***夢一夜***


「俺の肌には温もりがあるのか?」
 真っ白な絹の波に身を預けている男はうつ伏せのまま、静かにそう呟いた。その彼の背に覆い被さるようにして、心の蔵の音に耳を傾けていた男は、けだるそうに返答した。
「何故そんな事を聞く?」
「真に塵だった俺の事を、お前に知ってもらいたい………」
「まだ、そんな事を言っているのか? お前は塵じゃない!」
 陶器のような白い肌から上半身を離した男は声を荒立てた。
 窓から差している朧月はけだるい光を放ち、褐色の頬にかかる銀の髪をほのかに照らした。
 そしてその光はうつぶせのまま石像のように動かなくなった男の白い肌を照らし、象牙色のやわらかい髪を、今宵の月と同じ色に染めていた。
「廃棄場から這い上がってきた一人の少年の事だ。もう過ぎた話しだがな」





***夢想***


 アンティークの時計の針が午前2時を告げる音を聞かせた。この大きな執務室に響いたその音はやがて冷たい空気に包み込まれた。
 うたた寝の夢から現実へと連れ戻された音。
 乾いた紙の音、そして小さな私の吐息までが響き渡る。
 やけに静かな夜だ。
 私は立ち上がると、自分の背丈よりも更に数メートル上から垂れている重いカーテンをほんの少し開いてみた。
 闇に舞う幾千の白い光。
「雪…か。珍しいな」



 旧シェバト王宮の屋上。降り止まぬ雪が全ての景色を白く染めていた。私とカールは頬に突き刺さる冷たい風の中、静かに落ちてゆく雪を眺めていた。
「シグルド……また、行くのだな……」
 やがて沈黙を破ったのは私の背後から聞えたカールの声だった。私は少し驚いたように、だがゆっくりと振り返った。
 その声はあまりにも低くて穏やかであった。私はそれまでにカールのそんな声を聞いた事があったのだろうか。
 カールは柱にゆったりと背を預け、腕を胸の前で軽く組んで立っていた。解けかけた雪が額にかかった髪を微かに濡らし、その上の真っ白の小さな粒が淡い金色に髪を輝かせていた。
「あぁ…。だが行くのではなく、俺は…」



 ―帰る―



 そう続けようとした私の言葉は、僅かに挙げたカールの白い手に遮られる。
 傷ついた少年のようなカールの金の瞳がそれ以上言うな、、、、、、、)と語った。
 やがて小さく開かれたカールの口から白い息が流れた。まるで耳元で囁かれたように吐息混じりのその言葉は、音もなく降り続く粉雪に溶け込んだ。



『さよならだ』



 震える声。しかしそれはしっかりと私の脳裏へ届いた。私は返す言葉を失い、戸惑いに揺れていた。
 カールの私を見つめる瞳が今は穏やかで深い。あの少年の頃、私が彼の元を去った頃の不安定であった金の瞳はもうどこにもなかった。
 ようやく私たちはここまで来たのだ。長い年月を経て。だが私はカールを、そしてカールは私の何を理解したというのだ?
 再会してから多くを語り合った事はなかった。言いたい事は山ほどあったはずだ。だが結局は何も伝える事はできなかった。カールはただ一つ自身の事を話してくれたというのに。
 十数年前カールの元を去る時、思えば私はひどい事を言ったものだ。お前達と語った束の間の夢、悪くはなかった…と。
 何故あの時、弟の、いや、自分の父の家を取り戻しに帰る、、)と言えなかったのだろう。
「フッ……」
 私は自嘲の笑みを浮かべた。
 今更、そんなことを言って何になる。それは言葉にしなくともカールには伝わっていたはずだ。
 あぁ、そうだ、カール! だからこそ私に最後まで言わせてくれなかった。
 帰る、、)と。
 そしてカールのたった一言により、私の陳腐な言葉は静寂の白い大地とともに深く沈んでいった。



