飯盛山(216m)    市川町               25000図=「粟賀町」

市川左岸に城跡を頂いて

市川へ突き出す飯盛山

 市川町の小さな山を巡る一日、その最後に飯盛山に向かった。飯盛山は、標高わずか216mと低いが、市川の流れる沖積低地に飛び出しているために目立ち、地元ではよく知られている。

 ふもとから、小さな山に不釣合いな広い道が山を巻くように上っていた。夏草の茂ったその道を斜めに緩く上り、大きくターンするとサクラの木が続いていた。播但道を走る車の音が大きかったが、やがてその音をセミの鳴き声がかき消した。
 小さなコルに配水池があるが、その手前の道はもう完全に草に埋もれていた。地面には、水がちょろちょろ流れている。こんな道を歩くのは、マムシが出そうで気味が悪い。近くの木の枝を折って、前の草を払い地面をたたきながらそろりそろりと進んだ。
 配水池のフェンスを乗り越えて、その裏の雑木の中に入って、やっとホッとした。そこは、豊かな自然林であった。
 急斜面に残っている踏み跡を上っていくと、頭上に大きな岩がいくつか現れた。下から見上げると、要塞のようにも見える。
 それらの岩の間を上っていくと、山頂の広場に達した。

飯盛山山頂へ 飯盛山山頂

 山頂は、アベマキ、ソヨゴ、ウラジロノキなどに囲まれ、展望はとぎれとぎれだった。
 それでも、北から西へ初鹿野、八幡山と入炭山、平石山、暁晴山、鶴居城山と大中山、七種の山々がぐるりと見渡せた。
 それらの山並みの下には、市川の両岸に開けた田畑や町並み。市川の流れを追うと、左右から落ち込む尾根をかわして緩く蛇行しながら、はるか南へ続いていた。

 一本の根元の朽ちた標柱が、岩にもたれかかっていた。それには、『伝承遺蹟屋形構・飯守山城砦址』の文字が記されている。ここには、かつて飯盛山城(飯守山城)があった。
 戦国時代、播磨の守護赤松満祐が但馬の山名宗全の攻略に備えてここに城を築き、高橋備後守政親を城主として防備にあたらせた。赤松の敗戦で城は一時さびれたが、山名勢の退陣によって城は復興し、約100年間高橋一族の居城であったという(「ぶらり市川散歩道 総集編」)。
 同じように赤松の山城のあった鶴居城山と大嶽山は目の前に立っている。飯盛山とこれら2つの山は三角形をつくり、その間を流れる市川を両岸からはさんでいる。ここは、街道を見下ろす絶好の見張り場であったに違いない。
 山頂を市川に向かって少し下りたところに、明らかに人工的と思える二段の平坦面があった。地形だけが、城の名残をとどめていた。

 高層雲や高積雲が空をおおっていたが、山頂にはそれらの雲を透かした陽の光が注いでいた。
 かつて、この山は子どもたちの遊び場だった。誰も訪れなくなった今、山頂の光の中をモンキアゲハやカラスアゲハが舞っていた。

山行日:2006年8月31日
市川斎場〜Ca.180mコル(屋形配水池)〜飯盛山山頂〜市川斎場
 南麓の市川斎場の裏に、広い道が上っている。この道を屋形配水池まで進み、そこから自然林の中の尾根道を上ればすぐに頂上である。
 帰りは、南斜面の木の疎らなところを探しながら下った。
■山頂の岩石■ 白亜紀後期 大河内層 凝灰角礫岩

山頂の凝灰角礫岩
 山頂や山頂付近に、大きな露岩が見られる。これらの岩石は、凝灰角礫岩である。最大10cm程度の火山岩塊を多く含んでいる。表面がごつごつしているのはこのためである。全体的に、風化による変質が激しい。基質には、石英や長石の結晶片が残っている。
 比較的新鮮な岩石は、市川斎場上の斜面で見られる。この部分はチャートや頁岩などの異質岩片、あるいは流紋岩の同質岩片を含む溶結火山礫凝灰岩である。石英や長石の結晶片が、白く変質した基質中に見られる。

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