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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2003.1.29〜2.4★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2003.2.4(現地2.3)
●フィリーズ、若いバールと6年間5000万ドルで契約合意!
パット・バール
大型補強に乗り出し、2003年に大きな期待がかかるフィリーズだが、生え抜きの若いパット・バールと新たに6年間5000万ドルで契約を交わした。26歳のバールは2002年、157試合に出場し、打率.282、37HR、116打点という好成績を残した。これは往年のフィリーズのスター選手であるマイク・シュミットが1986年に記録した37HR、119打点に匹敵するものである。

2004年に新球場を開場するフィリーズ。それに合わせるかのようにジム・トーミデビッド・ベルを獲得し、棚ぼたの様な形でライバルチームのブレーブスからケビン・ミルウッドも獲得することが出来た。地区制覇を続けているブレーブスをストップさせることが出来るか。フィリーズには注目が集まる。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.013
ミッキー・マントル★ミッキー・マントル★ <1951年〜1968年>

ヤンキースの球史を飾るスラッガーとして一時代を築いたミッキー・マントル。通算536本のHRは、スイッチヒッターとして歴代1位の大記録である。とんでもない飛距離を記録する長距離砲であり、最大では180メートルも飛ばしたとも言われている。その他にも三冠王も記録し、ポストシーズンでの18HRはメジャー史上最高記録であるなど、輝かしい球歴に囲まれている。

史上最高のスイッチヒッターのマントル。オクラホマ州スパビノーで生まれたマントルは、野球好きの父親と祖父の影響で幼き日から野球を楽しむ。セミプロチームでのプレー経験もあり、それなりに名の知れた父親は、当時のメジャーの捕手でもあるミッキー・コクレーンから、ミッキーという名前をもらったという。マントルがスイッチヒッターになるのは、同じくスイッチヒッターだった父親の影響で、自然と右でも左でも打てるようになったという。

田舎で生まれ育ったマントルだったが、運良くヤンキースのスカウトの目に止まり、1949年にはヤンキースと契約を交わした。1950年にはマイナーで137試合に出場し、打率.383で首位打者に輝く大活躍を見せた。1951年にはスプリングトレーニングでの活躍が認められ、開幕メジャーの座を勝ち取った。本来はショートを守っていたマントルだが、当時のチームにはフィル・リズドーがいたため、外野を守ることになる。

1951年、メジャーリーガーになった19歳のマントルには必然的に大きな注目が集まった。というのも、チームの看板選手でもあったジョー・ディマジオの引退が近づいていることもあり、新しく若いスターの登場が求められていたのである。この年限りで引退するディマジオがセンターを守り、マントルがライトを守るという新旧スターが外野で名を連ねた。

7月半ばにはマイナー降格を経験し、マントル自身もかなり落ち込むが、父の励ましもあり復活。桁違いの成績をマイナーで残したマントルは、8月末にはメジャー復帰。この年のワールドシリーズではジャイアンツと戦うが、第2戦でウイリー・メイズの打ったフライを追ったマントルが外野のスプリンクラーに足を引っかけ、右膝を痛めるアクシデント。すぐに手術したものの、引退するまで膝の故障には悩まされた。

ヤンキースの系譜に名を連ねる華のある選手であった。ディマジオの抜けたセンターを守ることになったマントルは1952年、142試合に出場し、打率.311、23HR、87打点をマーク。さらに翌1953年の4月17日の対セネタース戦ではグリフィスパークの場外に飛び出す特大HRを放った。このHRはメジャー最長の当たりと認定され、飛距離は170メートルとも、180メートルとも言われている。

チームの看板打者に成長したマントルは1956年、打率.353、52HR、130打点という圧倒的な成績で三冠王に輝いた。誰もが認めるヤンキースの顔となったマントルは、この年のドジャースとのワールドシリーズ第5戦で決勝HRを放ち、さらに守備でもラインドライブの難しい打球を好捕するファインプレーで、シリーズ史上初となるドン・ラーセンの完全試合に花を添えている。

1956年、1957年と2年連続MVPを受賞したマントルは、1958年には42HR、1960年には40HRとそれぞれ本塁打王を獲得している。そして、迎えた1961年はマントルにとって、ベーブ・ルースの持つシーズン60HRという記録の更新が期待されるほどの打棒を開幕から見せていたが、シーズン終盤の9月に肺炎で2週間も休んでしまうアクシデントで、チームメイトのロジャー・マリスが61HRと記録を更新してしまった。

