伊加利多摩山(249.2m) 南あわじ市 25000図=「福良」
平家の悲劇を伝える地に新緑が萌える
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| 津井川を隔てて多摩山を望む |
GWで、1日だけ自由になる日があった。
「淡路に行ってくるでぇ。五色浜で石を見て、和泉層群の地層でアンモナイトを探して、小さな山にも登って、夜は釣りや!」と、充実の思いつきだったが、
「ちょっとは、年を考えたらぁ?」と妻にたしなめられて、竿は残して家を出た。
五色浜では、波に洗われた小さな結晶片岩やチャートが美しかった。
かつてアンモナイトを産出したという地点は、急傾斜の大きな岩盤だった。ちりちりに割れる泥岩層に、砂岩がはさまっている。途中まで上って砂岩を割ってみたが、足場の確保が難しく力が入らない。崖の下に落ちている砂岩をいくつか割ってみたが、すべて空振りだった。
早々にあきらめ、津井川の向こうに見えている伊加利多摩山(だまやま)に向かうことにした。化石の採集には、もっと根気と根性がいる。
民家の間から、アスファルト道を上っていった。あたりは、すぐに新緑の雑木林となった。アラカシの若葉も、色が薄くて瑞々しい。もうフジが咲いていた。池の上からサシバが飛び立ち、風に乗ってどこかへ飛んでいった。
ウバメガシが多くなってきた。黄緑色の花穂を垂れている。ときどき、コバノガマズミの小さな花が群れ咲いていた。
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| 多摩山の新緑 |
コバノガマズミ |
池からしばらく上ったところで、左の見晴らしが開けた。谷を隔てて、多摩山が間近に迫っている。若い葉をつけた木々が、うねるようにして山をおおっている。枝先は風に揺れ、あちらこちらにざわざわとなびいていた。
舗装が途切れる手前に簡単なトイレがあって、そこから地道が雑木林の中に入り込んでいた。その道を進むと、石積みの上に一つの石でつくられた五輪塔が祀られていた。五輪塔には梵字が彫り込まれ、表面はうっすらと苔におおわれている。その先にも、このような五輪塔がいくつか並んでいた。
やがて、切り開かれた広場に出た。そこには、祠や玉垣に囲まれた供養塔が祀られ、『お局塚の由来』と題された案内板が立っていた。
お局とは、平清盛の甥、通盛の妻「小宰相(こさいしょう)の局(つぼね)」のことである。
通盛は、1184年、一の谷の戦いで討死をした。お局は、屋島に落ちる途中の船上でその悲報を受け、鳴門海峡付近の海に身を投げて19歳の命を絶った。遺体は近くの海岸に打ち上げられ、従者がこの多摩山に塚を建てて弔ったと言い伝えられている。
多摩山には、局ら平家一門七人自決の墓と伝えられている「平家七塚」がある。先に見た五輪塔は、これら七塚の上に建てられたものである。そして、七塚の中心にあった舟型に組まれた石積みの上に、通盛の霊を招き迎えた帆の形の供養塔が建てられた。
七塚や供養塔には、新しい花が供えられていた。今もこれらは、地元の人々に大切にされているのである。
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| 平家七塚の1つ |
お局塚に建てられた供養塔 |
お局塚から下ると、そこは先ほどの舗装路の終点だった。ぐるりと小さく一周したことになる。ここから、249.2mピークをめざして破線路(地形図)を進んだ。初めはっきりしていた道は、途中何度か背の高い草にふさがれていた。それでも、道らしきところを進んでいくと小高いピークに出た。
ここで初めて海が見えた。眼下に播磨灘が広がり、その向こうに四国の山影がうっすらと浮かんでいる。南に大鳴門橋がかろうじて見えた。この海に身を投げたお局の話を、再びここで思い浮かべた。
このピークには、測量用のポールがあったが、三角点はなかった。どうやら、三角点のある249.2mピークの東を巻いてそのままそのひとつ南のピークに出たようだ。
尾根伝いに249.2mピークをめざしたが、ヤブの中で方向を失い先に進めなくなってしまった。迷いながらも、何とか元のピークに戻った。
来た道を引き返し、249.2mピークの真東と思われる地点から斜面のヤブにもぐりこんだ。雑木の曲がりくねった細い枝、サルトリイバラのとげ、生い茂るシダが体にまとわり、なかなか先へ進めない。ようやく傾斜が緩くなって山頂が近くなってきた。しかし、山頂部は平坦に近くて、どこに三角点の標石があるのか分からない。
相変わらず、ヤブにもがきながら、もう探し出すのは到底無理だと思ったその時、白い標石(三等三角点 点名「阿那賀」249.2m)が草の中に見えた。
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| Ca.230mより播磨灘を望む |
三角点 点名「阿那賀」 |
山行日:2006年5月4日