いつも訪れる寝室。だがしかし、今床に伏せっているマッシュは病気ではなかった。森で遭遇した不気味なモンスターから受けた毒により意識を失っていた。
毒は薬師の処方箋により食い止める事はできたが、そのショックが体に負担を与え、半月程も意識不明の状態であった。
エドガーは自責の念にかられ、殆ど休む事なくマッシュの側にいた。
そしてエリザベートも毎日のように訪れては「わたくしのせいですわ! エドガー様やマッシュ様のご忠告を聞かずに湖の向こう側へ行ったのですもの!!」とマッシュのベッドの脇で泣き崩れていた。
こうしてエドガーとエリザベートが祈る思いで今日もマッシュの傍らに居たが、意識を失った人は目覚めようとはしない。
「エドガー様、陛下がお呼びでございます」
廊下でエドガー付きの近衛兵の呼ぶ声がする。
エドガーはその声を聞いて無表情のまま機械的に立ち、
「すまないね、エリザベート、少し席をはずすよ」と言って寝室を後にした。
近衛兵に案内されエドガーは酷い疲労を抱えたまま閣議の間へと入った。
既に国王や枢機卿、そして騎士ジェフリー、各大臣達という錚錚たるメンバーが一堂に会していた。
エドガーは陛下を始めとし、大臣達にも丁寧に敬礼を表して静かに席に着く。
「さて、みなが揃ったところで、私の考えを言うとしよう。当初、ガストラ皇帝の太子と我が姪のエリザベートとの政略結婚によって帝国軍と正式に同盟を組む予定ではあったが、それは取り止めにしたいと思う」
国王の突然の発言により、一堂の中には不満を表している者もいた。
「お言葉ではございますが、陛下、帝国軍はもう既にそのように事をすすめております。このまま帝国軍との同盟を白紙に戻すとあらば、このフィガロは…」
エドガーや国王の忠実な騎士ジェフリー・マクラウドが予想していた通り、ド・ローラン枢機卿は反対派の当主となり踊り出た。
「我が国フィガロは機械の技術が発達し世界にも誇れる国です。帝国軍はフィガロ家と同盟という名の元に縁組をし、国ごと技術を乗っ取ろうとするでしょう。そうなればこの秩序と平和を重んじている私達の国は帝国軍の理不尽な戦争に荷担することになります。それとも、ド・ローラン枢機卿殿は…」
「殿下!」
と、ジェフリーが止めなければエドガーの口からは、穏やかな声、穏やかな表情を崩しはしないのに、歯に衣を着せぬ言葉がどんどん流れ出していた。
「ほほぅ…流石は陛下ご自慢のご子息、もっともらしい意見だ。貴方の愛国心は私とて痛いほどわかってはいるよ。しかしエドガー、君のそんな情熱だけでは国を治めては行けぬのだよ」
ド・ローラン枢機卿の瞳はエドガーの静かではあるがその奥に秘めた情熱の蒼い瞳に囚われてはいたが、その瞳を焼き尽くすほどの憎悪で返していたのはその場にいた誰の眼にも明らかであった。
窓から差し込む夕日がエリザベートを不安にさせていた。
エドガーが国王に呼び出されて出て行ったきり、もう何時間も一人でこの部屋にいる。
エリザベートは窓を開け、バルコニーに立つ。優しい風が栗色の髪の毛を撫でた。こんなに憂鬱にさせた夕日は初めてである。陽はまた砂漠の彼方へ沈もうとしているのに、ベッドの上の人は一向に目覚めなかった。
夕日の光がとても美しい。
エリザベートは後ろを振り返ると、橙色の光がマッシュの金色の髪を一層美しく輝かせている。風がその髪を揺らしていた。暫く眺めていたかったが風が冷たくなってきた。
エリザベートは窓を閉め、ベッドの脇へと戻った。日も暮れかけてきたのでベッドのカーテンを降ろそうとして、天蓋から下がっている組紐に手をかけた。
その時、微かに夕日に反射しているマッシュの髪が動いた。
「!」
窓は閉じて、風は吹いていない筈だ。
しかし、その自然ではない髪の動きに気付いたエリザベートは組紐から手を離し、マッシュを覗きこんだ。
ゆっくりと開かれた瞳はいつもと変わらぬほんの少し憂いを帯び、澄んだ泉のような蒼い色をしていた。
数時間前にこの部屋を後にしたエドガーと全く同じ瞳をしているのである。
そして、エリザベートはその瞳を捉えると言葉よりも先に涙が溢れ出していた。
