生栖行者山 (787.2m)               一宮町       25000図=「安積」

法螺貝の音鳴りひびく修験の山

生栖行者山(田ノ尻より) 山頂から北を望む
(中央にイワツバメ)

 山頂のすぐ下に、行者堂は立っていた。簡素で小さな小屋である。その前には、石積みの台座があり、花挿しも立っているが、肝心の像や碑はなかった。
 小屋の中に入ってみた。壁には、新春登山を記念する新しい数枚の絵馬が掛かっていた。
 小屋を出ようとしたとき、突然、法螺貝の音が下から聞こえてきた。神々しいというよりは、山の静寂を破る抑揚の激しい音であった。

 生栖行者山(いぎすぎょうじゃさん)には、次のような話が残っている。
 『今から400年ほど前の昔のことである。大峰山の修験者が、ある人に「播磨の西に行者様をお祀りするのにふさわしい山がある」と聞いた。その修験者は播磨を訪れ、名のある山を次々に歩き、この生栖行者山を見つけた。そこで、修験者は地元の人々と相談して、この山に行者様をお祀りした。ホームページ「ふれ愛の郷 生栖」より)』

 朝、山の姿を撮ろうとデジカメを持って揖保川の土手を歩いた。田んぼ仕事の地元の人に、「何か、いい素材はありましたかな。」と、話しかけられた。スコップを手にしたその人に、山のことを教えてもらった。
 山の名は、行者山(ぎょうじゃさん)。行者堂が山頂近くにあって、今でも修験者が上っていること。修験の山は、奈良の大峰山や加賀の白山、近くだと後山もあるが、そこまで行けない人たちが地元のふさわしい山に行者山という名をつけ、修験の場としていること……。
 行者山をバックにして話す日に焼けた顔には、この山の麓でこの山と共に生活してきた、何か確信のようなものが感じられた。

 下生栖の集落から林道に入った。
 林道を少し進むと、道の脇に「行者参 登山記念」の石碑が立ち、その奥にお堂が建っていた。実は、このお堂の左手が登山口だったのだが、林道から分岐する作業道の終点から道が山頂へ続いているのだと思い込んでいたのがいけなかった。
 登山口に気づかずに、そのまま林道を進み、その先の作業道に入っていった。作業道は、山頂方向につづらに上っていたが、やがて鉄索(てっさく)の下のうず高く積まれた石の山の前で行き止った。
 作業道を少し戻り、ひとつ北の小さな谷から植林された急な斜面に取り付いた。地面には、スギ・ヒノキの枝葉が落ち、間伐された幹もところどころに残っているが、歩きづらくはなかった。ただ、傾斜がきつい。ずいぶんと上って、下のお堂から続く登山道に出た。
 

行者堂
ネジキの花
 登山道には、ときどき自然林が混じってくる。大きなケヤキの樹があった。
 道は山の西斜面を横切るように緩やかに上っていたが、やがてつづらに細かくターンを繰り返しながら急斜面を上へと向かっていた。急斜面を上りきると、山頂と南西ピークとの間の小さなコルに達した。
 そのコルからコナラの稜線を山頂へ向かうと、斑れい岩の黒い岩肌があちこちに現れてきた。山頂の西は、切り立ったいくつかの大きな岩が積み重なり、その下に小さな行者堂が立っていた。

 山頂部は、小さな台地状になっていて、アカマツやヒノキの下にアセビが群れ、ネジキが小さな純白の花を付けていた。
 三角点を過ぎ、頂上台地の先端に立った。揖保川の流れが山峡を北へと長く続いている。厚くて底のぼやけた層積雲が、北から南へゆっくり動いている。
 正面に見える東山の山頂は、その雲の底に没している。遠くにかすむ藤無山も、頂稜部は深く雲の中であった。
 6月も終わりだというのに、北からの寒気で肌寒い。イワツバメが、その北風に乗って山の斜面から山頂のすぐ上を、気持ちよさそうに自在に飛んでいた。

