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出石城跡と有子山城跡 谷山川に架かる太鼓橋を渡り、登城門をくぐって石段を登った。下郭、二の丸の石垣が整然と積み上げられている。雲を透かして降りてくる光を、復元された隅櫓の白壁がまぶしくはね返す。 出石城は、慶長9年(1604)、小出吉英によって有子山城を廃してそのふもとに築かれた。 広大な御殿があったという二の丸跡を横切り、反対側の坂を登ると本丸跡に出た。サクラやモミジやサルスベリの木が散らばる庭園風の本丸跡には、後にこの地を治めた仙石氏の藩祖を祀る感応殿が建ち、その前に「出石そば発祥の由来」の石碑が新しく設けられていた。 北を区切る白い塀に開けられた丸や三角や四角の鉄砲狭間が、要害であった往時を偲ばせていた。 本丸跡から、苔でおおわれた石垣の下を登った。石垣に沿った堀を、水が足早に流れ落ちていた。 立ち並ぶ朱の鳥居をくぐると、稲荷郭に達した。大きなスギが何本も立つ広場から、眼下に出石の町が一望できた。午前9時の出石の町は観光客もまばらで静かだった。近くの森からイカルの声が渡ってきた。
稲荷郭の東端に、「有子山登山口」の標識が立っていた。そこから、歩きこまれた尾根道が続いていた。スギの植林にはさまれたコナラやホオノキなどの雑木の下を歩く。道の傍らに、小さな石仏が祀られていた。 しだいに傾斜が増してきた。道端の岩にはコケが生え、木の根がからんでいる。 株の上から幾本にも分かれたスダジイが、幹をくねらせて立っていた。 道のところどころに横たえられた丸太が、急坂の崩れるのを防いでいた。鉄の杭で丸太を固定しただけの簡易な階段であるが、道に伸びる木の根と同化して人工を感じさせなかった。
尾根道はいったん緩くなったが、すぐにいっそう急な坂となった。アカガシやソヨゴ、それにアカシデやシイのどの木の幹にも、蘚苔類が白い斑をつくっていた。
尾根に曲輪が現れた。そこから、多くの中世の山城で見られるように曲輪が連続した。 山頂まで標高であと60mという地点で、道は右へ大きく曲がった。しばらく平坦な道を歩くと、今度はヘアピンに左に曲がり、再び山頂をめざして登っていった。 何段も重なる曲輪の石垣を縫うように進んだ。クリの実が、あちこちに落ちていた。 山頂の下に、高くて長い石垣が現れた。石垣の下の道は広くて明るく、城下町の中を歩いているような気分になった。
ぐるりと回り込んで、北へ登り詰めると有子山の山頂に達した。
山頂から東へ進んだ。空堀を越して登り返すと、千畳敷と呼ばれる曲輪が広がっていた。ここにはもう、木々がうっそうと茂っていた。シロダモの実は、赤く色づき始めていた。
石部神社の大けやき、加藤弘之生家、弘道館跡などをのんびり見ながら歩いた。町の中心部は、朝の静けさがうそのように大勢の観光客で賑わっていた。 山行日:2012年10月6日
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| 大手前駐車場〜出石城跡〜有子山城跡(321.5m)〜256mピーク〜鯵山峠〜谷山〜石部神社〜大手前駐車場 |
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| 「出石家老屋敷」横の大手前駐車場に駐車(有料)。谷山川に架かる「登城橋」を渡ると、出石城跡。梯郭式の城跡を登ると、一番上の稲荷郭の端に有子山登山口がある。登山口から山頂まで明瞭な登山道がついている。 有子山山頂から尾根を東に進み、地形図実線路に出て鯵山峠を経て谷山の集落へ下った。 |
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| 山頂の岩石 古第三紀 矢田川層群出石累層 デイサイト質溶結火山礫凝灰岩 |
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| 山頂の南の道路脇に露頭が連続しているが、どの部分も風化が進んでいる。岩石は、デイサイト質溶結火山礫凝灰岩で、長石と石英(少量)の結晶片とチャートや黒色頁岩などの岩石片を含んでいる。 一方、登山口付近では、流紋岩質の溶結火山礫凝灰岩が見られた。大量の石英(最大4mm)と長石(最大3mm)と少量の黒雲母の結晶片を含んでいる。また、チャートや黒色頁岩などの岩石片を含んでいる。溶結構造が明瞭で、長さ最大20mmの軽石が薄く伸ばされたレンズが見られた。 |
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