五台山〜五大山          市島町・氷上町                25000図=「黒井」
修験の道を五台山から五大山へ

  西暦705年、法道仙人によって開基された「白毫寺(びゃくごうじ)」は山号を「五台山」という。これについて、次のような縁起が残っている。『其の後 叡山の慈覚大師当山に来錫して此の山を御覧せるに 吾昔大唐の五台山に登れり 今此の山の境地を見るに五つの峯持ち巡りて恰も彼の五台山に似たり 故に五台山と号す(白毫寺境内に立つ案内板より)』
 
今では、白毫寺の北西に連なる山の中で標高654.6mの最高峰を「五台山」、また標高569.2mの峰を「五大山」といっている。しかし、もともと「五台山」とは北から、「親不知」「五台山」「鷹取山」「愛宕山」「五大山」と続く峰の連なりをいっていたのである。
 今回、
白毫寺を起点として乙河内の集落を抜け美和川を遡り、五台山から鷹取山、愛宕山、五大山と4つのピークをつないで歩いた。この五台山から五大山への稜線は、降った雨を日本海と太平洋に分ける中央分水界でもあり、さらに南へ日本一低い石生の谷中分水界へと続いているのである。

 舗装路は乙河内浄水場で地道に変わり、やがて細い踏み跡のような小径になった。谷沿いのその小径も、倒木や落ちた枝葉で荒れたスギの植林の中で消えかかり、ときどき現れるそま道を辿りながら登っていった。すこし登っては、立ち止まって休むというような苦しい喘ぎを繰り返し、五台山の山頂に着いた。新しい文殊菩薩の立つこの山頂は、数本のカエデやサクラが植林され、南方面にはテラスのように張り出した展望台もつくられている。ヒノキの木陰のベンチに座り、疲れた体を休めた。周囲の山々がよく見える。多紀アルプスの山の連なり、黒頭峰と夏栗山、白髪岳と松尾山、前景の山の背後に頂上付近だけ顔を出す千が峰、長い稜線を優雅に広げる粟鹿山、丹後の三岳山、姫髪山、大江山……。夏の積雲の群を浮かべた青空をバックに、アオスジアゲハとキアゲハがこの闖入(ちんにゅう)者の入ってきた山頂を見回りに、もつれ合って旋回していた。

乙河内から望む五台山 五台山山頂

 雑木と植林のヒノキが繰り返して現れる尾根道を南東へ進んだ。チャートの岩塊が5、6個ケルンのように積まれた最低コルから見た鷹取山は、急角度でそびえている。この鋭鋒を、『兵庫丹波の山』の著者、慶佐次盛一氏は、「氷上槍」と呼んでいる。岩石の露出は少なく、やせた黒土の上に生えた雑木と植林の間の踏み跡には、随所にロープが結ばれていた。古くて心もとないこのロープや、木の幹につかまりながら登ること約10分、鷹取山の山頂に出た。展望は木々にさえぎられて良くないが、南東に黒井城址を見下ろすことができた。大正6年建立の「雷大御神」の石碑が立つこの山頂にも、一羽のアオスジアゲハが飛んでいた。

 鷹取山の頂上部を降り、そこからは緩やかに起伏する尾根を南に進む。愛宕山手前のコルからは、また厳しい上りとなる。白く硬いチャートの岩体があちこちに顔を出し、それらの岩を乗り越えながら、また巻きながら上っていく。頂上かと思っても、さらにその上があった。この小刻みに上り下りを繰り返す起伏は、乙河内付近からこの山を見上げたとおりの頂稜部の姿であった。ようやくの思いで辿り着いた愛宕山の山上には、スギの古木、アセビ、コナラなどの木に囲まれて神社が建っていた。参拝者の記帳用のノートには、毎月下旬に宮当番がお詣りに来ることが記されていた。神社のすぐ前の岩が、愛宕山の山頂である。この山頂には、「京都愛宕山遙拝所」の札が立っていた。天気が良かったので、あるいは京都の愛宕山が見えたかも知れないが、それを確認するだけの余裕はもうなかった(『山であそぼっ』の島田さんによると、木がじゃまをして見えないということです)。 愛宕山からの下りも、険しい径である。降りた分だけ上り返して、今日の最後の峰、五大山に立った。