 帰りに、もう一度行者堂に寄ってみた。
 花挿しには、菊の花と手折られたアセビの葉が新しく挿されていた。周囲には、お香の甘いようなにおいが残っている。
 道の先を見た。白装束の修験者の後姿が一列に並んでわずかに見えたが、すぐに木々の中に消えていった。


山行日:2002年6月23日

山 歩 き の 記 録

行き:駐車地点(神姫バス「下生栖」バス停から林道能栖線に約300m入った地点)〜お堂(三方谷第廿一番霊場)〜作業道分岐(310m+)〜地形図作業道終点(400m+)〜斜面を東へ急登〜登山道へ出る(約550m)〜720m+コル〜山頂(787.2m)

帰り:山頂〜720m+コル〜(登山道をそのまま下る)〜お堂(三方谷第廿一番霊場)〜駐車地点

登山口の石碑とお堂
 国道29号線を安積橋で分かれ、揖保川に沿って北上する。神姫バス「下生栖」バス停が新しいバイパスとの分岐に立っているが、ここに生栖行者山の西裾を横切る林道(林道能栖線)の入り口がある。下生栖の民家を過ぎると、舗装は途切れて地道となる。すぐに、閉じられた鉄製のゲートに行き当たるので、その前に車を止めた。ゲートを乗り越えて、林道を400mほど歩くと、「行者参 登山記念」の石碑が立っている。その奥には「三方谷第廿一番霊場」のお堂がある。このお堂の左手が行者山への登山口であったが、気づかずにそのまま素通りしてしまった。
 さらに300〜400mほど進むと、二股に分かれた分岐に着く。左に分かれるのは、砕石した石を運ぶための作業道のようである。つづらになって山頂方向に向かっているこの作業道を上っていった。地形図実線路の終点より、さらに3回折り返して上ると、鉄索(ケーブル)の下にうず高く積まれた石置き場で行き止まった。この谷の先は、がレ石と草木で荒れ、鉄索下に立ち入りを防ぐネットが張られていた。
 作業道を少し戻り、地形図実線路の終点から、スギ・ヒノキの植林された急な斜面を上っていった。この斜面をまっすぐにずいぶんと上ると、下のお堂からの登山道に出た。
 ここからは、この登山道を進む。初めはゆるく南へ上っていたが、やがてつづらになって急登する。急斜面を上りきると、山頂と南西ピークとの間の小さなコルに着いた。コルからは、行者堂に立ち寄ってから山頂に達した。
 山頂の三角点は無残であった。上部が大きく欠けて丸くなっている。下が方形なのを見て、初めてこれが三角点の標石だと分かった。
 帰りは、登山道を下のお堂まで歩く。道ははっきりしていた。
   ■山頂の岩石■ 斑れい岩  夜久野岩類(舞鶴帯)


 生栖行者山には、舞鶴帯の夜久野岩類に属する深成岩類が分布している。

 深成岩類の中でも、斑れい岩が多くを占め、山頂付近に大きく露出しているのもこの斑れい岩である。斑れい岩は、主に輝石・角閃石・長石から成るが、鉱物の割合や粒の大きさに岩相変化が大きい。
 鉄索終点下の作業道には、石英閃緑岩が露出していた。

 転石を調べると、その山を構成している岩石がよく分かる。もっとも多いのが、粗粒〜細粒の斑れい岩。粒の大きさや色指数(有色鉱物の割合)の変化が激しく、縞状構造の見られるものもある。全体的に変質が進み、一部は弱く蛇紋岩化している。
 斑れい岩以外には、深成岩類として、閃緑岩・石英閃緑岩・トーナライトが混じっている。これらも、夜久野岩類の一部である。また、量的には少ないが、チャート・硬質の黒色頁岩・粘板岩なども,転石として見かけることができた。

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