尼子山② 259.2m     赤穂市  25000図=「相生」


新緑の城跡と「尼子の大岩」
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山頂手前より尼子の大岩を望む

 「赤穂岩山三山」というのがある。「ビシャゴ岩」の毘沙門山、「弁慶岩」の有年城山、そして今回訪れた「尼子の大岩」の尼子山である。
 尼子山に登るのは2013年に続いて2回目。「赤穂富士」とも呼ばれるこの山は、今朝も千種川の左岸に秀麗な姿で立っていた。

下高野から見上げる尼子山

 千種川の河川敷駐車場に車を止めて、下高野の田んぼの中の道を歩く。凛とした朝の空気に、牛舎からのなつかしい匂い。
 雲一つない青空でヒバリが舞っている。尼子山が少しずつ近づいてきた。
 朝日を浴びた尼子山は、みずみずしい新緑でおおわれていた。山頂付近は岩盤が切り立っていて荒々しい。尼子の大岩は、山頂の西に丸く飛び出していた。

 集落を抜けて山にさしかかったところに尼子神社が建っていた。石段下に「尼子山城跡登山口(徒歩約40分)」の標柱がある。それには、城の歴史と遺構の規模が次のように添えられていた。

 『尼子山城は尼子将監義久の居城であったが、永禄6年(1563)毛利元就に背後から攻められ落城。』
 『山上には、東西25間南北40間の本丸跡のほか、外郭に屋敷跡の遺構が残っている。』

 落ち葉に埋まった山道を登っていく。山肌一面に広がる褐色の中に、赤いツバキの花が点々と落ちていた。
曲がり角に、尼子将監の墓があった。
 尼子将監(しょうげん)は、山陰・山陽8ヵ国を支配した尼子晴久の嫡男で、晴久の後を継いだ。尼子山城を居城としていたとされているが、落城のときにはいなかった。
 その2年後の永禄8年(1565)、月山冨田城で毛利に降伏した。将監の身柄は安堵され、安芸に移されたあと慶長15年(1610)、長門国で死去している。
 将監が埋葬されているわけではないのにここに墓があるのは、地元の人々が尼子氏やその山城を大切に思っているからだろう。
 しかし、それも遠い昔で、墓を囲む土塀はくずれかけて墓石も傾いていた。

土塀に囲まれた尼子将監の墓

 落ち葉と木の幹の茶色、常緑樹の葉の濃い緑に囲まれたトンネルの中の道を進む。朝の木漏れ日が気持ち良い。
 樹上からセンダイムシクイの声が聞こえた。ヤマガラも近くで鳴いている。

木々と木漏れ日のトンネル

 分岐を左にとってひと登りすると標高75mの「はげ山」。山頂のアラカシの若木に、小さな山名プレートがひとつ掛かっていた。木の間から千種川が見えた。

 もとの分岐から北へ進んだ。傾斜がしだいに増して、道はつづら折れになった。左右のロープを手でつかみながら登る。
 山道に露出する岩は風化して薄い褐色に変化した凝灰岩。凝灰岩が壊れてできた土も同じ色をしていた。

 四合目は見晴らしの良い休憩所になっていた。振り返ると、眼下に千種川が静かに流れている。川面は鏡のように光り、空の青と木々の緑を映していた。

四合目より眺める光景

 四合目を過ぎると、道は一旦緩くなった。足元のシダの葉は、茶色に枯れていた。
 道が再び急になったところで見上げると、先に大きな岩が立っていた。ふもとから見えていた巨大な岩盤である。
 岩盤に近づいたところで、道をはずれて岩盤の真下へとたどってみた。岩盤の高さは20mほどあるだろうか。縦・横・斜めに入る節理の発達した岩が上からのしかかってくる。岩の間に、モチツツジが柔らかなピンクの花をつけていた。

大きな岩盤を見上げる

 道はその岩盤の左を巻くように上っていた。急坂を登り切ってその岩盤の上に出ると、八合目の標識が立っていた。
 四合目ではわずかにしか見えなかった海が、ここではだいぶん大きく広がった。家島諸島や小豆島がうっすらと霞んで播磨灘に浮かんでいた。