愛宕山(右)と五大山(中央やや左) シャクナゲにからみつくヘクソカズラの花


 かつて、山岳宗教の盛んであった頃には、5つの峰を五大明王に見立て、徳尾の大原神社から入峰し白毫寺へ下るという回峰行が行われていたという(『兵庫丹波の山』)。今日歩いたのは、その道程の半分ほどか。最後の峰、五大山から、この厳しい修験の道を白毫寺へ降りていった。
 
山行日:2001年8月14日

山 歩 き の 記 録
白毫寺〜三輪神社〜乙河内〜乙河内浄水場〜五台山(654.6m)〜小野寺山(645m)〜鷹取山(566.4m)〜愛宕山(570m+)〜五大山(569.2m)〜330mピーク〜白毫寺
白毫寺
 国道175号線から白毫寺へは、いくつかの道標が導いてくれる。白毫寺の駐車場に車を止め、歩き出す。あぜ道を通って「三輪神社」へ。橋を渡って美和川の左岸の車道を北西に歩き、乙河内の集落を通る。この辺りからは、西に鷹取山から愛宕山、五大山と続く尾根がよく見える。長いアプローチであるが、これから歩く稜線の姿がよく読みとれる。しし垣きを越え、さらに進んでいくと徐々に山の斜面が両側から迫ってくる。乙河内浄水場(地形図に建物の記号あり)で舗装路が地道に変わる。地道はすぐに狭くなり、荒れてくる。標高280mの二股から進路を右にとり谷を西へ上っていく。ときどき現れるそま道を利用しながら広くなった植林の谷を上り詰めると、稜線上の登山道に出た。出たところが五台山とその東のピーク、小野寺山との間のコルのすぐ上であった。五台山の北に出る地形図破線路からは、だいぶん南にそれて歩いたことになる。このコルは峠になっていて、北へ「降り口 狸穴を経て」、南へ「香良方面」の道標がある。しかし、北への道は消えていた。

 コルからつづら折りの登山道を上って、五台山頂上に達する。再びコルに戻り、上り返して645mのピークへ。このピークが小野寺山であり、周囲の山名を記した方位盤がある。
 ここからは、氷上町と市島町の町界尾根を南へ、鷹取山、愛宕山、五大山と大小の起伏を越えて進む。径はおおむねはっきりしている。鷹取山山頂からの降り口と、愛宕山山頂からの降り口は、進路を間違えないように注意しなければならなかった。途中、所々に「幸世村直営地界」と彫り込まれた石柱が立っている(「幸世村」は、現、氷上町北部)。
 五大山からは、地形図破線路に沿って東へ白毫寺をめざす。急な下りが何ヶ所も現れ、疲労と渇きと膝痛の体にはかなり厳しかった。岩も植物も周囲の地形もほとんど見る余裕がなく、ただ東への方向だけ間違えないように下っていった。
   ■山頂の岩石■ 古生代ペルム紀〜中生代三畳紀  丹波層群 チャート

層状チャート(五大山山頂)
 五台山から五大山の4つの峰をはじめとして、今回歩いたコースの多くがチャートであった。色は、赤みがかった茶色、白、灰色、黒っぽい灰色とさまざまである。塊状のこともあるが、層理のはっきりした層状チャートが多い。
 チャートは、大洋底で放散虫という小さなプランクトンの遺骸などがゆっくりと降り積もってできた岩石。この地域のチャートは、古生代ペルム紀から中生代三畳紀(およそ2億〜3億年ほど前)に太平洋の底でできたとされている。それが太平洋のプレートにのって、何千万年もの歳月をかけて移動し、陸に押しつけられて隆起した。
 チャートは大変に硬い岩石であり、ハンマーでたたくと火花が出ることを利用して火打ち石にもされている。そのため風化や浸食に強く、この部分が削り残されて尾根を形成していることが多い。櫃ヶ嶽(ひつがだけ)から小金ヶ嶽、三嶽、西ヶ嶽、三尾山、さらには安全山まで連なる多紀アルプスは、その好例である。しかし、五台山から五大山にかけては、チャートの地層は東西に伸びているのに、尾根は南北に連なっている。地質と地形が一致していないのである。これは、地形をつくるのは地質からくる浸食のされやすさだけではないということを示している。大きな構造運動が土地の隆起や沈降に関わっていて、その結果、ここに南北に連なる尾根を形成し、また、それが複雑な中央分水界をつくったといえるのではないだろうか。

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