大門宮山(140m)・妙徳山(140m)・辻川山(128.9m) 福崎町 25000図=「北条」
「ふくさき三獅子山」とその界隈
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| 桜池から望む「ふくさき三獅子山」 |
福崎町の大門宮山、妙徳山、辻川山は、どれもふもとからの高さが50mにも満たない小さな山である。三山合わせて「ふくさき三獅子山」という勇ましい名前がつけられているのは、遠方から望むとあたかも三頭の獅子が横たわっているように見えるからだという。
三山のふもとには、古い石造鳥居の立つ岩尾神社や民俗学の父柳田國男の生家などの歴史的遺産が残されている。春の一日、三獅子山とふもとの名所旧跡をつないで歩いてみた。
1.大門宮山
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| 大門宮山 |
ニガイチゴの花 |
山の南西麓に建つ大歳神社の右脇に遊歩道の入口を示す道標があった。三獅子山はどれも、ふれあいの森として整備され、里山散策を楽しむための遊歩道がつけられている。
登山口から山に踏み込むと、足元にニョイスミレが咲いていた。その花はまだ朝露に濡れている。雑木林からすぐにヒノキ林に入った。ヒノキ林の開けたところには、コバノミツバツツジやヤマツツジが咲いていた。
道は再び雑木林に入り、しだいに細くなってきた。くもの巣を払い、ニガイチゴのとげをかわしながら登った。テーブルとベンチの置かれた山頂広場は、周囲から伸びてきた木々にうずもれようとしていた。テーブルの横に咲くコバノミツバツツジの上には、コナラが小さく柔らかな葉を広げようとしていた。
岩尾神社石造鳥居と石橋
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山頂から西へ下った。目の前に、福崎町の町並みや田んぼが広がり、その中に妙徳山の緑が岬のように突き出している。辻川山もまた新緑におおわれて、ぽっかりと浮かんでいた。
道は大歳神社へ戻っていたが、そのまま尾根を西へ分け入った。途中に高さ10mほどの掘り切りも現れて、なかなかハードなヤブこぎだった。予定通り岩尾神社に下り、本堂の縁に座ってズボンにびっしりと付いた数種類の植物の種をとった。
岩尾神社には、慶長12年(1611)の銘が刻まれた石造鳥居が立っている。すぐそばの小川には、石橋が架かっていた。どちらも凝灰岩からできていて、その風化した石の表面と張り付いた地衣類が、それらの歴史の古さを感じさせた。
2.妙徳山
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| 妙徳山(手前) |
コバノミツバツツジ咲く尾根道 |
仁王門をくぐり、悟真院の白壁の間の道を抜けて石段を上ると、神積寺の本堂が建っていた。二基の古い石灯籠、それにかぶさるように立つ樫や椎の古木……。神積寺は正暦2年(991)、慶芳上人によって開基されたと伝えられている古刹である。
妙徳山山頂
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鐘楼の奥に道標があって、そこから妙徳山の南麓に道が伸びていた。この道を進み、山すその東端に来たところから今度は尾根を西へ登った。
尾根は明るい雑木の道。満開のコバノミツバツツジが、あたりをピンクに染めていた。
小さなピークを越え、立ち並ぶ石仏を見ながらひと登りすると妙徳山の山頂に達した。山頂もまた、ツツジの花の中にあった。
山頂から南へ下った。石仏がずっと続いて立っていた。三十三ヶ所観音巡りの信仰の道である。文殊荘をかすめて、もとの神積寺に下りた。
3.辻川山
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| 辻川山 |
山頂展望台から望む福崎町の町並み |
山すそを回り込み、石段を登ると天満神社が建っていた。近くで子どもたちの遊ぶ声がする。天満神社から広い道をゆるく登り、開けた尾根を進むと、もう辻川山の山頂に達した。
山頂は広い草地になっていて、西端にコンクリート製の展望台が建っていた。展望台の横には大きなヤマザクラが立っていて、まだ花をつけている。草地の上では、2匹のキアゲハがもつれ合うようにして舞い、どこかに去ったかと思ったらまた何度も戻ってきた。
展望台に上ると、眼下に福崎町の町並みが広がっていた。広峰山、棚原山、大倉山、明神山、七種山、日光寺山、深山……見慣れた播磨の山々が、ぐるりと四方を囲んでいる。それらの景色の前を、時々サクラの花びらが舞い落ちた。
鈴の森神社
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山頂を南に下り、ツバキの花の下をくぐって鈴の森神社に下りた。
境内には、樹齢約1000年という古いヤマモモの木が立っている。柳田國男が子どもの頃登って実を食べようと思ったが、ガキ大将たちに採られてしまって口に入らなかったというヤマモモの木である。
本堂の横には、受験合格祈願の絵馬がいくつも掛けられていた。
4.辻川界隈
鈴の森神社を下ると、そこは歴史遺産が集中している辻川の町並みである。
はじめに、柳田國男・松岡家顕彰会記念館を訪ねた。展示室には、國男とその兄弟にまつわる資料が数多く並んでいた。兄弟の誰もが医や学問、あるいは日本画の分野で超一流であって、それぞれの道で大成している。
どの展示をみても、すごいと感嘆せずにはいられない。國男の生い立ちや、民俗学に進んだきっかけ、旅と学問、探求のありかたなどが興味深かった。
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| 柳田國男・松岡家顕彰会記念館 |
記念館の展示室 |
柳田國男の生家は、新緑に包まれて山のふもとに静かにたたずんでいた。
この家について國男は、「故郷七十年」の中で、「私の家は日本一小さな家だ。」と言い、さらに「この家の小ささという運命から私の民俗学への志も源を発したといってよいのである」と語っている。
玄関から土間に入ってみる。座敷は四畳半二つ、三畳二つ、それにかまどのある台所や物置き部屋がある。大家族で住むには確かに狭かったと思われるが、雑多な生活感はもはやここから消え去っていた。
好天に開け放たれた部屋を風がさわやかに吹き抜け、偉人たちがここで生活し、ここから巣立っていったという感慨から、むしろ何か格調の高さのようなものを感じた。
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| 柳田國男生家 |
神崎郡歴史民族資料館は、ギリシャ建築様式を玄関部に取り入れた明治の建築物である。
中に入ると、この建物の由来について学芸員さんが説明してくれた。展示室には、福崎町の西広畑遺跡から発掘された旧石器時代サヌカイト製ナイフ型石器、縄文の石器や土器、弥生の土器や甕棺、古墳時代の埴輪などが展示されていた。
蝶の標本などもあり、春型と夏型のキアゲハを比べてみると、辻川山で見たキアゲハの大きさが納得できた。
少し歩くと、昔の銀の馬車道に出た。そこには、大正11年に建てられた旧辻川郵便局がレトロな雰囲気をかもし、その隣に大庄屋三木家住宅が土壁の中に残されていた。
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| 神崎郡歴史民族資料館 |
大庄屋三木家 |
山行日:2009年4月18日