阿波の土柱はどうしてできた?  (徳島県阿波市)

 阿波の土柱(どちゅう)は、徳島県阿波市、讃岐山脈の南麓にあります。高さ10mほどの切り立った崖に、その名の通り土の柱が林立して、雄大な大地の景観をつくっています。
 
阿波の土柱「波濤ヶ嶽」の景観
 
 土柱は、あたりの数ヶ所に散在していますが、その中で「波濤ヶ嶽(はとうがだけ)」がもっとも造形が美しく、1934年(昭和9)、国の天然記念物に指定されました。
 このような大規模な土柱は世界的にも珍しく、アメリカ「ロッキーの土柱」、イタリア「チロルの土柱」と並んで、世界の三大土柱とされています(阿波市)。
 好天に恵まれた早春の一日、波濤ヶ嶽を巡る遊歩道を歩きました。

.阿波の土柱を歩く

 波濤ヶ嶽の土柱には、観光のための散策路が整備されています。散策路には、
 @土柱を谷から見上げるコース、
 A谷を隔てて対岸から見るコース、
 B土柱の上を歩くコース、
 C西の小高い丘から土柱を見るコース(ハイキングコース)
 の4つがあります(下図)。
 今回は、Aのコースを進み、Bを登ったあと@を歩いて駐車場へ戻りました。歩いた道は、どれもよく整備されていました。

阿波の土柱 散策マップ  「阿波市パンフレット(2020年3月)」より

 駐車場からゆるく登っていくと、「土柱」の大きな看板と二つの歌碑が立っていました。
 歌碑の大きな方には、「阿波の名所の波濤嶽は 土のはしらのあるところ 雨情」とあります。リズムはいいですが、なんかそのままですね、雨情さん。歌碑の刻まれた石は、三波川帯の緑色片岩です。
 小さな方には、「土柱みて途中の景色わすれけり」とあります。作者の名も刻まれていますが、読めませんでした。こちらの石は和泉砂岩です。
 どちらの石も、この地方を代表する石です。

土柱入口の歌碑

 そこから少し進むと、道の脇の露頭に「ミニ土柱」の札が掛かっていました。雨による侵食によってできた、土柱のミニチュア版です。
 ここで、礫岩の地層が観察できます。最大30cm程度の角礫〜亜角礫が、固結度の弱い砂の中に大量にふくまれています。
 この地層は、「土柱層」と名付けられています。地名ではなく名所の名前が地層名になっているのは珍しいのですが、ここがこの地層の模式地になっているのです。

ミニ土柱 土柱層の礫岩 

 展望台からは、正面に波濤ヶ嶽の全貌を見ることができました。切り立った茶色の岩壁に、深い襞がカーテンのように彫り込まれ、襞の突出したところは上に尖っています。
 展望台には、阿波の土柱のでき方の説明板と、土柱の以前の写真などが張られています。写真を見ると、侵食は今もずっと続いていて、土柱の形が少しずつ変化していることがわかります。

展望台より見る土柱

 遊歩道には、「ノグルミ」、「ナナミノキ」などたくさんの木に樹名プレートがつけられています。展望台から木を見ながら谷に下りていきました。
 橋を渡って、今度はそこから上へと登っていきます。階段が整備され、険しいところもなく、思ったより早く波濤ヶ嶽の上に出ました。
 眼下に土柱の造形が迫力を持って広がっています。柵もロープもないので、へっぴり腰になって下をのぞき込むと、襞と襞の間が深く削りこまれていることがわかります。

波濤ヶ嶽山頂付近から土柱を見下ろす

  波濤ヶ嶽の上では、土柱をつくる地層を間近に見ることができます。礫層にふくまれている礫が、ごつごつと飛び出した地層です。礫は大きさが最大50cmほどで、礫の種類はどれも和泉層群の砂岩のように見えます。土柱の地層全体をながめると、茶色の礫層の中に白っぽい薄層が縞模様をつくっています。これは、砂層やシルト層、あるいは火山灰層です。地層の成層したようすから、この地層は北東へゆるく傾いていることもわかります。

土柱の礫岩層 土柱層の成層(北東へゆるく傾斜している)

 波濤ヶ嶽を下って、谷底を流れる小川に沿って下の展望台まで歩きました。馬蹄形にぐるりと土柱が取り囲んでいます。土柱の下には、土柱が風化して崩れ落ちてきた砂や小石がたまっています。その上には、緑の草が芽吹いていました。これから緑がどんどん濃くなってくるので、土柱の景観を楽しむのには今がいちばん良い時期だったのかもしれません。