岩の間に咲くモチツツジ 八合目から南を望む

 八合目のすぐ上に上高野分岐。見上げると、もうここから山頂手前の石の鳥居が見えた。
 岩の間をロープをたよりに登っていく。左手には、鮮やかな若葉の緑の中から尼子の大岩が飛び出していた。
 花崗岩でできた鳥居をくぐった。アラカシの若い葉が一枚、木の上から落ちてきた。
 傾斜がなくなったところに赤く塗られ鳥居が立ち、その先に山頂があった。

尼子山山頂

 山頂には尼子神社が建てられている。一対の灯篭や狛犬の奥に簡素な社殿。社殿の後ろや左には土塀の跡が残っている。社殿の右の境内に三角点が、ほとんど地中にうずもれるようになって頭だけを出していた。

 ここに、尼子山城があった。パンフレット(発行:西播磨ツーリズム振興協会)の縄張り図を見ながら、山頂周辺を歩いてみた。山頂に主郭があって、三方に数段の曲輪を巡らせている。曲輪の平坦面は、植林の中に良く残っていた。
 曲輪のない南西は急崖である。敵がここから登ってくることはできない。

尼子山城の縄張図
パンフレット「西播磨の山城マップNo.3尼子山城(西播磨ツーリズム振興協会)」より

 尼子の大岩は、山頂を西にわずかに下ったところにあった。ちょうどいい具合に割れ目が斜めについていて、この割れ目に沿って登ることができる。
 岩の上は広く、表面は黒や淡緑やオレンジ色の地衣類におおわれていた。凹凸に富んでいて、滑る心配はない。それでも、岩の先端近くに立つと足がすくんだ。

尼子の大岩の側面

 眼下には千種川が大きく湾曲して流れ、その両側に田んぼや住宅地の広がる平野をつくっている。平野の向こうには雄鷹台山や高山や高雄山などの山々。南に目を移すと、坂越の集落の上に播磨灘が淡い水色で広がり、家島諸島の島影がうっすらと浮かんでいた。
 電車の走る音がここまで上がってきた。電車が千種川に架かる鉄橋にさしかかると、その音が大きくなった。
 海の方から少しひんやりした風が吹き上がっていた。岩の上でオカリナを吹くと、オカリナの音がその風に乗った気がした。

 尼子の大岩の上 尼子の大岩から千種川上流方向を見る

 岩の後ろには、木々の樹冠が迫っていた。アカマツは、新しい枝先に開花した雄花をたくさんつけている。カナメモチが、サンゴのように枝分かれした先端に丸いつぼみをつけている。ウラジロノキは、白く粉を吹いたような若葉を広げようとしていた。

カナメモチのつぼみ
山行日:2025年4月30日

千種川河川敷駐車場~尼子神社(ふもと)登山口~はげ山~尼子山山頂~尼子の大岩(往復)  map
 ふもとの尼子神社から山頂まで登山道が整備されている。四合目と八合目は展望所で、標識が立っている。「尼子の大岩」に登るときは慎重に。
 前回は八合目の分岐から上高野に下りたが、今回は来た道を戻った。

山頂の岩石 後期白亜紀 赤穂層 溶結火山礫凝灰岩
尼子山山頂周辺の溶結凝灰岩
(一目盛りが1mm)
 尼子山は、8200万年前の赤穂カルデラの中にある。山全体が、カルデラ形成期の火砕流堆積物からなっている。

 岩石は流紋岩質の溶結凝灰岩である。暗灰色~淡灰色であるが、風化すると褐色に変化する。一部で火山礫に富むところが見られた。

 左の写真は、尼子山山頂付近の溶結凝灰岩である。大きさ1mm程度の石英の結晶に富んでいる。長石は変質している。有色鉱物は観察できない。軽石や火山ガラスが引き伸ばされた溶結構造が明瞭である。

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