 ――さよならだ――



 それは十数年前にカールの元を去ったときに聞いた「裏切り者!!」と同じく私の耳から離れない。
 再会するまでの十数年間、カールのあの激しい言葉は何度私の脳裏で叫んでいた事か!
 私の耳の奥で木霊し続けていたその言葉。
 だが、白銀の中で最後に聞いた「さよなら」は、あの時よりずっと穏やかなのに、その言葉が私の胸に響いて痛い。
 何故痛いのだ? カールが決めた別離わかれ)ではないか。あんなに強いカールを見たのは初めてであった。
 しかし、私の中で何かが欠けたのだ。
 白い大地に沈めた、たった一つの破片かけら)
 カールに一度も言わなかったたった一つの言葉だ……。
 あれから5年…まだ甘いな。最初の時は12年、それに比べれば半分にも満たないではないか。
 時計の針が既に午前3時を過ぎようとした頃、正面の重い扉が開く音とともに「シグ……」と私を呼ぶ若の声が再び私を現実へ戻した。
「若。眠れませんか?」
「ここ数日間、騒がしかったからな。マルーもニサンに帰ったし、何だか静かになって」
 と若はいつもの爽やかな笑みを見せた。
 自由になったヒト達の強い生きる意志と共に、この地は少しずつではあるが良い方向へと向かっていた。そんな中、若とマルー様はようやく幼き頃からの想いを遂げた、大勢の祝福の元に。
「雪……。珍しいな」
「そうですね、私も先ほど眺めておりました」
 バルコニー前に立ち、外を眺める若と私の息遣いさえも、しんしんと降り積もる雪に溶け込みそうなほどの静寂がこの部屋を覆った。
「思い出すよな、雪原のシェバトを」
 そう言った若は素早く私の前に立つと、私の手から書類を取り上げた。
「若?」
「アヴェを取り戻して国民に親父の遺言を告げた、あの日。“頭の切れる補佐が必要じゃないのか”と言ったお前を雇ってやった。だが、もう今日でクビ!」
“若!”と言おうとした言葉が口をついて出てこない。私にしては相当の驚きを露にしたようだ。
「もうガキじゃないんだから、いつまでもシグルドに頼るなってさ。マルーとの成婚祝いに駆けつけてくれたエレメンツに言われた。あの漫才コンビには、大人の気持ち、、、、、、)のわかんねぇ、鈍感な奴とまでバカにされちまったぜ」
「若……」
「ったく大人、、)ってのは、よくわかんねぇな。素直じゃないんだぜ。つまらねぇ意地の張り合いしやがってよぉ! ま、相手があの堅物じゃぁ、意地も張りたくなるか」
 そう言った若は意地悪な笑みを浮かべた。
 あの堅物じゃ、意地も張りたくなる。確かにそうだ。私は抑えられない笑いがこみ上げ、若へ悪戯な笑みを返す。
 若はいつのまにか立派な青年になっていた。いつまでも彼を子供扱いしていた私は恥じた。
「いいか、シグ、即クビだからな! そんな仕事は放って夜が明けたらお前の好きなところへ行くんだぜ!」
 クビですか。私は返す言葉を亡くす。どうしたと言うのだ、頭の切れる補佐。いつものように気の利いた冗談や皮肉の一つも返せないとは。
 私は黙ったまま、部屋を出ようとしている若の背中をぼんやりと眺めていた。
「おっと言い忘れていた! たまの雪もいいけど、砂漠育ちの俺達には年中じゃキツイな。アヴェが恋しくなったら、いつでも戻ってきていいぜ。いや…」
 若はそこで言葉を切った。ほんの少しの間を置いた後、ゆっくりと振り返った彼のブルーの隻眼は対極にある私の瞳を捉えた。
「いや……帰って来いよな! ここはお前と俺の家なんだからよ! じゃぁな。お休み」





***夢境***


 愚かな魂よ、目覚めよ! 何に怯えているというのだ? もう嘆くのはよせ!
 何度も繰り返したではないか。
 約束。
 裏切り。
 ……そして別離。
 悪臭放つ何の希望も未来も光もない廃棄場から這い上がってきた己は……



 誰も信じない
 誰も愛さない



 そして誰も愛してはくれなかった……そのはずだった!
   だが、いつのまにか、他人の心の温もりに触れてしまった。
 その手はベルベットのようにやわらかく暖かい。包み込まれ溺れさせる。幼子がゆりかごで眠るような至福の刻だ。
 だが誰しも永遠の春の中では生きてゆけない。いつかは訪れる冬。



 流した血も涙も、疵つけ疵つけられた夜も何も恐れはしない。
 死よりも恐れるもの、それはただ一つ。



 別離わかれ)



 私はまた欺瞞で自身を誤魔化そうとしている。
「愚かだ……」
 暗闇に舞う雪が風とともに激しく窓を叩いている。時計の針は午前2時を少しばかり過ぎていた。
 私は長椅子に身を預け、いつのまにか夢を見ていたようだった。
 過ぎた事だ、何を今更このような夢に縛られる? 思えば幾日も見ていたような気がした。
 肩にかかるほどに伸びたプラチナ色の髪。白い雪は静かに銀の糸の上で踊っていた。もう何度見た光景であろう?
 それが最後に見たシグルドの面影であった。
 あれから5年。この地は永遠の冬。雪が降り止む事はない。だが、旧シェバトのヒト達もゼファーと共に、新たに強く生きるという生命の泉を築き始めていた。
 ここへ留まった私には、私を必要としてくれる嘗てのエレメンツがいる。私は真っ白な雪原で彼女達と共に、この崩壊した世界がまた緑あふれた大地へと息吹くよう日々努力を重ねていた。
 いや、努力を重ねていたと言うより私自身、何かに夢中になっていなければいけなかった。この地が我々の手によって真の自由と言えるようになるまで、何十年かかろうとも、それに没頭することこそが私に与えられた贖罪ともいえよう。
 だが――。
 私は何と嘘つきであろう? 自身への欺瞞とプライドでかためているな。しかし、そうでもしなければ、崩れそうなほどに脆い私だ。
「俺が真実ほんとう)に恐れているのは、裏切りと別離だ」
 未だに裏切りを恐れているとは、何と愚かな私だ。