マリスの記録更新には批判が集まったものの、3番のマリスの後を打つ4番のマントルが打率.317、54HR、128打点という好成績を残した故のマリスの記録更新とも言われている。この2人はMM砲として他球団から恐れられ、この年のチームは世界一となった。翌1962年には打率.321、30HR、89打点という成績で自身3度目のMVPを獲得し、チームは2年連続世界一に輝いている。

背番号7は当然のように永久欠番である。1963年、フェンスにぶつかるアクシデントで左足を骨折してしまい、シーズンの大半を棒に振ってしまったマントル。翌1964年に打率.303、35HR、111打点という好成績を残すが、マントルらしい成績を残したのはこの年が最後である。この年のワールドシリーズでもカージナルスに3勝4敗で振り切られ、これ以降、ヤンキースは11年もワールドシリーズの舞台に立つことが出来なくなる。晩年のマントルは怪我に苦しめられ、ポジションをファーストへ移すこともあった。そして、結果的には1969年の開幕前に引退を発表した。

マントルは早逝の家系に生まれたこともあり、自分も早死にするものだと思い、若い頃から不摂生を重ねた。怪我に苦しんだマントルの原因はここにもあるとされている。しかし、実際は64歳まで生き抜き、1995年に息を引き取ったが、自らの不摂生を後々になって恥じたという。とはいえマントルの築き上げた記録は不滅であり、1974年には殿堂入りを果たした。ちなみに通算HR(536本)のうち、左打席から373本、右打席から163本打っている。

■2003.2.3(現地2.2)
●今オフにFAとなるテハダ、アスレティックスとの長期契約を要望!
ミゲル・テハダ
2002年、晴れてMVPに輝いたミゲル・テハダは、今季終了後にFAとなるが、本人はアスレティックス残留を含む長期契約を求めているという。打率.308、34HR、131打点という好成績でチームに地区優勝をもたらした存在は、チームにとっても欠かせない。昨年の年俸が362万ドルだったテハダが求めるのは、8年から10年に渡る長期契約というが、その希望が通ることはあるのか。

●ハンター、ツインズと2年間710万ドルで契約合意!
ジャック・ジョーンズ
ツインズはジャッキー・ジョーンズと2年間710万ドルで契約に合意し、調停を避けた。2002年のツインズは、1991年以来となる地区優勝を飾り、それにジョーンズも貢献した。チームメイトのトリ・ハンターも4年契約を結んだばかりで、再びこの2人が外野を守ることになる。ちなみにジョーンズの打撃成績は打率.300、27HR、85打点であり、ハンターは打率.289、29HR、94打点という数字を残している。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.012
ウイリー・メイズ★ウイリー・メイズ★ <1951年〜1973年>

走攻守全てが兼ね備わった万能選手として知られるウイリー・メイズ。本塁打王4回に盗塁王4回という数字がそれを証明している。プレーそのものに華があり、多くのファンを魅了したメイズ。そのメイズに憧れて、背番号24をつけてプレーする選手が増えるなど、大きな影響を残したと言える。また、バリー・ボンズの名付け親としても知られ、さらにメジャー史上3位という通算660本のHRも記録している。

メイズの通算660HRはメジャー史上3位の大記録。アラバマ州バーミングハムに生まれたメイズは、子供の頃から抜群の運動神経に恵まれた。生まれてすぐに両親が離婚したこともあり、伯母の元で育てられたが、運動神経は両親譲りのものである。14歳になると地元のセミプロチームでプレーし始め、17歳の頃にはニグロリーグのバーミングハム・ブラックバロンズと契約し、野球で生計を立てていった。時代はジャッキー・ロビンソンの台頭もあり、メジャーリーグが黒人に門戸を開き始めた時期と一致する。

1950年には、当時まだニューヨークに本拠を構えていたジャイアンツと契約。マイナーからのスタートだったが、1951年はマイナーでの35試合の出場で打率.477をマークし、あっさりとメジャー昇格。デビュー後は22打数ノーヒットと苦しんだが、監督のレオ・ドローチャーにセンターのポジションを与えられると、そこから自身を掴み、才能を発揮し始めた。メジャー初ヒットは、好投手ウォーレン・スパーンからのHRだった。121試合の出場で打率.274、20HR、68打点という成績で新人王を獲得。

しかし、メイズにとってのメジャー1年目は新人王獲得以上にドラマティックなシーズンでもあった。8月半ばの段階で、地区首位ドジャースとの差は13ゲームであったが、そこから快進撃が始まり、シーズンが終わった段階でついにドジャースと同率首位で並ぶ。そして、ドジャースとの3ゲームプレーオフでもボビー・トムソンの劇的なサヨナラ3ランHRが飛び出し、逆転優勝を飾った。この時、トムソンのHRをネクストバッターズサークルで見ていたのがメイズであった(しかし、ワールドシリーズではヤンキースに敗退)。

