澄んだ三日月。今宵の月の煌々たる光が庭や局の御簾を照らしていた。
「ようこそ安倍泰明様、我が主よりご案内するよう遣わされました」
四条にある橘家へ訪れた泰明は簡易的な装束を纏った、比較的身分の高い女房に挨拶の辞を述べられる。
「友雅殿よりこれを、お渡すようにと」
女房が差し出した淡香の扇には薄紫の房が一つあった。そして、その下には薄墨で何やら書かれていた。
「……」
泰明は何も言わずに、女房からそれを受け取る。
「返歌はいかがなさいますか?」
女房に問われ、泰明は左の淡い翡翠にも似た色の瞳を見開く。
「私は友雅に用がある。早々に案内せよ」
泰明の無粋な言葉に女房は驚く。主の招きの詠は来客を持てなすもの。だが珍客、安倍泰明は貴族の風流を知らない、無粋な男と女房は思う。
「は、はい、早速、ご案内いたします」
女房は長い廊下を先頭に歩き、来客陰陽師を友雅の対へ案内する。渡殿にて見える庭は見事な新緑と、まだ咲き乱れぬ橘の蕾が溢れている。
風情ある橘家の来客ならば、その渡殿で見渡せる庭にも何かしらの言葉を告げていた。だが、この無粋な陰陽師は何の感動も見せない。
「あれが、友雅殿が興味を示された、陰陽師殿ですわね」
「何とも無粋な御方」
「しっ! あの最強の陰陽師、安倍清明様の愛弟子です。それに、先日は友雅殿の命を救ってくださったではございませぬか!」
「しかしながら、崇高な陰陽師とはいえ、たかだか従七位の陰陽師なる者が、正五位の我が主にあのような無礼をはたらいてよろしいのでしょうか」
房から、友雅に仕える女達の話が聞えてくる。
「我が師より遣わされた。主にだけ用がある」
泰明は困惑する女房達に端的に目的を押し付ける。
「はい! 只今。どうぞ、御簾内から流れ出でた女房達の無礼をお許しください…」
「そんな事に何も興味ない。私は主の招きにて、ここを訪れているだけだ」
主の命により、大切な来客を持て成すように言われた女房は、礼儀を知らぬ陰陽師を早々に屋敷奥へと案内した。
橘家の庭は清涼殿でも噂の高い、風情豊かなものであるそうだ。その中でも今上帝の信任も厚い、橘少将である友雅の住む対の庭は見事なものであった。
趣豊かな主は、季節毎の花には大変凝っていた。
「失礼する」
以前とかわらず若き陰陽師は、遠慮なく几帳の内へと足を踏み入れた。
「ようこそ泰明殿。こちらへ、どうぞ」
御簾の向こうでかなり寛いでいる姿の友雅が、無粋な来客に声をかける。
泰明は部屋を渡り、御簾をあげた。
友雅は蒼い月に照らされた漆石のように光沢のある長い髪を、束ねる事なく肩に垂らしていた。
藤重ねの直衣(のうし)は着崩し、大きく肌蹴た胸元に見える小袖の青い襟が白い肌によく映えている。
柱に体を預けている友雅は珍客に側へ来るよう促す。
「あなたより、御招き頂いて…。我が師、清明様より遣わされた」
突っ立ったままの泰明の手には、閉じられた淡香の扇があった。
「扇の色と添えた花、お気に召さなかったのかな? 返歌をいただけないとは哀しいね」
「詠も一通り習ったが、私にはそういった嗜みは必要ない」
泰明は相変わらず無愛想な物言いである。
「まぁ、仕方ないね。立ってないで、こちらへ来てお座り。今日は先日の礼も兼ねてお招きしたんだよ」
座るよう促す友雅だが、泰明は微かに眉をひそめる。
「礼などいらぬ」
「まぁ、そう言わずに、お座りなさいな」
ようやく端近に正座する泰明に友雅は微笑する。
「清明様に言われて伺ったが、用件を早く申せ」
「あなたはとてもせっかちな方だ。人生とはそう急ぐものではないと思うがね」
友雅は笑みを絶やさない。対して泰明は無表情をかためたままだ。
「あなたに是非、この藤をご覧になっていただきたくてね。父のこの屋敷は橘が見事だが、私の庭の藤は、恐れ多くも左大臣家の藤と劣らぬほど素晴らしいとの評判でね」
おぼろげな月明かりに照らされた見事な薄紫は、とても優雅に咲いている。先ほどの霧雨が藤棚にかかり、垂れる雫が一層艶やかさを添えている。
泰明はこれまで花をじっくり見た事はなかった。花を見ても、何を見ても美しいと思う事がなかった。
美しいと思う心が理解できない。だが友雅にすすめられるがままに藤を眺めた泰明は、不思議な感じが胸の奥でした。
「おや? お気に召しませんか?」
「いや…」
そう言った泰明の表情から先程までの険しさが薄れ、ほんの少し優しいものとなった。
「私は花を見ても美しいと思う感情がない」
「なかなか面白い事を言うね」
友雅の瞳に光が差した。だが泰明は怪訝な瞳を向ける。
「どうしてそう思うのかな? 泰明殿。美しいと思う感情がないとは、ぜひどんなものか聞かせてもらいたいね」
泰明は微かに首を傾げて友雅を見入る。
友雅の方でも不思議な客人を観察していた。左の翡翠石、右の猫目石は月光を浴びて天然石のように耀いている。
表情の変化が殆どないが、聡明さと美しさを兼ね備えた造り。左半面にある仮面が冷たい表情に拍車をかけ、友雅の目にはなかなか蠱惑的に映る。
「お前の言っている事がよく解らない」
機械的な声で泰明は応える。
「ならば、花をめでながら、じっくりとわかるように話し合わないか?」
友雅はとても穏やかな声で言った。
だが泰明は、ほんの少し眉間に皺を寄せる。
「何も話す事はない。用件はそれだけか?」
泰明の無礼な態度に友雅は驚きもせず、微かに肩を竦めた。
「おや、それは哀しい事を言うねぇ。もう少し親しくならないと何も話してはもらえないのかな?」
「私はお前のような殿上人ではないし、風流な嗜みも必要ない。私にあるのは、師から全てを受継いだこの陰陽の力だけだ。師の思し召しに従い、この力を使うべく術を磨くために時はある。だからお前と語り合う一時なども私には必要ない」
端的に述べる泰明に、友雅は髪の一房を弄びながら、真っ直ぐな瞳を向け沈黙する。
明るい月の光の加減で深碧色にも見える友雅の瞳を、泰明は相変わらずの無表情で見入った。
「他に用がないのなら、これで失礼する」
踵を返した泰明に友雅はようやく話しかける。
「私の庭の藤(はな)は気に入ってもらえたようだね。また何か…泰明殿のお気に召しそうなものを揃えて御招きしますよ」
泰明は友雅が話し終えると早々に几帳の向こうへと姿を消した。
「泰明、橘少将殿から、そなたに」
泰明は師である清明から奥ゆかしい文を受け取った。師は泰明に何か言いたそうであったが、あえて口を閉ざし音もなく部屋を後にした。
白い小さな蕾をつけた花に巻きつけられた藤鼠(ふじねず)の紙。ほんのり甘くすっぱい香が微かに漂う。