八祖山(90m)〜向山(197m)〜赤穂御崎 赤穂市 25000図=「相生」「播州赤穂」
海辺の丘陵から赤穂御崎へ
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| ゆったりと流れる千種川 |
赤穂御崎 |
登山口には、遊歩道の案内板が立ち、そこから道は山を斜めに上っていた。下のグランドから、中学生たちの野球の声が威勢よく聞こえてくる。今回は、ここから標高200m程の丘陵を南へ進み、赤穂御崎をめざす。
尾根の手前に、八祖山への分岐があった。白菜畑の先の、アベマキの並び立つ小さな丘が、今日最初のピーク・八祖山であった。木の枝から朽ちかけたロープがぶら下がり、その先にタイヤがついている。子供たちの格好の遊び場だったのだろう。ヤブニッケイの枝にくくりつけられた赤いひもだけが、山頂らしさをかもしていた。
分岐に戻り、南へ向かった。道に埋められたコンクリートの丸太は、雑木林の落葉に埋まっていた。マテバシイやカクレミノの葉が、青々と大きい。
点名坂越(151.4m)は、丸い小さな丘であった。クリやコナラの木の下が刈り払われ、地面をおおう枯れたササの中に、三角点の標石が顔を出していた。国道を走る車の低い音や、電車の走る音が下から風に乗って上がってくる。その中に、野球の声が遠く小さくなりながらもわずかに混じっていた。
いったん下って上り返した次のピーク(Ca.180m)には、簡素な休憩所が立っていた。南東に播磨灘が広がり、大泊の湾内にはカキの養殖イカダが浮かんでいるのが見えた。
ここからは、冬枯れの茶色に染まった丘がなだらかに連なっている。右手に千種川を、左手に播磨灘を見下ろしながら、丘陵の小道を進んだ。
シラカシやヤマモモの木が疎らに立ち、ウバメガシが増えてきた。赤褐色の冬芽をつけたツツジも並んで立っている。ところどころに、テーブル状に割れた岩がのっていた。
206mピークにも休憩所が立っていた。前方には、丘陵がうねり、その奥に向山の丸い山頂が小さく頭を出していた。
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| 206mピーク |
南へ続く丘陵
(手前から192mピーク、点名尾崎、向山) |
道はゆるくまだまだ続いている。岩の重なる192mピークを超え、下ったコルから真っ直ぐに上ると、点名尾崎(209.8m)に達した。今日の最高地点である。
東には、播磨灘が大きく広がっている。その海に、釜崎・金ヶ崎・藻振鼻の岬が並ぶように突き出し、その先に蔓島・君島・沖ノ唐荷島・中ノ唐荷島・地ノ唐荷島が小さく浮かんでいる。その右うしろには、上島・クラ掛島・太島・宇和島がポツン、ポツンと浮かび、さらに家島の島々が途切れながらも長い線を低くゆるやかに引いていた。土地の沈降によってできたこれらの地形は、谷崎潤一郎の「乱菊物語」の舞台にもなり、詩情豊かな風景を作り出していた。
点名尾崎を南へ下る。右の斜面は、岩石が四角く割れ、斜面全体が崩壊していた。この山は、珪化した硬い溶結凝灰岩でできているが、もろく割れ目に沿って砕けやすい。
老人ホームから、道は西へ回りこむようにして向山の山頂に伸びている。この大きな迂回を避けて、真っ直ぐに上ろうとしたが、これが無謀であった。
ヒサカキを縫って進んでいるうちはまだよかったが、背丈ほどにもあるシダの中に入り込んでからは、激しいやぶこぎとなった。やっとの思いで刈り払われた山頂に出たときは、ズボンにとげのある枝をまだ引きずっていた。
向山の山頂からは、赤穂海浜公園が一望できる。双眼鏡を取り出して二つに折れた難破船を探した。二人の子供がまだ幼かった頃、好きでよく遊んだその難破船は、公園内の一角に今も置かれていた。
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| 播磨灘に浮かぶ島々を点名尾崎より望む |
海の見える向山山頂 |
向山から、海に落ちるように道を下っていくと、海沿いの車道に出た。しばらく車道を歩き、「かんぽの宿」の下の駐車場から東御崎海岸に下りた。
海岸の遊歩道を赤穂御崎へ向かった。岩石の露頭が連続し、溶結凝灰岩の表面の模様におもしろいものが見られた。
海に向かって立つ伊和都比売神社は、もとは海上の岩の上にあったものを浅野内匠頭長矩が今の地に移したという。神社で手を合わせ、海辺の丘陵と海岸歩きの旅を終えた。
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| 東御崎海岸へ下りる |
伊和都比売神社境内より瀬戸内海を望む |
山行日:2005年2月6日