1952年途中から兵役につき、実質2年間を棒に振る形に終わったメイズだが、1954年にメジャー復帰すると、打率.345、41HR、110打点という好成績を残し、首位打者のタイトルを獲得し、MVPも受賞した。そして、メイズの名前を不動としたのはこの年のインディアンズとのワールドシリーズであった。

今も球史を彩る「ザ・キャッチ」。第1戦、2対2の同点で迎えた8回表、ビッグ・ワーツの放った打球はセンターのメイズの頭を越える大きな打球となったが、この打球を背走して追ったメイズは見事に背面キャッチ。捕ってすぐさまセカンドへ投げ、ランナーも刺し、チームのピンチを見事に救った。このプレーは「ザ・キャッチ」と呼ばれ、伝説的なプレーの一つとして数えられている。このプレーは捕ったことも素晴らしいが、捕ってすぐに投げたからこそ伝説になり得たとも言われている。このシリーズは4連勝でジャイアンツは世界一の座に輝いている。

1955年も打率.319、51HR、127打点で本塁打王のタイトルを受賞。この頃から積極的な走塁も目立つようになり、1956年には40盗塁で初の盗塁王を獲得。HRも36本放っていることから、ひょっとするとメジャー初の「40−40」クラブ入りも期待された。そして、この年から4年連続で盗塁王を獲得するなど、スピード感溢れるプレーは多くのファンを魅了した。

1958年からジャイアンツはニューヨークからサンフランシスコへ移転。1960年から新球場として構えたキャンドルスティックパークは海に近いこともあり、強風が吹くことが多く、これが逆風となりHRと思われた打球が外野フライに終わることが多々あった。メイズもこの逆風の被害者として名前が挙がるが、1961年には1試合4HRを記録し、さらに1962年には49HR、1964年には47HR、1965年には52HRを放ち、それぞれ本塁打王のタイトルを獲得。1965年は自身2度目のMVPも受賞している。

常に全力プレーを心がけるメイズは、年齢を重ねる毎に成績が降下。ベーブ・ルースの通算714HRという記録を抜く候補でもあったが、最終的にはハンク・アーロンに抜かれてしまった。1972年シーズン途中にはメッツへの移籍が決まり、翌1973年までプレーして、ここで22年間のメジャーキャリアにピリオドを打った。通算660本のHRはルース、アーロンに次ぐ史上3位の大記録である。

MVP2回に本塁打王4回と打点王4回を受賞。1954年から20年連続でオールスターゲームに出場したメイズは、「セイ・ヘイ」と呼ばれファンから親しまれた。オールスターでの通算打率は.315と期待に応えるものだが、ポストシーズンでは守備での「ザ・キャッチ」にばかり注目が集まる一方、打撃成績は大したことはなく終わっている。

若い頃には兵役で2年間を棒に振り、サンフランシスコ移転後は逆風に悩まされたことがあり、それがなければアーロン以上のHRを打ったのではないかと言われている。そのような厳しい状況の中でも誰にも劣らない成績を残したメイズこそ、メジャーリーグを代表する万能選手と呼ぶに相応しいと言えるだろう。そして、1979年には晴れて殿堂入りを果たした。

■2003.2.2(現地2.1)
●契約合意したばかりのドリュー、膝の手術で復帰はおそらく5月以降!
JD・ドリュー
先月、カージナルスと1年間370万ドルで契約を延長したJD・ドリューが、痛めていた右膝を手術し、復帰は5月になりそうだ。2001年は109試合の出場で、打率.323、27HR、73打点をマークし、飛躍のきっかけを掴んだかに見えたが、2002年は135試合に出場し、打率.252、18HR、56打点という結果に終わっている。元々期待は大きい選手ではあるが、常に移籍候補としても名前の挙がる選手でもある。

●ホワイトソックス、本拠地球場をUSセルラーフィールドと改称!
Chicago WHITE SOX
ホワイトソックスは本拠地コミスキーパークの名称をUSセルラーフィールドと改称することを発表した。これにより球団は20年契約で6800万ドルを手にすることになる。これにより、ホワイトソックスの初代オーナーの名前を冠にしたコミスキーパークの名前は聞かれることがなくなる。1910年から1990年までのコミスキーパークが最初で、1991年から新たなコミスキーパークが誕生していた。USセルラーフィールドで2003年のオールスターゲームが開催される。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.011
ハンク・アーロン★ハンク・アーロン★ <1954年〜1976年>