 ――さよならだ――



 同じ夢境をさまよい、少し疲れたな……。





***冬ハカナラズ春トナル***


「おはようございます、ラムサス様」
 元エレメンツの四人は規律正しくドミニアの挨拶でいつもの朝が始まる。
「閣下ぁ…いや、ラムサス様もそろそろ自由になった方がいいですよぉ〜。ね、トロネちゃん」
「お前は喋るなと言っただろ!」
 愛らしいセラフィータとトロネのコンビの二人にカーラン・ラムサスは怪訝な表情ながらも、ふっと自然に笑みがこぼれた。
「お客様が屋上でお待ちです」
 相変わらずケルビナは冷静に上司へと報告した。
「屋上? 何故そんな所に。ここへ通せ」
「いえ、あえて、そちらでお待ちです」
 ケルビナの即答にカーランは、髪の色と同じ淡い象牙色の右眉を微かにあげた。
「閣下……いえ、ラムサス様……。もう、私達は我々だけで歩んで行けます。ですから、どうぞ行ってください!」
 ドミニアの凛とした声が冷たい空気を一文字に切り裂いた。
 カーランはほんの少し険しく眉間に皺を寄せた。
「お前達……」





 雪が全てを真っ白に染めている。
 カーランの視界へ真っ先に入ってきたのはプラチナ色の髪と褐色の肌。白の世界に迷い込んだ目立ちすぎる彩り。
「何しに来た?」
 カーランはやや忙しなげに問うた。
「随分ひどい挨拶だな、久々だというのに……変わらないな」
 変わってシグルドは、静かに降る雪のように穏やかである。ゆっくりと振り向き、まるで蒼穹のような隻眼でカーランに微笑んだ。少年の頃から変わらぬカーランのぶっきらぼうな物言い、シグルドは懐かしさに自然と笑みが零れたのである。
「ここで最後に会った日……」
 忘れるはずのない日。カーランの金の瞳は雪景色に浮かんだ五年前の映像を映した。
「言い忘れた何か…。一つの破片かけら)を雪の中に落としてしまったようだ、それを探しにきた」
「何の事だ」
 カーランはいつものようにしかめ面をするが、悪い気はしていないようだ。その表情はシグルドがよく知るカール、、、)独特の表現であった。
 ほんの少しの沈黙が深い雪に溶け込んだ。二人は視線を絡み合わせたまま、体は微動だにしなかった。
「カール……」
 シグルドはカーランを呼びなれた愛称で呼ぶと、雪の上を静かに進んだ。
 力強く歩んでくるシグルドをカーランはぼんやりと眺める。次の瞬間、カーランの白い頬は雪で濡れた銀の糸に撫でられる。
 戸惑いと驚きを隠せないカーランは息を呑み、身体を強張らせる。だが次第にシグルドの力強い腕と温もりを背中に感じた。
「最初で最後だ……二度は言わない」
 シグルドはカーランの耳元で吐息混じりの低い声で囁いた。
「もう去ったりはしない」
 その言葉がゆっくりとカーランの耳に脳裏に心に流れ込んでくる。
 シグルドの言葉にカーランは何も言わずに、込み上げてくる思いが何かわからず唇を噛み締めた。
 瞳が燃えるように熱い。カーランは静かに瞼を閉じると長い金の睫が濡れたのを知った。
 降り頻る雪の中で佇む二人は互いの鼓動の音を、温もりを感じた。
 そして雪たちはただ、金と銀の濡れた糸の上で沈黙の踊りを続けていた。





「ここは、寒いな……。アヴェへ行かないか?」
「……ふん、一緒に行ってやってもいいがな……」

The End

〜あとがき〜

たかの様のサイト“罠屋〜Tr@pper'S〜”一周年の
お祝いに書いたものですが、一周年記念の日に間に合わなくて、
えらい遅いお届けになったSSでした(爆)
たかの様も私も大好きなシグラム(もしくはラムシグ)。
カールはいつも報われないので(爆)
たまには幸せになって欲しかったというので、
シグにちょいクサイセリフを言わせてしまいました(^^ゞ

二人でアヴェへ行って、『やさしい風がうたう』のように
若と実はうまくいかなくて、とばっちり閣下になる、、、
ってな事はないです、この後は(笑)

2002.1.27 ルイマリー=ヨゼフィーネ=ダイム
 

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