愛宕山(112m)と神武山(50m) 豊岡市 25000図=「豊岡」
コウノトリ舞う里の鶴城と亀城
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| 愛宕山(鶴城址) |
コウノトリの郷公園にて |
豊岡には、中世から近世にかけて、鶴城と亀城があった。今では、鶴城跡は愛宕山、亀城跡は神武山と呼ばれている。
鶴城の名は、コウノトリに由来している。この日の朝、六方田圃の中を車で走っていると田の中に3羽のコウノトリが降りていた。何人かの住民が、双眼鏡を持って遠くから見守っている。自然放鳥されたコウノトリの自立が課題となっているが、「コウノトリの郷公園」」に着く前の、嬉しい出会いだった。
愛宕山(鶴城跡)
愛宕山は、円山川の右岸、六方川が合流する地点に張り出した尾根上の小さなピークである。
船町の登山口から、いきなりのスダジイの森だった。愛宕山は、山上に愛宕神社、山麓に貴布祢神社、八坂神社をいだいている。そのため、この森は鎮守の森として大切に守られてきた。
太く曲がりくねった古木は、道の上を枝葉でおおっている。曲がり角に石仏が立つ参詣の道である。スダジイが途切れた日なたでは、ヤマハギが薄紫の花をつけ、その花にモンキチョウが舞っていた。スダジイの株元に、ハート型のカンゾウタケを見つけた。
八坂神社からの道と合流すると、すぐ尾根上の平坦面に出た。廃屋のような妙見堂の傍に、新しい小さな祠が建っていた。尾根を北へ進むと、鳥居が現れた。道は広くて明るい。スダジイの落ち葉や実を踏んで歩いた。
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| 椎の森 |
カンゾウタケ |
石段を上ると、鶴城跡に達した。
案内板に、城跡の縄張図が描かれていた。これを見ると、山全体に曲輪・土塁・堀切が配されている大規模な城郭であったことが分かる。鶴城は、永享年間(1429〜1441)山名宗全によって築かれ、家臣田結庄氏の居城であったと伝えられている。
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| 円山川と豊岡市街 |
眼下に円山川がゆるく弧を描いて流れている。水面は空の雲を白く映し、水はほとんど流れていないように見えた。
円山川の向こうに豊岡市街が一望できた。家並みの瓦屋根が、高く上った日の光りを反射して、銀色に光っていた。
南には、六方田圃が大きく広がっている。双眼鏡を取り出し田圃の中を探してみたが、もうそこにはコウノトリはいなかった。
城跡を少し移動して西を見ると、谷の間に「コウノトリの郷公園」の一部が見えた。ネットの中に、二つの白い影、2羽のコウノトリがいた。
数年後には、野生復帰したコウノトリの舞う姿を普通に見ることができるのかもしれない。そのとき、鶴城の名はまたふさわしくなる。
神武山(亀山・亀城跡・豊岡城跡)
朝、正福寺に立ち寄ったとき神武山を教えてもらった。そこからは、市街地の中、豊岡小学校のとんがり帽子の背後にこんもりと緑に包まれた神武山がよく見えた。
稲荷神社の裏手から道があるだろうと見当をつけていたが、そこは高いコンクリート壁によって山と画されていた。神社に近い家の玄関に人がいたので道を尋ねると、その女性は街の中をハンマーを下げて歩くこのあやしげな人物に、本当にいい笑顔で教えてくれた。うれしい気分で、その登山口まで歩いた。
登山口には、「市民の森 神武山公園」の看板が立っていた。石段を上るとブランコやすべり台のある公園。その上に、巨大な円柱の配水池。ここはもう、亀城笠の丸跡である。買い物袋に、何か木の実を集めて下りてきた親子連れとすれ違った。
そのすぐ上が、亀城天守台跡だった。「豊岡城」の案内板が立っていた。
豊岡城は、山容から亀城(亀山)とも呼ばれ、鶴城と同じく山名宗全による築城と伝えられている。時を経て江戸時代の寛文8年(1668)、豊岡藩に京極氏が入ると麓に館や武家屋敷が建てられて栄えたが、城郭遺構を残した亀山は城下町の象徴であった。
神武山の名は、明治5年(1873)ここに神武天皇遥拝所が設置されたことによる。
城跡は、ぐるりと桜の木に囲まれていた。桜の花咲く頃、ここは多くの人たちの笑顔でいっぱいになるのだろう。
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| 神武山(亀城跡) |
神武山山頂 |
山行日:2006年9月20日