メジャー記録である通算755HRと通算2297打点をマークしたハンク・アーロン。メジャーリーグを彩るスラッガーも、黒人ということで人種差別に苦しめられることがあったものの、毎年コンスタントに実績を積み上げた姿はメジャーリーガーとしての鏡とも言える。HRだけでなく、通算3771安打にゴールドグラブ賞受賞の経験もあるなど、全てでトップクラスでもあった。

メジャーリーグ最高打者の一人であるアーロン。黒人に対する差別がひどいアラバマ州モービルで生まれたアーロン。貧しい暮らしの中で育ったこともあり、幼き日のアーロンは実際の野球のボールでプレーしたことなどほとんどなかった。さらに野球を教わる機会などほとんどなく、自分一人で考えながら野球を楽しんだ。右打者のアーロンのグリップの持ち方が逆だったという逸話も、教える人間がいないという影響もあったのだろう。

母親の反対もあったが、何とか説得し、高校時代には地元のセミプロチームであるモービル・ブラックベアーズに入る。そこで初めて野球でお金を得る機会に恵まれた。当時のポジションはショートストップで、俊敏な動きでチームを引っ張り、17歳になるとニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズから誘われる。ちょうどジャッキー・ロビンソンが黒人初のメジャーリーガーとしてキャリアを重ねている最中で、アーロンにもメジャーリーグという舞台が現実のものとして実感できた。

1952年にはミルウォーキーに本拠を構えていたブレーブスと契約し、まずはマイナーで打率.336を記録するなど、その将来性に大きな期待が寄せられた。メジャーに昇格したのは1954年のこと。チームのボビー・トムソンが怪我をし、そのおかげで出場機会を手にし、122試合の出場で打率.280、13HR、69打点をマーク。シーズン終盤に足を骨折するアクシデントがあったが、このことが幸いしたのか、オフに予定されていた兵役の義務を免除することができた(しかし、アーロン自身は国民の義務として、兵役に関しては前向きに考えていたという)。

1955年、レギュラーとしててして定着し、リーグ5位となる打率.314に加え、27HR、106打点と好成績を残したアーロン。後にHRを記録を打ち立てるアーロンも、若い頃は非常に細い体であったが、野球の才能は抜群である。経済的にも安定してきたことが身体的な成長を促進し、打撃にもパワーが備わってくるようになる。1956年には打率.328で首位打者を獲得し、翌1957年には44HR、132打点で打撃二冠王に輝く。

通算755HRはメジャーリーグに燦然と輝いている。1957年、チームはアーロンの他にスラッガーのエディー・マシューズやシーズン21勝のウォーレン・スパーンを抱えており、チームはリーグ優勝を飾った。しかもリーグ優勝を決めたのは、延長戦の末のアーロンの特大サヨナラHRであった。ワールドシリーズではヤンキースと戦い、アーロンは打率.393、3HR、7打点という大活躍を残し、チームは4勝3敗で世界一の座を手にした。アーロンはMVPにも輝き、さらにブレーブスにとっても1914年以来の世界一となり、ミルウォーキー移転後初の世界一でもあった。

1958年、タイトルには手が届かなかったが打率.326、30HR、95打点という成績でチームに2年連続となるリーグ優勝をもたらした(ワールドシリーズではヤンキースに3勝4敗で敗れる)。アーロンの外野守備も高く評価されており、この年から3年連続でゴールドグラブ賞を受賞している。

この後も大きな怪我もなく、毎年のように高い数字を残し続けたアーロン。1955年から1974年まで20年連続20HR以上を記録し、1955年から1967年まで13年連続100得点以上を記録。HR30本以上を記録したシーズンは15回を数えるなど、積み上げた実績は他のいかなる選手と比べても全く遜色がない。

1966年にそれまでのミルウォーキーから、南部のアトランタへ移転したブレーブス。どちらかというと物静かで、派手なプレーを見せるわけでもないアーロンにはなかなか注目は集まらなかったが、HR数がベーブ・ルースの714本に近づいてくると、徐々に周囲の圧力がかかってくることになる。ルースというメジャーリーグの象徴の記録を、黒人が抜くということに批判が集まり、アーロンには数多くの脅迫を始めとする非難が降りかかった。

