波打つ稜線にそびえる鋭鋒
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| 馬瀬よりアマワリの稜線を望む(左端のピークがアマワリ) |
円山川右岸道路を北へ走り、舞狂橋へさしかかろうとするとき、左手前方に印象的な姿をした山が現れる。うすっぺらくさえ見えるやせ尾根は、波を打つように左へ徐々に高まり、最後はその頂をぐいと空に突き上げている。山頂に標高589.9mの三角点を有するこの山は、アマワリと美しい語感で呼ばれている。
八鹿町馬瀬の清養寺より谷を上り、達した知見への峠から稜線をアマワリへと辿ってみた。
清養寺から日高町知見へ抜ける道は、地形図破線路に沿って明瞭に残っていた。はじめは沢音を右に聞きながら、スギの木の下を上っていく。山道の湿った黒土の上には、シカのひづめの跡がずっと続いていた。
やがて道は沢から離れ、山の斜面を上っていった。マムシ草が朱色の実をつけ、ミズヒキの小さな赤い花やミゾソバのピンクの花が道端に咲いている。傍らに立つ石仏が、この道が古くからの峠道であることを語っていた。
傾斜が緩くなり、荒れた竹やぶを抜けると、大きな畜産場(三谷畜産団地)に出た。車道をしばらく歩き、再び山道に入ると、すぐに知見への峠に達した。峠には、「文政七年 申九月」と彫り込まれた一体の石仏が静かに立っていた。
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左上:シロダモの果実 左下:アケビの果実
右上:ミズナラの黄葉 |
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峠から、町界尾根を西へアマワリを目ざした。スギ・ヒノキの下のササ原に残る踏み跡を緩く上ると、尾根はしだいに狭くなり、あたりは雑木林へと変わった。
山は、少しずつ秋の気配が深まっていた。イヌシデの葉が黄色に染まっている。サルトリイバラが赤褐色の実をつけ、シロダモの実も赤く熟している。クサギは、星型に開いた紫紅色のガクの真中に紫の実をつけていた。
誰かがヤマノイモを掘ったのだろうか、地面にときどき大きな穴が開いている。ムカゴを口に入れると、なつかしい味がした。アケビの実をもぎ取って、妻や子への土産にとザックに入れた。
北の谷あいの知見からは、運動会らしい音楽や野球の場内アナウンスの音がときどき風に乗って運ばれてきた。
稜線より望むアマワリのピーク
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樹林の間から、目ざすアマワリの鋭鋒が見えた。黄・黄緑・褐色・赤褐色とまだらに染まった自然林の北面と、スギの濃緑の南面が対照的であった。
胸突きの急登と水平に近いなだらかな上りを繰り返しながら、しだいに山頂に近づいていった。いつの間にか踏み跡は消えて、根元から曲がりくねったカヤの幹に行く手をさえぎられてきた。
下弦を過ぎた月が、山頂右の青空に白くかかっている。その山頂を目の前にして、カヤのやぶこぎはもう何年も前のハイマツのやぶこぎを思い出させた。
山頂への最後の上りは、木々の幹や枝、それらにからんだつるをつかみながら、体を引き上げた。
山頂には、二等三角点が木々に囲まれてひっそりと埋まっていた。ミズナラやアカマツ、それにスギの枝葉の合間より日が差し込んで、地面をまだらに照らした。
アマワリに登るのに先立って、日光院の森田住職にお願いして調べてもらっていた。村の長老の話によると、戦前までは頂上に白い旗が立ててあり、その旗を基準に田畑の整理をしたという。そんな古い山の記憶が、この山頂のどこかに眠っているのだろう。
山頂を後にして、稜線を西へ下った。すると、尾根の木々の間から、目の前に再びアマワリが現れたかと錯覚させるような光景が飛び込んだ。その鋭鋒は、アマワリの北西に立つ572mのピークであった。
アマワリとこのピークとの間のコルから、谷を南へ下りた。はじめ穏やかだったその谷は、しだいに狭く深くなり、現れた小さな滝や谷にかかる倒木を高巻きながら、麓の中村に下り着いた。
帰路、妙見山麓の古刹、日光院に立ち寄った。寺の石段を下りると、石原の集落の上にアマワリが大きく端正な姿で立っていた。「アマワリ」とは、「天割り」すなわち、天空を分割するという意味だろうか。アマワリの威容を目の前にして、そのときそんなふうに思った。
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| 572m峰 |
日光院あたりより望むアマワリ |
山行日:2003年10月19日
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