「エドガー」
エドガーは大臣達に続いて閣議の間を後にしようとすると、国王に呼びとめられた。
「はい」呼びとめられたエドガーは向き直り国王に敬礼を表する。
国王は真っ直ぐに自分の目を捉えている。蒼い瞳の奥を見ていた。父が瞳の奥、即ち心を見透かそうとしているのをエドガーもわかってはいたが、穏やかな表情を保ち、国王である父が次に言葉を発するのを待っていた。
「顔色が悪いようだが何故、私の前でもそんな顔をする? 敢えては問わぬ、レネーのことは」
「!」
父の瞳へと真っ直ぐに向けられていたそのエドガーの澄んだ瞳は微かに動いた。
「そなたの立場や、気持ちは充分にわかっている。いや、そうさせたのは私のせいなのか? ロニ…。そなたは私の若い時とそっくりだ。
私がそなたに対して教えることはもう何もない、本当に私の誇れる息子だ、立派に国を継いでくれるであろう。しかし、そのことがお前の重荷か?」
「父上!!」
「ロニとレネーはいつまでも私の大切な掛け替えのない息子だ。国王たる者は常に一人の人間である前に国王であれと私はそなたに教えてきた。
しかし…ロニ…、全てにおいてそうではない時もある。国王とて人間なのだ、一人の人間であり、私達は一つの家族なのだよ。全て自分だけで抱え込もうとするでない、私とてお前達やみながあってこその国王だ。そなたは何においても聡明であるから、私の言っていっていることをすぐにわかってくれるであろう。だからせめて父の前でだけはそんな悟りきった顔をするな……嫌、しないでくれ」
国王はエドガーを抱き寄せた。
エドガーはもう忘れかけていた父の腕の暖かみを感じ、その腕に身を委ねながら本当に幼かった子供の頃の穏やかな感情を思い出していた。
マッシュの視界はぼんやりとしていた。
視点がようやく定まるとすぐ目の前にエリザベートの濡れた深碧色の瞳があるのに驚いた。
「あぁ、神様! 良かったわ、本当に良かったわ!」と興奮するエリザベート。
「えっ? ……僕……」
「あれから、ずっと意識がなかったのよ、私のせいで。このままもしもの事があったら、私はもう生きていけないと思っておりましたのよ」
エリザベートはいつものように手を大きく動かしたりして表情豊かに喋り出す。
「えっ…そう言えば」記憶がまだ曖昧ではあるが、マッシュもまたいつものようにエリザベートの喋りに圧倒されている。
「見た事もないような不気味なモンスターが毒を放って…。マッシュ様は私の替わりにその毒を負って下さったのですよ!
あぁ、何とお礼を言っていいのか…エドガー様に行ってはいけないと注意をされていたにも関わらず、わたくしのわがままであんな事になってしまって!
謝っても謝りきれないですわ、本当に許して下さい、マッシュ様」
胸に両手を当ててみたり、顔を覆ってみたり、目まぐるしくエリザベートの口や手は動いていた。
マッシュはそんなエリザベートを見ているだけで穏やかな気持ちになっていた。
「いや、そんな…。もう気にしなくていいよ、僕もこうして元気になったみたいだし。それより疲れただろう? ずっとここに居てくれたの?」
「私よりも、エドガー様ですわ! 今朝は陛下に呼ばれてここを離れたきりですけど、殆ど眠らずにお側にいらっしゃいましたわ」
「…兄上か……。また迷惑をかけたな…」マッシュは微かに眉間に皺を寄せ、黙ってしまった。
幼少の頃から体が弱いのもあって、双子ではあるが何においても兄に後れをとっているマッシュ。兄を尊敬するが故にせめて迷惑だけはかけたくないと常に思う弟。涼しい表情で何事も一人で背負ってしまう兄を少しでも助けたいと、ただそれだけの為に強くなろうと培うのに、いつまで経ってもそれが実現できない事にもどかしさを感じるマッシュであった。
暫くして沈黙に耐えられないエリザベートが口を開く。
「でも、命がけでわたくしを守って下さったのはマッシュ様ですよ」
「えっ?」と怪訝そうなマッシュ。
「私を庇ったまま素手で拳を一つ。そして相手が怯んだ隙に、マッシュ様は躊躇なく敵に飛び込み、両の手でクリティカルに拳を入れていましたわ!