全ての部門で高い成績を残した。アーロンが39歳の1973年、リーグ4位となる40HRを放ち、この時点での通算HR数は713本。ルースの記録まであと1本となった。非常に厳しいオフとなったが、無事に迎えた1974年、開幕戦でHRを放ち、ついにルースに並ぶことになる。そして迎えた1975年4月8日の対ドジャース戦、アル・ダウニング投手から通算715本目のHRを放ち、新記録を樹立した。アーロン、40歳の春のことだった。

大偉業を為し得たアーロンは1976年はブリュワーズへ移籍。1969年にシアトルに誕生したパイロッツが、1970年からミルウォーキーに移転することとなり、ブレーブス移転後にぽっかり空いたミルウォーキーの野球熱を埋めていた。そもそもキャリアのほとんどをミルウォーキーで過ごしていたアーロンにとって、ブリュワーズ移籍は古巣に戻るようなものである。

最終的にはブリュワーズで2シーズンを過ごし、全盛時のような数字は残せなかったが、キャリアの最後を見事に締めくくったといえる。通算成績のほとんどが、上位に位置しているアーロンの実績は偉大なものであり、アーロンが付けていた背番号44は、ブレーブスとブリュワーズのいずれでも永久欠番となった。引退後のアーロンはブレーブスのフロントに入り、黒人の地位向上にも積極的に動いている。

アーロンは「静かなる男」と称され、数々の非難にも打ち勝ち、輝かしい記録を打ち立てた。1980年に晴れて殿堂入りしたアーロンの存在は、メジャーリーグ全体でも未だに大きな光を放っており、さらに日米の野球でも大きな架け橋となっている。ちなみに実弟であるトミー・アーロンも同じブレーブスでプレーしたことがある(しかし、トミーは兄ほどの実績を積み上げられなかった)。

■2003.2.1(現地1.31)
●ミラー、日本球界入りか、それともレッドソックス入りか・・・!
Boston RED SOX
日本プロ野球の中日ドラゴンズとすでに契約を結んだはずのケビン・ミラーだが、レッドソックスが獲得に動き、情報が乱れ飛んでいる。「ミラーがレッドソックス入りを望んでいる」との報道が先立ったことがことが原因である。日米野球界の間による紳士協定に触れる可能性もあり、今後の動きが見逃せない。果たしてレッドソックス入りはなるのか、またそれはプロの世界で認められることなのか。


■2003.1.31(現地1.30)
●パイレーツ、第4先発投手としてスパーンと1年契約!
ジェフ・スパーン
パイレーツはジェフ・スパーンと1年間100万ドルで契約を交わした。2002年までロイヤルズの第2先発投手として4年連続投球回数200イニングを記録している。2002年の成績は9勝16敗の防御率5.32というものであり、通算成績としては49勝64敗の防御率5.03である。パイレーツ投手陣の中では、第4番手の先発投手として期待されている。

●ビジオ、契約内容の見直し!1年の延長で合意!
クレイグ・ビジオ
アストロズでセカンドから外野へのコンバートが決まったクレイグ・ビジオが、これまでの契約を1年延長する事でまとまった。ビジオにとっての2003年は、4年契約3300万ドルの最終シーズンだったが、その契約を2004年まで延長し、さらに2005年は球団のオプションとなる。ビジオは1987年のドラフトでアストロズから1位指名を受け、ポジションこそ捕手からセカンド、外野と変わるが、一貫してアストロズでのプレーを続けている。


■2003.1.30(現地1.29)
●ホワイトソックスの新クローザーのコッチ、新たに2年契約を交わす!
ビリー・コッチ
2003年からホワイトソックスの一員となるビリー・コッチは、2年間1062万5000万ドルという内容で契約を交わした。2001年はブルージェイズのクローザーとして活躍し、2002年はアスレティックスのクローザーとして、11勝4敗44セーブをマークしている。若手左腕のマーク・バーリーの成長に加え、バートロ・コロンも獲得するなど、チームも戦力的に揃っていることから、大きな期待がかけられている。

●41歳ガララーガ、ジャイアンツとマイナー契約!
アンドレス・ガララーガ
41歳になるアンドレス・ガララーガは、かつて在籍経験のあるジャイアンツとマイナー契約を交わし、メジャー復帰を目指すことになる。かつてはメジャーを代表するスラッガーとして名を馳せたガララーガにとっては、現役続行をかけての挑戦となる。ジャイアンツにはJT・スノーがいるため、ガララーガの求められる活躍は限られたものになってくるだろう。

●フェンウェイパークに増席案浮上!ペドロとの契約も新たに・・・!
Boston RED SOX
レフトにグリーンモンスターと呼ばれる高い壁があることで知られるレッドソックスの本拠地フェンウェイパークではあるが、そのグリーンモンスターの上に客席を用意する準備があるという。1912年に開場されたこの球場には、新球場建設案も根強くあるのが事実である。実際に約300席の増加が予想されている。

