HP「兵庫の山々 山頂の岩石」
3 日本列島として成長した時代(新生代新第三紀〜第四紀)
 
日本海が開き始めた(イラスト:田ア正和)
 今から3000万年前頃、ユーラシア大陸の縁に割れ目が入り、大地がそこから引きちぎられ始めます。その割れ目に2500万年前に海水が入りこみ日本海のもととなりました。1500万年前に日本海の拡大が止まり、日本列島が今の位置に定まりました。島弧としての日本列島の誕生です。
 兵庫北部では、日本海の拡大に関係してグリーンタフ変動とよばれる広域的な火成・堆積活動が発生しました。
 鮮新世に入ると、兵庫北部では再び火山活動が活発となり、照来カルデラや鉢伏山・氷ノ山などの山々をつくる火山活動が第四紀まで続きました。
 300万年前頃から日本は東西に圧縮され始め、瀬戸内海がつくられたり六甲山が上昇したりして地形がつくられていきました。
   
(1) 日本海が開き、グリーンタフの活動があった(新第三紀中新世)
北但層群豊岡累層の緑色凝灰岩の地層(猫崎半島)
 日本海の拡大にともなって、日本列島の各地で断層運動や沈降運動が起こりました。海底では火山活動が活発になり、緑色凝灰岩(グリーンタフ)を特徴とする多量の火山噴出物が堆積しました。
 このときの変動をグリーンタフ変動といいます。兵庫県では北部でこの変動が進行し、この時の火成作用により北但層群が形成されました。
 北但層群は、下位から順に礫岩からなる高柳累層、玄武岩〜安山岩質の溶岩および火砕岩からなる八鹿累層、礫岩・砂岩とデイサイト〜流紋岩質溶岩および火砕岩からなる豊岡累層、黒色頁岩を主体とし凝灰岩・砂岩をはさむ村岡累層と重なっています。

 中新世も終わり頃(約1500万年前)になると、九州北部から瀬戸内海に沿って、さらに奈良・三重から愛知あたりまで、東西の帯状に、安山岩を主とする火山活動が新しく起こりました(屋島や小豆島、二上山など)。西宮の甲山安山岩は、このときの火山活動の火道(マグマの通り道)が地表に現れたものです。
 
(2) 中央構造線がつくられた
 日本海の形成にともなって、中央構造線とフォッサマグナがつくられました。
 中央構造線は、九州から関東山地まで長く続く断層です。実は、この中央構造線は活動時期のちがう二つの断層が重なっていると考えられています。
 日本海の形成と重なる漸新世(3400万年前〜2300万年前)に活動したのが古中央構造線で、九州から関東山地まで続きます。古中央構造線は衝上断層で、断層の北側が150kmにも渡って南側の上に乗り上げました。乗り上げた付加体や領家帯、和泉層群は隆起し削り取られて失われました。また、このとき領家帯(高温型変成岩)と三波川帯(低温型変成岩)が接するようになりました。

 フィリピン海プレートの運動方向が変化した鮮新世の300万年前から活動しているのが新中央構造線で、四国中央部〜紀伊半島中央部に続きます。新中央構造線はフィリピン海プレートが斜め沈み込みになったためにできた前弧スリバーによる高角の右横ずれ断層です。
(3) 兵庫北部で火山活動が起こった(新第三紀鮮新世〜第四紀更新世)
 
神鍋火山の火口
 鮮新世になると、兵庫北部で火山活動が活発となりました。
 最初に噴火したのが、ダルガ峰火山です(520万年前頃)。鮮新世の終わりから更新世の始めにかけては、照来火山、鉢伏火山、氷ノ山火山が噴火しました。
 この中で、照来火山は東西14km、南北17kmの巨大なカルデラをつくった大規模な火山噴火をしたことがわかっています。照来火山は、何度も噴火をくり返してその噴出物でカルデラを埋めました。またカルデラの凹地形には湖ができていて、新温泉町海上では、湖にたまった火山灰の地層から多数の昆虫化石が見つかっています。
 その後も玄武洞火山や扇ノ山火山などが噴火しました。

 玄武洞火山の流した溶岩は、かんらん石を斑晶にもつアルカリ玄武岩です。玄武岩という岩石名は、この玄武洞からつけられました。このアルカリ玄武岩は、兵庫県の「県の石」(日本地質学会)に指定されています。

 兵庫のいちばん新しい火山は、2万年前頃に噴火した神鍋火山です。神鍋火山は、スコリア(玄武岩質の黒っぽい軽石)が火口の周りに円錐形に積もったスコリア丘をつくっています。
 
(4) 氷河期が訪れ地形が形成された(第四紀)
 260万年前頃より新しい時代を第四紀といい、更新世(260万年〜1万2千年前)と完新世(1万2千年前〜現在)に分けられます。第四紀は氷河時代ともいわれ、氷期と間氷期が繰り返し訪れました。

 日本列島は、第四紀に入る少し前の新第三紀鮮新世の終わり頃(300万年前頃)から東西に圧縮され、西日本で山地が隆起を始めました。東西圧縮の原因は、フィリピン海プレートの沈み込む方向が北から北西へと変わったためだと考えられています。
 この東西圧縮によって、六甲山付近は100万年前頃から隆起が本格的になりました。断層によってブロック状に分断された山塊が上昇していったのです。この変動を六甲変動といいます。

 一方、今の瀬戸内海あたりは、300万年前頃から沈降をはじめていて、細長い湖ができていました。120万年前になると、ここに海が進入を始めます。その後、氷期と間氷期の繰り返しによる海面の昇降によって、海が入ったり退いたりを繰り返しながら、朝霧の海、高塚山の海、岩岡の海と、海域を西へ移動させていきます。60万年前になると、播磨平野にまで海が進入するようになりました。
 この300万年前頃から湖や海でできた地層を大阪層群といいます。

千町岩塊流
 また、播磨周辺の大地は六甲変動の影響を受けて、東が隆起、西が沈降するという運動をしました。加古川流域では、この大地の隆起と周期的な海水面の変動によって、河川や海岸に沿って何段もの段丘がつくられました。
 一方、たつの市から西の海岸や家島諸島では、大地の沈降によって複雑に入り込んだ海岸地形がつくられました。

 氷期には兵庫県でも、気温が今より7〜8℃低下したと考えられています。気温が低いと、岩石中に入った水が凍結して膨張し岩石を破砕させるはたらきが顕著になります。これを、凍結・破砕作用といいます。このはたらきによって、氷期の寒冷気候を反映した地形が形成されました。それが、兵庫県中央部の峰山高原などに発達する化石周氷河斜面・岩塊流・トア・ロックフォール・麓屑面などの地形です。
 県内に氷河はありませんでしたが、このような地形は氷河の周辺に見られることから周氷河地形と呼ばれています。段ケ峰に見られる岩塊流は規模が大きく保存もよく、非常に貴重なものといえます。

2万年前(最終氷期)の姫路あたり(イラスト:田ア正和)
 2万年前の最終氷期には、海面が100mも低下し、瀬戸内海は陸化し、海は今の紀淡海峡や鳴門海峡まで後退しました。氷期には海面が下がったために、大地に深い谷が刻まれました。
 完新世に入ると、最後の氷期も終わり、海面は徐々に上昇していきました。それによって、かつて谷だったところや河口付近に泥や砂や礫がたまりました。これが沖積層です。海面の上昇は縄文時代の今から6000年前が最大で、海は今の平野部に進入していました。その後、海が退き沖積層は広い平野となったのです。
 

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