うふっ、私…変でしょう? 生死の狭間だというのに、全てを見ていたなんて」
とククッとその魅力でもある鈴のような声を立てて笑うエリザベート。この笑顔に弱いマッシュはつられて彼女と同じような笑みを浮かべていた。
「そう、でもねびっくりしたの! ごめんなさいね、正直言って、マッシュ様が…あんなに…」
さすがに言い出せないエリゼベート。
「そうか! いや、いいんだよ、僕だって信じられないよ!」と興奮するマッシュ。
「えっ?」とエリザベートは首を傾げた。
「ダンカン師匠に習った技、爆裂拳だ。習得していたんだ…無意識のうちに出てたなんて! やったよ、エリザベート! 僕にもやれば出きるんだね」
マッシュの瞳はその奥から光を放ち、憂いを帯びた瞳を一層煌かせるその深いサファイアのような瞳とエリザベートの深碧なエメラルド色の瞳は絡み合った。
マッシュが覚めぬ興奮の勢いで起きあがろうとしたのをエリザベートがそっと肩に手を当てたのに留まる。
次の瞬間、マッシュの口元にエリザベートの珊瑚色の唇が重なったようだ。
柔らかいその感触は温かい。目を閉じた睫毛がほんのりと濡れていた。
ほんの暫く硬直しながら潤った睫毛を間近で眺めるマッシュではあったが、気が付くと目を閉じ、その温かい感触に身を委ねてみる。
絹のようなエリザベートの髪がマッシュの首元で微かに揺れているのをむず痒く思いながらも、こんなに穏やかな気持ちになったのは初めてであった。
柔らかい唇が離れるとマッシュは静かに目を開けてみた。
すぐ目の前のエリザベートは屈託の無い万人に幸せを撒き散らすかのような笑顔だ。その笑顔につられながら、まだ濡れている唇をそっと動かすマッシュ。
「…! これは失礼した」
エドガーが再びマッシュの寝室を訪れると、真っ先に視界に入ったのは天蓋から降りているレースのカーテン越しにうっすらと映る重なり合っているかのような二人である。
その一歩踏み出した足を急遽後ろに引き、ドアを閉じようとした。
「エドガー様!………お帰りなさいませ」
エリザベートはレースのカーテンを振り払い、ドレスを掴んで膝を折り仰々しく挨拶を述べる。
「すまないね、エリザベート、すっかり遅くなってしまったよ。日も暮れかけている…。てっきり、君はもう帰っているかと思って、ノックもしなかった、本当に申し訳無い…」
半開きのドア越しに言うエドガー。
「マッシュは意識を取り戻したようだね」穏やかな声である。
「い、いや……。あ、ありがとう、また心配かけてしまって」
エリザベートの唇の感触を味わった興奮も醒めぬまま、思いもかけないところを兄に見られたかと思うとマッシュは動揺を隠しきれない。
「良かった、これで安心したよ…。私は少し疲れたようだ、部屋へ戻っているよ」
エリザベートの前で「疲れたようだ」と言うのはエドガーらしからぬ言葉ではあったが、気を使っているのだとマッシュにはわかっていた。
「そうだ、忘れぬうちに言っておこう。エリザベート」
「は、はい」いつになく張詰めたような声である。
「陛下は帝国と君との縁組を取り止めになさったよ。これで君を帝国なんかへやらなくて済んだ。まだまだ花嫁修行をするべきだね…では失礼するよ」
「ありがとうございました、エドガー様」
ドレスを広げ膝を折り、ドアが閉じるまで深々かと頭(こうべ)を垂れるエリザベートであった。
マッシュが目覚め、エリザベートの婚礼は破棄となった、この若き二人は何もかもが良い方向へとむかっているという春の中にいる。
しかし運命の歯車は小さな幸せを噛み締めている二人にも容赦しなかった。
毎年恒例の行事として行われる国王陛下誕生日祝いの宴の前日であった。
大袈裟に開催される祝いの舞踏会の前日に家族だけのひっそりとした祝いを催すのも数年の行事としていた、国王一家である。