下の展望台より土柱を見上げる

2.阿波の土柱の地層

 阿波の土柱周辺の地質図を下に示します。阿波の土柱ができているのは、第四紀の土柱層(薄黄色)です。土柱層は、吉野川支流によって形成された扇状地型礫層と本流の川床・氾濫原堆積物である本流型礫層からなっています。
 ここには、土柱層主部の扇状地型礫層が分布しています。この地点での土柱層は、最大50cmほどの角礫〜亜角礫が、固結が弱くて淘汰の悪い砂の中に多くふくまれた礫層です。礫の種類は、ほとんどすべてが和泉砂岩で、北に分布する和泉層群からここへ運ばれて堆積したものです。
 この地点の土柱層にはさまれている火山灰は、鉱物組成、あるいは鉱物や火山ガラスの屈折率の測定結果から耶馬渓火砕流堆積物にともなう広域火山灰Ss-Pnkに対比されています(石田ほか 2010)。
 Ss-Pnkの噴出年代は、1.02Maと推定されています(町田・新井 2003)。したがって、この地点の土柱層は、約100万年前に堆積したと考えられます。(1Maは100万年前を表しています。)

土柱周辺の地質図(日本シームレス地質図V2(GSJ、AIST)を利用して作成)

 地質図を見ると、土柱のすぐ北を東西に中央構造線が走っています。中央構造線の北には、和泉層群の砂岩層や泥岩層、砂岩泥岩互層が分布しています。実際の分布はもう少し複雑で、散策路の数ヵ所では、下の写真のように和泉層群の砂岩の地層が観察できました。

散策路で見られた和泉砂岩層

3.阿波の土柱はどうしてできた?(阿波の土柱の成因)

 阿波の土柱はバッドランド地形であり、崩壊地形が侵食されてできたものです(侵食地形)。岩壁には雨裂(ガリー)が刻まれ、その間のカーテン状に残された部分が土柱をつくって立ち並んでいます。
 土柱は、固結度の弱い礫層が降水による侵食によってつくられました。しかし、土柱層が分布しているどこでも、このようなバッドランド地形が見られるわけではありません。土柱は、土柱層分布域の限られたところにしか形成されていないのです。土柱はどのようにしてできたのでしょうか?

 土柱のどれもが、波濤ヶ嶽と同じように中央構造線の南側に位置し、丘陵の西側斜面につくられています。このことから、土柱の形成は中央構造線の動きに関連して次のように説明されています(石田ほか 2010)。

 土柱のすぐ北の中央構造線は活断層であって、今も地震のたびに動いています。四国東部では、中央構造線は垂直方向より水平方向の変位が優勢であり、その変位は右横ずれで約10cm/1000年と推定されています。
 中央構造線に右横ずれ運動が起こると、南流する河川は中央構造線に沿って右(西)へ屈曲します。すると、南流する河川は、屈曲した地点の左(東)岸、つまり丘陵の西側斜面を攻撃して、そこへ崩壊地形をつくります。
 崩壊地形に現れた土柱層は固結の弱い礫岩でできているために、その後の雨水による侵食によってガリーが発達し、土柱のようなバッドランドができたというわけです。下は、そのイメージ図です。

土柱の成因 イメージ図

 わかりやすく、また説得力のある説のように思います。ただ、中央構造線は地質図では一本の線として表されていますが、本当はある幅をもって断層破砕帯をつくっています。また、派生する断層も多くあると考えられます。そのようなこともあって、現在の地形から中央構造線の動きと土柱形成の関係を読み取るのは難しいのかもしれません(下図)。
 上で述べたように中央構造線は右横ずれですが、和泉層群と土柱層が断層で接するところでは低角の衝上断層となっています。土柱層の上に和泉層群が乗り上げているのです(衝上)。土柱層は固結度が弱く、断層の動きによる変形を大きく受けていると考えられます。この変形も、土柱の形成に関係している可能性があります。

土柱周辺の地形(地理院地図の陰影起伏図を利用して作成)

 土柱の侵食は今も続いています。また、ツタなどの植生におおわれて景観が損なわれるなどの問題もあります。洪水や、次の中央構造線断層で土柱の形が大きく変化する可能性もあります。地元では、防災と同時にこの珍しい大地の景観を維持していく努力が続けられています。

引用文献
 石田啓祐・西山賢一・中尾賢一・辻野泰之・森江孝志・東明省三(2010) 阿波市の地質と地形 とくに「阿波の土柱」の成因と景観保全.阿波学会紀要,56,p.1〜12.
 町田 洋・新井房夫(2003) 新編 火山灰アトラス 日本列島とその周辺.東京大学出版会,230p.


■岩石地質■ 第四紀更新世 土柱層 礫岩
■ 場 所 ■ 徳島県阿波市阿波町桜ノ丘
■探訪日時■ 2024年2月28日