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姫路城の地形と地質 (姫路市)
姫路平野の小さな丘の上に築かれた姫路城。大天守と大天守に寄り添う3つの小天守、それらを取り囲む数々の櫓(やぐら)や門、張り巡らされた渡り櫓や白い土塀。 ようやく訪れた秋の青空に、白漆喰をまとった姫路城は美しく映えていました。この姫路城の建つ大地の地形と地質を見て歩きました。 1.姫路城は姫山と鷺山に建つ 姫路城が建っているのは、標高45.3mの小丘です。ふつう姫路城の建っている丘は姫山と呼ばれていますが、実は東西ふたつの峰があってその東側の峰が「姫山」、西側の峰が「鷺山」なのです。 天正の古地図といわれている「菱海堂版姫路古地図」に、この姫山と鷺山の名が記されています(「姫路の山々」姫路市歴史研究会,中島書店,1996)。 桜門をくぐり三の丸の南に立つと、正面に大天守がそびえています。この大天守の建つ小丘が姫山です。姫山の左(西)には西の丸の台地が広がっています。これが鷺山です。
姫路城は、姫山と鷺山の地形を利用してつくられた平山城です。小高い姫山には、上山里曲輪、備前丸が設けられ、頂部に大天守が築かれました。 一方、鷺山は上部を大きく削られて西の丸がつくられました。
二つの山の間にあるのが、「三国堀」です。三国堀は、二つの山の間にあった堀をせき止めてつくられました。 菱の門をくぐると、石垣で四角く囲まれた三国堀の前に出ます。ここで、道は右と左の2つに分かれます。三国堀は、城内に水を確保しておく以外に戦力的な意味があったといわれています。 三国堀の北側の石垣をよく見ると、ここへ流れ込んでいた古い堀の痕跡がみられます。
2.姫路城はジュラ紀付加体に建つ 姫路城では、下の図のP.1~P.5で地層を見ることができます。ここに分布しているのは、ジュラ紀の付加体である丹波帯南山層です。
◆P.1 三の丸から下山里曲輪へ登る細い道の入口に地層が現れています。 砂岩頁岩互層で、道の上と下で観察できます。 砂岩は、褐色の細粒砂岩です。頁岩は、帯褐灰色で一定方向あるいは不規則な方向に薄く割れる性質があります。 砂岩と頁岩の地層の厚さに変化があり、褶曲が見られます。また、砂岩が頁岩中にレンズ状にふくまれているところもあり、付加体の地層の特徴が表れています。 頁岩より砂岩の方が硬いために、砂岩の地層が飛び出しています。道の土の下から現れているのも砂岩です。
2ヶ所で走向と傾斜を測定しました。N80°E,50°S、N72°W,50°Sです。地層は、南に急な角度で傾いています。
◆P.2 西の丸を縁取る百間廊下の北端あたり、ヌの櫓と化粧櫓の中間あたりです。建物を支える杭の奥に地層が見えます。 塊状で不規則な割れ目の入った地層で、表面は褐色に風化しています。割れ方や風化のようすから、砂岩だとわかります。
◆P.3 喜斉門から北に歩いた内堀の東端で、姫路神社の入口の近くです。 山脚に黄土色に風化した砂岩が現れています。塊状で層理面は観察できません。割れ落ちている岩石の中に頁岩がふくまれているので、薄い頁岩の層がはさまれているようです。 ここも姫路城のエリアなので、ハンマーでたたくことができず詳しいことはわかりません。
◆P.4・P.5 露頭を探して、内堀の外側をぐるりと歩きました。内堀の向こうは深い樹林帯です。「姫山原生林」として知られている樹林ですが、原生林ではないことがわかっています。 内堀の外側は石垣で縁取られていますが、内側には石垣がなく急崖の山脚がそのまま堀の壁として利用されています。 堀の水の上のところどころに、露頭が見えます。P.4・P.5のポイントは、その中でもよく見えるところです。堀を隔てて双眼鏡で観察しました。 どちらも不規則な割れ目がありますが、塊状で層理面は観察できません。色もわかりませんが、割れ方から砂岩のように見えます。
3.大天守から姫路平野の小丘群を見る 大天守の階段を次々と登っていくと最上階の6階に達します。四方に窓があって、姫路平野を見渡すことができます。 東は、眼下に美術館の赤レンガ。その先に市街地が広がり、遠くに桶居山がとがっています。 北は、広峰山系。広峰山から増位山へ平らな稜線を引いています。 南は、大手前通りがまっすぐ姫路駅へ延びています。沿岸工業地帯の向こうの播磨灘は、逆光にかすんで空と一体となっています。 そして、西には西の丸の百間廊下が優雅なラインを描き、その先の市街地にいくつかの小丘が浮かんでいます。近くに男山、その左に景福寺山。景福寺山には薬師山が重なり、遠くに名古山が見えます。
平野の中にこのような小丘が散在しているのが、姫路平野の特徴です。この大天守の建つ姫山も、もちろんその一つです。 小丘はどれも山裾を引かずに、急傾斜で平野に突き出ています。これらの小丘はどのようにしてできたのでしょうか。
小丘をつくっているのは、どれも基盤の地層です。基盤の地層として、姫路平野の周辺には後期白亜紀の火砕岩類が分布していますが、北の八畳岩山と姫山をふくむ平野の中の小丘群はどれもジュラ紀の付加体からなっています。 このジュラ紀付加体は、丹波帯に属す南山層で砂岩泥岩互層と泥岩(頁岩)を主体としてチャートや緑色岩をはさんでいます(『姫路市史 第一巻上(2001)』)。 姫路平野には、この基盤岩の上に厚い砂礫層が堆積しています。砂礫層は、第四紀完新世になって市川や夢前川が上流から運んできた沖積層です。 小丘は、新しい地層の中から、その下の古い基盤岩が顔を出しているのです。 このようなことから、次のようなストーリーが考えられます。 姫路には、起伏に富んだ山々がありました。そこに流れ込む市川や夢前川が、洪水のたびに砂や礫を上流から運び谷底を埋めていきます。 姫路の大地は少しずつ沈降していたので、砂や礫はどんどん厚く積もり谷を埋め尽くして低い山から砂礫の中に埋もれていきました。 高い山の山頂だけが最後まで埋め残され、現在姫路平野に散在する小丘となりました。 このようにしてできた小丘は、山すそを引かずに山脚から急な崖をつくって平野に飛び出すことになります。 この特徴ある地形は、大汝命(おおなむちのみこと)と火明命(ほあかりのみこと)の親子の争いから始まる『播磨国風土記』の「十四丘伝説」を生みました。 ■岩石地質■ ジュラ紀 丹波帯南山層 |