大抵この日は国王と父を祝う唯一の息子二人の三人であった。いや、妃も含めると四人という家族だけの宴であった。本来なら国王と向き合う席に座っているであろう王妃、つまり双子の母の席も必ず設けられていた。
しかしこの年はいつもの四人以外の親類が同席する。
ここ数年間、親子四人の水入らずの宴であっただけに国王の実弟の枢機卿は珍客だ。
次の日の舞踏会に出席できぬ都合の為の会席である。国王はこの弟の列席に素直に喜びを露にする。
そしてようやく全快したマッシュは叔父の出席に娘であるエリザベートの姿を期待していたようだが…。
しかし、エドガーは違っていた。ド・ローラン枢機卿の臨席に些か疑問を抱き、更に不安を打ち消せないでいる。
早くもエドガーの不安を敵中させた事態は悪戯な運命に弄(もてあそ)ばれたと思うしか選択の余地のない双子であった。
エドガーが懸念していたことがそれ以上の結果となってしまったのである。
野心の塊であった枢機卿と、ガストラ皇帝はやはり裏取引をしていた。直接の原因はエリザベートの婚礼の破棄であろう。
焦ったこの野心家の二人の計画は意図も簡単なものであった。国やその発展の技術を安売りしない国王とその意志を継ぐ後継者、つまりエドガーとマッシュを葬り去ろうと。
だがこの強い愛情で結ばれた父子を救ったのはいち早く枢機卿の黒い計画を知っていた国王の忠実なる騎士、ジェフリー・マクラウドとその高潔な騎士を愛するグウィネヴィア・ソフィー・ド・ヴェルダスク公爵夫人であった。
国王を慕う二人の、そして決して神の御前で永遠の誓いをたてる事はない、道ならぬ恋のふたりの情熱が国王一家を辛うじて救ったのである。
しかしこの日、国王一家は家族の次に大切な人達を同時に失ったのは悪戯な運命の仕業と片付けられるのであろうか?
王を守るためなら命も捧げ出す忠実な騎士にして身分問わず王の親友であったジェフリー、そして勇敢で愛に生きた従妹のグウィネヴィア、慈愛していた筈の弟と、かけがえのない三人を失った国王。
想いを遂げることは生涯叶わなかったが理想とも言うべき初恋で憧れの女(ひと)グウィネヴィアを成す術もなく目の前でその人の死を無残にも見せられたエドガー。
そして初恋ともわからずに初めて女性に対して温かい穏やかな感情にさせてくれたその女(ひと)、従妹であるエリザベートとの別離だけが待っているマッシュ。
渇いた風が通り過ぎる。
細かい砂が目の前を通り過ぎたせいで瞳がチリチリと痛みを感じていただけではないマッシュ。
それでも尚、目の痛みとそれとは別に溢れようとするものを抑えるのが背一杯である。
対して凡(おおよ)そ王家の貴婦人が乗るとは思えないほどとてつもなく簡素な馬車に乗っているエリザベートの深碧の瞳は涙でマッシュの姿も捉えることが出来ないほどであった。
悲劇というのだろうか? 家族水入らずの至福の宴であったであろうあの日から僅かしか経ってない。
陰謀の張本人である枢機卿は極刑を免れたが、生涯暗い牢で過ごすことになる。
そして罪のない枢機卿の一人娘のエリザベートは生涯、修道院で過ごさなければならぬ結果となったのである。囚人と何も変わらぬ扱いであった。
もはやこの親子に対しての国王の慈悲だけでは済まされぬフィガロである。国王の権限でこの親子を無罪放免にすることはあまりにも臣下一同、そして今後の国の為にも許されぬ事であった。
質素な馬車の前に立つマッシュの姿を捉えたばあやは何やら小言を言っているようである。
囚人を見送ろうとするマッシュを咎めているばあやではない。ただ、マッシュが傷つくのを見ていられないのが本音であろう。
エドガーはそんな様子をバルコニーから眺めていた。
なりふり構わず、ばあやや近衛兵たちに懇願するマッシュ。二度と会うことのない別離かもしれない。当然の事であろう、ましてや自身の気持ちに素直なマッシュとエリザベートなら。
自分はどうだったのか?
