太尾城山(133m)・畑(311.7m)
   姫路市  25000図=「笠原」


小さな城山を越えて、旗振り場の山へ


甲池から望む畑山(中央)と太尾城山(左)

 神谷池のまわりを、標高250mほどの低い山並みがぐるりと取り囲んでいる。その中で一番高いのが標高311.7mの畑山で、西に流れる市川を見下ろすように立っている。
 太尾(ふとお)城山は、その畑山から屈曲しながら北西に伸びた尾根の先端部にポコリと突き出ている。
 今日は、太尾城山を経て、その東尾根からキャンプ場に下り、そこから畑山へ登るコースをとった。

1 太尾城山へ

 山頂部に太尾城のあった城山は、南西からながめると、背後の尾根がその山頂に隠され小さな単独峰のように見える。

 太尾城山の登山口は、南麓に建つ観音堂。石段の下には、「太尾城」、「大日石仏」、「磨崖仏」の説明板が並んでいる。

 太尾城は、『赤松家播備作城記』によると文明元年(1469)後藤伊勢守基信が居城し、その後代々後藤一族によって相続されるが天正6年(1578)秀吉の攻略により落城した(「姫路の山々 山名の由来と周辺の歴史 1996」による)。

太尾城山

  石段を登るとすぐ、観音堂の小さな社。そのうしろの岩盤に、薬師如来の磨崖仏が彫られていた。長年の風化によって輪郭があいまいになってきているが、やわらかさを感じるその姿だった。
 ホシミスジがすいすいと飛んできて、境内の地面に止まった。

観音堂

 観音堂の左脇からコンクリートの登山道が上っていた。アラカシやアベマキにおおわれた、うっそうと暗い林。樹上でツクツクボウシがにぎやかに鳴いている。
 九十九折りに登っていくと、小さな崖をバックに石仏が祀られていた。道はさらに急になった。コンクリート階段を登り、「城山大神」の朽ち始めた鳥居をくぐり、石灯篭を過ぎると地道になった。
 露岩を彫ってつくられた階段を登ると小さな境内が広がっていて、その上に稲荷大明神をまつる祠が建っていた。

 祠の右手に、踏み跡程度の道が続いていた。拾った木の枝でクモの巣を払いながら進む。ほとんど平らな尾根上の小さな高まりが太尾城山の山頂だった。
 山頂のすぐ東に、堀切跡らしい溝が見られる。それを除けば、城跡の面影はすでになく、眺望も生い茂る木々によって失われていた。オオバヤシャブシの丸くかさかさした果穂が、あたりにたくさん落ちていた。

 山頂から、東に続く細い道を進んだ。地面を数m掘りこまれた溝が尾根を横切っていて、今度ははっきり堀切跡だとわかった。

尾根の堀切跡

 堀切跡から先は、道が消えたのか、道を踏み外したのか、しばらくヤブを漕いだ。低木やコシダを分けて進むと、再び尾根の上に道が現れた。
 その道は、やがてゆるく上りはじめた。ソヨゴの青い実がふくらんでいる。ヤマウルシの葉は、もう赤やオレンジに色づきはじめている。コバノミツバツツジの木が多くなってきた。
 ゆるい坂を登って林を抜けたところに裸地が広がり、そこに「トンビの巣」と書かれた木札が立っていた。真南に畑山が大きく見えた。
 ここから、南へ下っていった。キャンプ場の自然探索コースになっているのか、明瞭な道が数ヵ所で枝分かれしていた。やがて、「こはんの宿」の木札の立つ奥池の畔に出た。池の向こうに、歩いてきた太尾城山が望める。

「トビの巣」地点 奥池湖畔「こはんの宿」より太尾城山を望む

 「こはんの宿」は行き止まりになっていたので、少し登り返して南に進むと、太尾キャンプ場に出た。シーズンオフのキャンプ場には、ロッジや管理棟などの建物、いすやテーブル、炊事場、テント場などが静寂の中に広がっていた。

2 畑山へ

 テント場の上に、畑山の登山口があった。両脇の木には、粘土でつくられた飾り物が掛けられている。

畑山登山口 登山口の飾り物

 雑木の薄暗い林。ときどきコナラの大きな木が立っているが、それ以外はどれも、幹の細い低木。風化した凝灰岩のつくる肌色の登山道を登っていった。
 道の傾斜が急になり、九十九折りになった。地面にはシシガシラが多い。木々の間を風が吹きぬけると、葉擦れの音がざわめいた。
 ひと登りすると、道は山の斜面をトラバースするようにゆるくなった。ときどき、左手に木々の間からふもとの平野とその中を流れる市川が見えた。
 道は、再び急になった。目の前に現れたナミヒカゲを追うと、枯れたコシダの葉の裏に隠れた。

ナミヒカゲ

 急坂を登りつめると、山頂から北に延びる尾根にたどりついた。そこに立っていたのが、「立入禁止」の看板。
 その先には防火帯が尾根に沿っていて、山頂まであとわずか。しかし、「侵入者を見つけた場合は警察へ通報します」の赤い文字が、私の足をここで止めた。

この先は立ち入り禁止

 畑山の名は、旗振山からきたと考えられている。

 『江戸末期・明治・大正時代に大阪や兵庫の米相場をいち早く伝えるために「旗振り信号」が用いられた。畑山山頂がその旗振り場の一つであった(「姫路の山々 山名の由来と周辺の歴史 1996」から引用)。』

 大きな石が台状に配置された旗振り場の遺構が、山頂付近にあるという。

 南麓に日本化薬工場があるので、この山に火が付くようなことがあってはならない。そのための立ち入り禁止もよくわかる。
 しかし、北からのルートで山頂や旗振り場の遺構へ行けるような方法がとれないものだろうか。

 砥堀あたりから、畑山山頂付近に建つ大きな反射板が見える。反射板の下は、きっと眺望が大きく開けているだろう。
 そこに立てないことを残念に思いながら、登ってきた道を下った。

山行日:2017年8月31日

観音堂〜太尾城山(133m)〜太尾キャンプ城〜畑山登山口〜防火帯手前「立入禁止」地点〜畑山登山口〜太尾キャンプ場〜観音堂
 太尾城山の南西麓、観音堂の下に、駐車スペースがある。ここから、城山山頂近くまでコンクリート道がついている。
 城山から尾根を東に進むと、キャンプ場の敷地となり道が数ヵ所で分岐している。
 キャンプ場を過ぎたところに、畑山の登山口がある。登山口から、細いが明瞭な道が防火帯まで続いている。

山頂の岩石 白亜紀 広峰層群 豊富溶結凝灰岩 流紋岩質溶結凝灰岩
 太尾城山、畑山には、白亜紀の広峰層群豊富溶結凝灰岩が分布している。

 播磨地域には、後期白亜紀の火山岩類が広く分布しているが、広峰層群はその中でも一番下の地層にあたると考えられている。
 
 山頂付近に露頭はないが、歩いたルート沿いの数ヵ所でこの地層を観察した。
 石英・長石の結晶片を含み、本質レンズによる溶結構造が認められた。また、頁岩やチャートなどの岩片を少量含んでいる。
 風化による変質が著しく、岩石は黄褐色を帯びていてもろい。

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