この他にもレッドソックスはチームのエースであるペドロ・マルチネスとの契約を見直す方向であるという。すでに3度のサイヤング賞を受賞しているペドロは投手陣の軸であり、打倒ヤンキースには欠かせない戦力であることは間違いない。ちなみに2002年は、20勝4敗の防御率2.26、239奪三振をマークしている。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.010
ノーラン・ライアン★ノーラン・ライアン★ <1966年〜1993年>

若い頃から剛速球投手としての地位を築き上げ、そのスタイルを40代半ばまで維持したノーラン・ライアン。通算5714奪三振にシーズン383奪三振という輝かしいメジャー記録を持ち、さらに史上最年長の44歳3ヶ月でのノーヒッターを含む計7度のノーヒッターを記録している。これだけの記録を樹立したライアンも、唯一サイヤング賞とは縁のないまま現役生活を終えてしまった。

不世出の奪三振王、ノーラン・ライアン。高校時代から制球力こそないが、威力ある速球で注目を浴びていたライアンは、1965年ドラフトでメッツに10位指名を受け、プロの世界に足を踏み入れた。プロ入り直後からその速球に注目が集まっていたライアンは1966年、マイナーで17勝をマークし、シーズン終盤にはメジャーへ昇格して2試合にだけ登板している。チームは地区最下位が定位置のメッツだったが、ライアンの将来性には大きな期待がかかっていた。

しかし、迎えた1967年、春から張り切って全力投球を続けるライアンの腕に異変が起こった。ライアンの右腕は投げることも出来ない状態になってしまったのである。当時は手術も一般に行われない時代で、ただただ自然治癒を待つしかなかった。野球への夢をあきらめかけたこともあったが夏頃から奇跡的に痛みが引いた。1968年にはマウンドに戻ることが出来た。ライアンが結婚したのもこの頃のことであった。

1968年はメジャーで6勝をマークして復活したライアン。ミラクルメッツと呼ばれ、メッツが球団史上初の世界一に輝いた1969年は主にブルペン投手として6勝を挙げ、ワールドシリーズでもセーブを記録。チームメイトのトム・シーバーはエースへの階段を駆け上ったが、ライアンは安定感のなさが足を引っ張り、チームから信頼を得ていたわけではなかった。1971年の成績は10勝14敗であり、オフに待っていたのはエンゼルスへの移籍話である。

移籍の交換相手となったのはエンゼルスの中心選手だったベテランのジム・フレゴシであった。後にこの移籍はメッツにとって史上最悪のトレードと言われることになる。というのもこの移籍が転機となり、ライアンは大投手への道を歩むことになったからである。エンゼルスの一員となり、先発ローテーション入りも可能とスプリングトレーニングからトレーニングに励んだ。現在では当たり前になっているウェイトトレーニングも練習の中に組み入れ、これも役に立った。

そして移籍1年目の1972年、39試合に先発し、19勝16敗の防御率2.28、329奪三振という好成績で奪三振王のタイトルを獲得。完投が20試合に、完封が9試合という点もライアンの成長の証である。翌1973年には21勝16敗の防御率2.87をマーク。さらにそれまでメジャー記録であったサンディー・コーファックスのシーズン382奪三振を塗り替えるシーズン383奪三振も記録。この年はその他にも2度もノーヒッターを記録するなど、誰もが認めるメジャーリーグを代表する投手になった。

ノーヒッター7度は不滅の大記録。1974年には22勝16敗を記録し、さらに367奪三振と3年連続300奪三振をマーク。1974年、1975年にもそれぞれノーヒッターを達成。まさに記録まみれのライアンは、1974年にレーザー光線で速球のスピードが計測され、この時の記録である100.9マイル(162キロ)はギネスブックにも掲載されたという。

しかし、なかなかポストシーズンには縁のなかったエンゼルスだが、1979年に球団史上初の地区優勝を果たした。この時の監督は、かつてのライアン移籍の交換相手だったフレゴシであったが、惜しくもワールドシリーズへコマを進めることは出来なかった。この年限りでエンゼルスのユニフォームを脱ぐことになったライアンは、エンゼルスでの在籍8年間で残した記録は138勝121敗、2416奪三振というものである。

