| 初 鹿 野 山 (507.8m) 市川町・神崎町 25000図=「粟賀町」 |
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山から帰って地形図を開けると、まだ湿ったその地形図からはスギの匂いが広がった。
林道は、川に沿ってまだ奥へ続いていた。ムラサキシキブが細い枝を張り出している。枝には、黄色の葯がとび出した紫色の小さな花を付けていた。 雑木林は、スギの植林へと変わった。土や落ち葉は今朝までの雨でじっとりと濡れ、わだちのあちこちにできた水溜りにはイモリがはっていた。あたりにマツカゼソウとタケニグサがやたらと多い沢の出合いで、これまでの林道と別れ左の沢沿いの道に入った。 初め緩かった傾斜はしだいに大きくなって、道も細い杣道に変わった。変質した凝灰岩のガレ石の上にスギの落ち葉が積もっている。いつの間にか、沢音も聞こえなくなった。スギの林の中に、アブラチャンなどの夏緑樹がポツンポツンと入り込んでいる。夏緑樹は、スギの樹間からもれ注ぐ光を浴びて、暗い林内にそこだけが鮮やかな黄緑色で浮かび上がっていた。
防鹿ネットの続く南尾根を山頂へ向かう。かつての伐り開きはほとんど消え、きついヤブこぎとなる。ナツハゼの実は、まだまだ固く、口にすると酸っぱくて後に苦さが残った。ふと、どこかでかいだような香りがしたので頭を上げてみると、サカキがやや黄色味を帯びた白い花を下向きに付けていた。急傾斜の尾根を上りきり、ネット越しにようやく頂上の三角点を見つける。 三角点の横に座ると、夏草に埋もれた。ササ、サルトリイバラ、イヌワラビやコナラ、モチツツジ、マメツゲの幼樹が目の前を取り囲んでいる。ウグイスが近くで鳴いた。今日こそ、姿を見てやろうと双眼鏡を取り出そうとしたとき、そのウグイスは目の前のソヨゴの木を下から跳ねのぼり、となりのヒノキの枝に一瞬移ったかと思うと、あっという間に飛び去った。 三角点を離れ、木々の切れ間に立つと、北が開けた。福山鉱山の採石地が赤茶けた地肌をさらしている。その上に、小世山が大きく稜線を伸ばし、その稜線の上に笠形山の山頂部が白く霞んでのっていた。 初鹿野の名は、『播磨国風土記』の中の「波自加(はじか)村」に由来している。 大汝命(おおなむちのみこと)と小比古尼命(すくなひこねのみこと)のがまん比べは、播磨国風土記の中でもよく知られている話である。 「屎(くそ)をしないで行こう」と言った大汝命と、「埴(はに、粘土)の荷を持って行こう」と言った小比古尼命は、数日後お互いにもうがまんができなくなった。大汝命は、その場にしゃがんで屎をしたが、そのとき小竹が屎を弾(はじ)き上げて衣に当たった。だから、その村を波自加村と名づけた。また、小比古尼命が埴を投げ捨てた岡を、埴岡と名づけたという話である。 「波自加(はじか)」が、「初鹿(はしか)野」になったのは、応神天皇が狩猟に当地へ来たとき初めて鹿が見つかったことによると、『ふるさと「やかた」の歴史』(後藤丹次 1975)に記されている(源出典不明)。 初鹿野は、初鹿野山西麓の10戸内外の集落である。集落の裏にそびえるこの山も、地元では「初鹿野」と山をつけないで呼ばれている。 古の人々のユーモアある想像力を思いながらも、またヤブと格闘して山を下っていった。 山行日:2003年6月31日 |
市川の支流、小畑川は小畑小学校の北で西小畑川と東小畑川に分かれる。西小畑川に沿って進むと、最初のため池「大師池」が現れる。そのすぐ上流の2つ目のため池の横の広場に車を止める。 |
| ■山頂の岩石■ 白亜紀後期 大河内層 溶結火山礫凝灰岩 初鹿野山に分布する岩石は、黒色頁岩や砂岩あるいは少量のチャートなどの岩石片を多量に含む溶結凝灰岩である。色は、褐色あるいは帯青緑色で、全体的に著しく変質している。珪化している部分も多い。溶結構造は顕著ではない。 |