘り込まれているかどうかが問題になってきます。もし掘り込まれていたら、「益田の岩船」や「牽牛子塚古墳」のような石槨であるという説が有力となります。
 しかし、石の宝殿の上部は草木におおわれていて、その穴の有無が分かりません。

 そこで、2008年1月、「日本文化財探査学会」によって地中レーザーと超音波による探査がなされました。しかし、内部の空洞の有無について確認することができなかったという調査報告が同年6月になされました。

3、石の宝殿の岩石

 石の宝殿の岩石を観察してみましょう。側面や背面は、ノミ跡が多く地衣類もついていますので観察に適していません。しかし、なめらかな正面には、きれいな岩肌が表れている部分があるため、そこで岩石のつくりが観察できます。

 石の宝殿を作っている岩石は、今からおよそ7000万年前の火山活動でできました。水中に噴出した流紋岩溶岩が急に冷やされて粉々に壊れ、それが水流によって運搬され再び堆積してできたハイアロクラスタイトと呼ばれる岩石です。
 堆積するときに層をつくりますが、石の宝殿でもそれが縞模様となってうっすらと見えます。右の側面の下部に、そのように成層したようすがはっきりと表れています。
 この岩石は1cm程度の流紋岩の破片と、それが粉々に砕けた基質からできています。基質の中に見られる白い粒は、斜長石や石英の結晶です。岩石の表面は、風化によってかなり変質しているのでこれ以上詳しい観察はできませんでした。

 神社の玉垣に、淡い緑色のものがあります。この石は、石の宝殿と同じ石からできています。玉垣は表面が磨かれているので、その部分をルーペで観察すると石の宝殿をつくっているハイアロクラスタイトの特徴がよく分かりました。

石の宝殿の表面 右面下部に見える成層

 石の宝殿の周辺には、石切場が数多くあります。あたり一帯は、昔から「竜山石」として有名な石材の一大産地なのです。竜山石は、軟質で加工しやすく、丈夫さもあわせ持っています。また、均質で割れ目(節理)が少ないのも石材に適しています。

 竜山石は古くから切り出され、古墳時代には石棺として利用されました。
 古墳時代中期には、畿内の権力者のほとんどの石棺にこの竜山石が使われ、「大王の石」と称されました。この頃の石棺はほとんどが6枚の板石を組み合わせてつくられた「長持形石棺」です。
 古墳時代後期になると、この石から「家形石棺」がつくられました。「家形石棺」は加古川流域を中心にたくさん見つかっています。この頃は、地方の豪族や有力者の墓に利用されたと考えられています。
 鎌倉〜室町時代には、五輪塔や宝篋印塔など、江戸時代の初期には姫路城の石垣などにも利用されました。
 そして、今でも建築用や造園用に広く利用されています。

宝殿山から高御位山を望む 竜山の石切場

 石の宝殿の周囲には、岩盤を階段状に彫り込んだ遊歩道がめぐらされています。この階段を上ると、小高い宝殿山の山頂に達しました。山頂部は南北に長く、地面には岩盤がゆるく波打って広がっています。
 すぐ近くに竜山と伊保山が迫り、あちこちに白っぽい岩肌を垂直に切り立てた石切場が見えます。播磨に石の文化を築いた親しみのある高砂の風景です。
 北を見ると、高御位山に夕日が射し込み、山頂にいただく要塞のような盤座がほんのりと赤く色づいていました。

 石の宝殿……謎が謎として残っているからこそ、今も多くの人々が惹きつけられているのです。

※伝承に関しては、主に「播磨史の謎に迫る」(播磨学研究所 1997)中の、「巨大な石の秘密」(真壁葭子)を参考にしました。

■岩石地質■ 宝殿層 成層ハイアロクラスタイト
■ 場 所 ■ 高砂市阿弥陀町生石 25000図=「高砂」
          国道250号線(明姫幹線)竜山交差点から北上、あるいは国道2号線魚橋から南下
■探訪日時■ 2009年1月25日


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