FAとなり、史上初の年俸100万ドルでアストロズと3年契約を交わしたライアン。移籍したばかりの1980年は、11勝10敗に終わるが、アストロズの球団史上初の地区優勝に貢献した(しかし、フィリーズの前に敗れ、ワールドシリーズへは進出できず)。翌1981年はストライキによる変則シーズンとなったが、その中で防御率1.69をマークし、最優秀防御率のタイトルを獲得する一方、自身5度目のノーヒッターも達成している。

アストロズには9年間在籍することになるが、その間も着実に数字を重ねていき、1985年には通算4000奪三振を記録。1987年にはナショナルリーグでの2000奪三振をマークし、両リーグでの2000奪三振を達成したことになる。1986年には地区優勝を果たすが、メッツの前に敗れ、ワールドシリーズの舞台に立つことはできなかった。

1988年シーズン後、FAとなったライアンはすでに41歳となっていた。この年齢でも剛速球投手としてのスタイルは守っており、結果的にアストロズと同じテキサスを本拠に構えるレンジャーズと契約を交わした。監督のボビー・バレンタインよりも3歳年上という状況ながらもライアンは実力を発揮。周囲の雑音をはねのけ、移籍1年目の1989年、16勝10敗の防御率3.20、301奪三振という好成績を残し、夏場には通算5000奪三振を達成した。

46歳まで現役で投げつけたライアン。これだけに留まらず、1990年には自身6度目のノーヒッターを達成。翌1991年にも44歳3ヶ月にして、自身7度目のノーヒッターを達成する超人ぶりを見せた。年齢を感じさせないピッチングを見せていたライアンも1993年シーズン前に引退を表明。しかし、最後のシーズンは序盤から怪我に苦しめられ、故障者リスト入りするなど苦しいものとなった。

復帰後の8月の対ホワイトソックス戦、死球を当ててしまったロビン・ベンチュラが激怒しマウンドへ突進。ライアンはこれにひるむことなく、20歳も年齢が下のベンチュラを相手に6発のパンチを食らわした。結果的に退場が告げられたのはベンチュラの方で、ライアンはそのままマウンドに残り、そのまま勝利投手となった。そして、この年限りで正式に引退し、メジャー生活27年間にピリオドを打っている。

前人未踏の記録をいくつも樹立したライアンも、ワールドシリーズを経験したのは才能が開花する前のメッツ時代の1回のみに終わってしまった。しかし、年齢を重ねようとも剛速球投手を貫くことが出来たトレーニングのノウハウは確実に次代に伝わっていると言える。1999年には野球殿堂入りを果たしたライアンだが、エンゼルス時代の背番号30、アストロズ、レンジャーズ時代の背番号34はそれぞれ永久欠番となり、その栄誉を称えている。

■2003.1.29(現地1.28)
●クルーズ、ジャイアンツと1年契約!ポジションはライトを予定!
ホゼ・クルーズ
ジャイアンツはFAとなっていたホゼ・クルーズと1年間280万ドルで契約を交わし、レジー・サンダースの抜けたライトのポジションを埋めることになりそうである。2001年に「30−30」クラブ入り(34HR、32盗塁)を果たしたクルーズだが、2002年の成績を打率.245、18HR、70打点と落としてしまい、ブルージェイズの構想からはずれた。2年連続リーグ優勝を目指すジャイアンツの中で、まだ28歳と若いクルーズの活躍は非常に重要となるであろう。

●移籍のデュラゾ、1年間106万5000ドルで契約に合意!
エルビエル・デュラゾ
オフに4球団にまたがるトレードでアスレティックス入りしたエルビエル・デュラゾは、1年間106万5000ドルという契約で合意に至った。これまでも高い評価は得ていたものの、怪我やチーム状況に足を引っ張られた。2002年はわずか76試合の出場で打率.261、16HR、48打点という数字に終わっている。アスレティックスでファーストをフルシーズン守りながら、どれだけの打撃成績を残すことができるか非常に注目が集まっている。

●ショーエンワイス、エンゼルスと1年契約で合意!
スコット・ショーエンワイス
2002年、世界一となったエンゼルスの中でシーズン最初は先発で、その後にセットアッパーとなりチームに貢献したスコット・ショーエンワイスが1年間142万5000ドルで契約を更新した。球団の提示額との間には開きがあったが、ショーエンワイスの要望にわずかに近い形での合意である。また、この契約には登板試合数に対してのオプションも含まれている。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.009
トム・シーバー★トム・シーバー★ <1967年〜1986年>

1962年に創立されたメッツは弱さで注目を集めたチームだった。そんなチームに入団したのが、後に通算311勝を記録するトム・シーバーである。安定感に溢れる理想的な投球フォームから、勢いある剛速球と鋭いスライダーで、1969年に弱小メッツへ初の世界一をもたらした。サイヤング賞を3度も受賞し、さらにノーヒッターを記録するなど、それらの記憶は未だに色褪せることはない。