エドガーは僅か数日しか経っていないが消し去りたい記憶を辿ってみた。
二度と会う事のない別離が予告もなしに訪れた。
「グウィネヴィア!!」
家族や女官達の見ている中で、鮮明な血を吐き出して倒れるグウィネヴィアをなりふり構わず抱きしめたではないか! 長い髪にべっとりと彼女の鮮血が染みたのも気付かずに抱きしめた。
国王とその弟、そして女官はエドガーのその行動に驚きを隠せなかったであろう。
しかし、マッシュだけは違っていた。多くを語らずとも深層の心を、そして伴う行動を理解し合っている双子である。
「エリザベートは父上の姪にあたり僕の従妹に当たる身分の人だ。ナイトの一人も同行することなく、彼女を危険な旅にさらすのか!」
マッシュの本来なら尤らしい言動にばあやをはじめ近衛兵達は視線を下に向けるしかなかない。囚人用の馬車ともいえる、それに乗っている貴婦人の付き添いといえば、彼女付きの女官一人であった。
「ばあや、せめて国境まで、マッシュにそのレディを見送らせてくれ」
不意に現れたエドガーはマッシュとは対比に静かにばあやに懇願する。懸念するばあやの表情を捉え
「マッシュがレディの見送りをしたことに陛下から咎められるのなら、私が責任を持つ」
と言うエドガーの言葉は何気に威厳を感じさせ、ばあやを始め、近衛兵達は一歩後ろへと下がる。
「いつも済まない、ロニ……」
「この馬車のレディを国境までお送りするのが役目だ」
広大な砂漠をゆっくりと動く馬車。その歩調にマッシュ鞍乗のチョコボも合わせる。
特に話すこともない。いや、本当は数え切れぬほどの言葉が出てきても良いのだろうが。
しかしそう思えば思うほど、固く閉ざされた口元からは何も出てこようとはしない。
永遠にこの砂の地が続くと本気で信じていた幼い頃が懐かしい。だが永遠に続かない砂漠の終わりを告げた国境を視界に留める二人である。
簡素な馬車の中の幼い貴婦人は濡れた瞳を除けばいつもと何も変わりはない。若い娘には似合わぬ薄いグレーの質素な衣(きぬ)に身を包んでいてもその女(ひと)から溢れ出る気品を隠しようもなかった。結い上げた髪の後れ毛が風に舞い、白い首元に振りかかっているのが尚一層、儚い。
こういう時、兄なら何と言うのだろうか? マッシュは聞いてみたかった。口をついては何も出ない…。しかしその張り裂けそうな胸の内を蒼い瞳に現した。
いつか見た、あの森の湖に落としたエメラルドの宝石のように濡れるエリザベートの瞳。彼女は二度と会うことのないマッシュの姿を鮮明に捉えようと何度も、何度も溢れ出る雫を両手で拭き取っていた。
そして、二人の沈黙を破ったのはやはり、エリザベートである。
「……さようなら、マッシュ様………………」
エリザベートが次の言葉を続けるのに口を開こうとした刹那マッシュは馬車に掛けられたエリザベートの白い手を取り、素早く口元へと持っていくと小さな手にキスをした。
エリザベートはいや、マッシュですら驚いたであろう、夢にも思わぬその行動に。
小さくて柔らかい手の甲がマッシュの唇に一瞬の暖かみを感じさせていた。
エリザベートの手に顔を埋めているマッシュの頭(こうべ)から風と光にさらされ、煌いている肩までの髪。片手で涙を拭き取りながら最期に潤う瞳に焼きついたものは、黄金色に輝いたマッシュの髪であった。
「貴方に出会ったことは、生涯忘れません………」
聞きなれている鈴のような凛とした声が最期である。
温かい手が唇を離れ、その言葉を聞き、そして馬車が動き出したのを顔をあげて見送ることすらできないマッシュであった。
対して溢れ出る涙を何度も拭いながら頭を垂れているマッシュの姿を砂の煙に消えるまで見詰めるエリザベートであった。
その後、エリザベートの消息を知る者はいない。自殺か病死かと噂をする輩もいたが。
大切なもの、壊したくないものを同時に失ったフィガロの親子ではあったが、しかしこの後、さらなる悪夢はこの双子を待ち構えている。
冬の次は必ずしも春ではなく長すぎる冬を迎えるであろうフィガロの双子であった。