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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2003.1.22〜1.28★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2003.1.28(現地1.27)
●アセベド、ヤンキースとマイナー契約!メンドーサの代役なるか!
ホアン・アセベド
ヤンキースはブルペン強化のために、タイガースのクローザーを務めていたホアン・アセベドとマイナー契約を結んだ。キャリアハイの28セーブをマークした32歳右腕投手は、レッドソックスへ移籍したセットアッパーのラミロ・メンドーサの代役が求められている。アセベドは7年間のメジャー生活でロッキーズ、メッツ、カージナルス、ブリュワーズ、マーリンズ、タイガースと幾多の球団を渡り歩いてきている選手である。これでヤンキースのブルペンはスティーブ・カーセイアントニオ・オスナクリス・ハモンズ、アセベドらが陣取り、クローザーのマリアーノ・リベラにつなぐ形となるだろう。

●37歳シエラ、古巣レンジャーズとマイナー契約結び、再起をかける!
ルーベン・シエラ
37歳になるかつてのオールスター外野手、ルーベン・シエラが古巣レンジャーズと、マイナー契約を結んだ。シエラは2001年シーズン後、レンジャーズからのオファーがなくマリナーズへ移籍。2002年はマリナーズの一員として122試合に出場し、打率.270、13HR、60打点という数字を残すに留まった。現時点のレンジャーズの外野陣はホアン・ゴンザレスカール・エバレットケビン・メンチの他に移籍してきたダグ・グランビルがいるという状況である。この中でシエラの活躍の機会はあるのだろうか。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.008
ウォーレン・スパーン★ウォーレン・スパーン★ <1942年〜1965年>

メジャーリーグの左腕投手の中でトップとなる363勝をマークしたウォーレン・スパーン。シーズン20勝を13度も記録し、最多勝のタイトルを8回も獲得するなど、その存在はメジャーリーグの中でも際立っていたといえる。あくまで現役にこだわるこの左腕投手は、46歳までマウンドに立ち続けた大投手であり、まさに燃え尽きるまで投げたといえるだろう。

通算363勝は左腕投手として史上最多のスパーン。ニューヨーク州バファローに生まれたスパーンは1940年、当時まだボストンに本拠を構えていたブレーブスと契約を結んだ。1941年、マイナーで19勝6敗の防御率1.83という好成績を残し、最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得する大活躍を見せる。そして、翌1942年にはメジャー昇格を果たすが、後にヤンキースで名監督といわれるケーシー・ステンゲルと衝突し、マイナーへ降格。スパーンはそれにも負けず、マイナーで17勝12敗の防御率1.96という数字を残している。

いよいよメジャー定着といきたいところだが、1943年からの3年間は兵役任務により、マウンドに立つことはなかった。陸軍に徴兵されたスパーンは、ヨーロッパ戦線での戦闘に参加し、かろうじて生き残って帰ってきた。この3年間は精神的に大きく成長させた期間だったと、後にスパーンは語っている。

マウンドに戻ってきた1946年、24試合に登板(先発は16試合)し、8勝5敗の防御率2.94という成績を残したスパーン。翌1947年には投手陣の軸となるまでに成長し、40試合の登板(先発は35試合)で、22完投で21勝10敗3セーブの防御率2.33と一躍、メジャーリーグを代表する投手となった。この年の防御率と完封7試合というのはいずれもリーグトップである。

当時のブレーブスにはジョニー・セインという右腕投手もおり、1946年から3年連続で20勝をマークする好投手だったが、スパーンとセインが白星を積み上げようにも、チーム成績は向上せず、「スパーンとセインが投げて、あとは雨よ降れ」という名文句まで生まれた。このファンの祈りが届いたのは1948年のシーズンの事だった。前半戦は不調だったスパーンだったが、後半になるとセインとフル回転で投げ抜き、チームに34年ぶりとなるリーグ優勝をもたらした。スパーンは前半戦の不調がたたり15勝に終わるが、セインは24勝をマークしている。

ワールドシリーズでの相手はインディアンズであり、ブレーブスと同じボストンを本拠に構えるレッドソックスを敗っての勝ち上がりだった。スパーンにとって初のシリーズだったが、第2戦にボブ・レモンと投げ合い敗れてしまうが、第5戦ではボブ・フェラーとの投げ合いで勝利を収めている。しかし、チームは2勝4敗で敗れてしまい、世界一の座を手にすることはできなかった。

