太子山(47.6m)    太子町       25000図=「龍野」「網干」


斑鳩寺から参道を通って太子山へ

斑鳩寺を背後にして見る参道と太子山

 太子町の斑鳩寺に参拝し、そこから太子山を訪れた。

 初めての斑鳩寺。入口の仁王像は、目を吊り上げてにらみつけているが、二体とも素朴でどことなく愛嬌がある。仁王門をくぐると、大きなクスノキが、境内の空を覆っていた。

 斑鳩寺は、推古天皇よりこの地を賜った聖徳太子が、これを法隆寺に寄進し、ここに一つの伽藍を営ませたことが始まり。
 往古には、七堂伽藍、数十の坊庵がいらかを並べ壮麗を極めたという。天文10年(1541)、尼子政久の播磨侵攻による混乱の中ですべての堂塔が焼失した。その後、昌仙法師らによって、再建された。

 三重塔は、1565年に再建されたものがそのまま残る斑鳩寺で最古の建物。この日、塔の下では骨董市が開かれていた。
 聖宝殿の中には、日光・月光菩薩や十二神将(八躯)などの木造が並んでいた。どれも、表情が豊かで魅力的だった。
 聖徳殿は、前殿・中殿・奥殿がひとつになった建物。法隆寺夢殿に模してつくられた奥殿の中で、ご住職の懐中電灯の光に「植髪の太子」があやしく浮かび上がった。

 斑鳩寺 クスノキと三重塔

 斑鳩寺を後にして、参道をまっすぐに南へ下った。
 萩藩の毛利氏が参勤交代に役立てるためにつくったのが、『中国行程記(1764年)』。これには、西国街道の北に三重塔を擁する斑鳩寺や、西国街道と斑鳩寺を結ぶ参道と街並みが描かれている。

 今日、参道の両側は新しい住宅地に変わり当時の面影はほとんど残されていなかった。
 小さな水路に架かっているのは「硯橋」。ここには、古墳の石棺を転用してつくられ、その姿が硯のかたちに似ている橋が架けられていた。今は、欄干にその名が刻まれているだけであった。
 県道に架かる歩道橋を渡り、さらに南に進むと旧西国街道に突き当たった。ここには、参拝の道しるべとして二基の常夜灯が建てられていた。

『中国行程記』に描かれた斑鳩寺
「播磨の街道」(橘川真一 神戸新聞総合出版センター
 2004)より転写

 西国街道を南へ渡ると、太子山の入り口があった。太子山は、標高わずか47.6m。山というより小さな丘といった方がいい。
 道は太子山をぐるりと回るように上っていた。道の両側には、サクラやシラカシの木。その下には、クズが繁茂して蔓を伸ばしている。

太子山北側入口

 クズの葉の間には、ヤマハギやマルバハギがあちこちに枝を伸ばしていた。ヤマハギが一つだけ季節外れの花をつけていた。
 ちらちらと白い花をちりばめているのはヤブジラミ。コマツナギもピンクの花をつけていた。
 街の中の小さな山・・・。岩石など観察できないと思っていたが、露頭もあるし、転石だが大きな岩がいくつも見られた。ハンマーを持って、また来なくては・・・。

 虫こぶだらけのヌルデの葉を見ながら登っていくと、もう山頂に着いた。

ヤブジラミ コマツナギ
 
 山頂は広く平らにならされて公園風になっていた。周囲の数か所にベンチがあって、中央に聖徳太子像が建てられている。
 ひっそりとしていて、普段でも賑わっているようすがない。
 
太子山山頂の太子像

 山頂の西に張り出したところが展望所になっていた。うっそうと夏の葉を広げる楢や樫の木々の向こうに、たつの市の市街地が広がる。
 山頂に無線中継所のアンテナを載せている的場山が北西に見える。そのすぐ左に、このあたりで一番高い大蔵山が並んでいた。
 展望所のすぐ下には、一本のネムノキがピンク色の花をつけていた。
太子山山頂より西を望む

 こんな小さな丘だが、地形図には三角点の記号が描かれている。景色を眺めたあと、三角点をさがそうと歩き出したとたんに、この三角点が目に入った。
 とても意外なところ。みなさんも、この山に登ったら探して下さい。

太子山の三角点

 山頂から南へ下った。太子山周辺は、太子山公園となっている。かつて、ここには「播電」の太子山遊園地があった。今は石塀など、その名残がわずかに見られるのみであった。
山行日:2020年6月21日

斑鳩寺〜参道〜太子山
 斑鳩寺には、参拝者用の駐車場がある。斑鳩寺の山門から、真南に参道を500m程度進むと、太子山に達する。

山頂の岩石 白亜紀後期 伊勢層  溶結火山礫凝灰岩?
 未調査です。


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