ミラクルメッツの立て役者といえばシーバーである。1944年、カリフォルニア州フレズノ出身のシーバーは、名門南カリフォルニア大学を経て1966年1月のドラフトでブレーブスが1位指名を行ったが、規定違反により無効となり、メッツ、インディアンズ、フィリーズの間でくじ引きが行われ、結果的にメッツが交渉権を手にした。契約金5万ドルを手にしたシーバーは、その年を3Aで過ごし、12勝をマークしている。

1967年からメジャーに定着し、35試合に登板(先発は34試合)したシーバーは、地区最下位チームの中で16勝13敗の防御率2.76という素晴らしい成績を残し、新人王を手にした。翌1968年も16勝12敗の防御率2.20という好成績をマーク。当時のチームメイトには後の大投手であるノーラン・ライアンもおり、2人はいい意味で影響を与えあった。当時のライアンは球こそ速いが制球力がなく、安定感としてはシーバーの方が上回っていた。しかし、自分より速い球を投げるライアンをライバルとしてシーバーは更なる成長を遂げることになるのである。

こうして迎えた1969年、開幕からメッツを優勝候補に挙げるものはほとんどいなかった。8月半ばの段階では地区首位のカブスに9.5ゲームもの差が付けられていたメッツだが、そこから快進撃を見せる。実に残り49試合で38勝を挙げる大躍進で、逆転で地区優勝を奪った。この躍進の立て役者となったのがシーバーであり、25勝7敗の防御率2.21という桁違いの成績を残している。

リーグチャンピオンシップシリーズではハンク・アーロンを中心とする強打のブレーブスと対戦するが、メッツ打線が爆発し、3連勝であっさりとリーグ優勝を果たす。オリオールズとのワールドシリーズでは、第1戦に先発したシーバーが打たれて、初戦を失ってしまう。しかし、他の選手の活躍もありメッツが2連勝と持ち直して迎えた第4戦、シーバーが再び先発のマウンドに立った。

サイヤング賞を3度も受賞している好投手である。もう失敗は許されないシーバーは8回まで無失点に抑える好投。しかし、9回表に同点となる犠牲フライを打たれてしまい、試合はそのまま延長へ。延長10回表まで投げ終えたシーバーは6安打1失点に抑えた。その裏のメッツの攻撃で、相手バッテリーのミスからサヨナラの1点を奪い、メッツが勝利を飾う。この勢いで第5戦も勝利したメッツは球団創立初の世界一の座に輝いた。この年のメッツを「ミラクルメッツ」と称するが、シーバーも自身初のサイヤング賞を受賞するなど、世界一の立て役者としてし、球団史にその名を深く刻み込んだ。

その後もメッツのエースとして投げ続けたシーバーは、1971年(20勝)、1972年(21勝)と2年連続で20勝をマーク。1973年には19勝10敗の防御率2.08という成績で2度目のサイヤング賞受賞。1975年にも22勝9敗の防御率2.38で3度目のサイヤング賞と、その勢いは留まることはなかった。しかし、メッツの象徴として投げ続けていたシーバーも、フロントとの確執が原因で他チームへ移籍することが決まってしまう。

1977年のシーズン途中にレッズへの移籍が決まってしまった。メッツを去ることに多くの批判が浴びせられたが、シーバーはレッズの一員となってからも意地を見せ、移籍したこの年はレッズで20試合に先発したうちで、14勝3敗をマーク。前所属のメッツで挙げた7勝を加えると、シーズン通して計21勝を記録したことになる。

開幕投手16度は、チームの軸である投手の証拠。1978年6月16日の対カージナルス戦では自身初のノーヒッターを記録。さらに1978年から2年連続16勝をマークし、1981年にはシーズン14勝で最多勝のタイトルを手にしている。しかし、1982年にはわずか5勝に終わると翌1983年には古巣メッツへ復帰。しかし、9勝14敗という成績に終わると、翌年以降はホワイトソックスとレッドソックスを渡り歩き、1986年には現役を引退した。

20年間のメジャーキャリアの中で、311勝205敗の防御率3650個を記録しているシーバー。開幕投手16回に奪三振数も3640個とメジャー史上記録には名を連ねている。それにはシーバー自身の安定感溢れる投球はもとより、自身の研究熱心さも挙げられるだろう。当然のように、殿堂入りの資格を1992年に手にすると得票率98.8パーセントという高い数字で殿堂入りを果たしている。

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