背番号21はブレーブスの永久欠番である。その後、スパーンは毎年のように20勝近い勝ち星を挙げるが、チーム成績が向上しない。スパーンの快速球や鋭いカーブの切れを見せないチームは、観客動員数も目に見えて少なくなり、1953年からミルウォーキーへの移転を決めた。移転1年目のスパーンは、23勝(7敗)の防御率2.10でタイトルを獲得している。移転が成功し、観客動員も増えたブレーブスにはエディー・マシューズハンク・アーロンなど若い選手の台頭が目立ち、チーム力も向上していった。

1957年、21勝11敗の防御率2.69という成績で自身初のサイヤング賞を受賞。若き日のアーロンも二冠王に輝く活躍で、移転後初のリーグ優勝に輝いた。ワールドシリーズでは前年の覇者であるヤンキースとの対戦だったが、4勝3敗で振り切り、球団史上43年ぶりの世界一の座を手にした。翌1958年も22勝をマークして最多勝を手にしたスパーン。ワールドシリーズでは前年と同じヤンキースとの対戦であり、第4戦では2安打完封勝利を演じたスパーン。しかし、3勝1敗からチームは3連敗し、2年連続世界一はならなかった。スパーンはこのシリーズで2勝1敗という成績に終わっている。

1957年から5年連続最多勝をマークしたスパーンは、1960年9月16日の対フィリーズ戦でメジャーキャリア16年目にして初となるノーヒッターを達成。さらに翌1961年には40歳の誕生日から5日後の4月28日の対ジャイアンツ戦で2度目のノーヒッターを記録している。さらに1963年には、42歳の年齢にして23勝7敗の防御率2.60という好成績を残した。若い頃は本格派でならしたスパーンは、技巧派へうまく転身したと言える。

投手として35HRを放つ打撃力も持っていた。1964年、6勝13敗という成績に終わると、当時は弱小のメッツへ金銭トレードで移籍。この時のメッツの監督は、メジャーデビュー時にブレーブスの監督を務めていたステンゲルだった。ヤンキースで名監督として名を馳せる前のステンゲルと、弱小メッツで苦しむステンゲルの両方でプレー経験があるのはスパーンだけである。ちなみにヤンキース時代のステンゲルとは1957年、58年のワールドシリーズで対戦している。

1965年、メッツで結果を出せず、シーズン中にジャイアンツへ移籍するも、ここでも解雇通達を受けた。しかし、スパーンの中における野球への熱は冷めず、1966年はメキシコリーグでプレーし、1967年はマイナーでプレーし、そこでようやくユニフォームを脱いだ。この時すでにスパーンは46歳になっていた。

スパーンの通算363勝は歴代左腕投手の中でトップの記録である。スパーンは投手として打撃も素晴らしく、1948年から17年連続で毎年HRを放っており、通算では歴代2位タイの35本を記録している。そして、1973年に晴れて殿堂入りを果たした。

■2003.1.27(現地1.26)
●パイレーツ、2人の左投手とマイナー契約で合意!
Pittsburgh PIRATES
スプリングトレーニングへ約2週間と迫ったこの時期、パイレーツは2人の左投手とマイナー契約を交わした。一人は25歳のデニス・レイエスであり、2002年はロッキーズのブルペンで投げていたが、2003年は先発にまわるかもしれない。もう一人は30歳のマイク・ホルツであり、こちらは2002年シーズンをアスレティックスとパドレスの2チームのブルペンで投げていた。本格的な契約を勝ち取るためにスプリングトレーニングを戦うことになる。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.007
スティーブ・カールトン★スティーブ・カールトン★ <1965年〜1988年>

4度のサイヤング賞受賞に加え、歴代2位となる4136奪三振という大記録を打ち立てたスティーブ・カールトン。メジャー生活24年間の半分をマスコミ拒否の姿勢を貫いたカールトンが積み上げた白星は329個を数える。その長身の左腕から繰り出される速球とスライダーは相手打者を手玉に取るに充分だった。晩年は野球が出来ることにこだわり、幾多の球団を渡り歩き、引退したときは43歳になっていた。

沈黙を通した孤高の左腕、スティーブ・カールトン。1944年、フロリダ州マイアミで生まれたカールトンは、大学を経て1964年にカージナルスとマイナー契約。当時のカージナルスの中心はボブ・ギブソンであった。1964年に世界一に輝いたばかりだったが、翌1965年はリーグ7位に転落する凋落ぶり。まさにチームに若返りが求められる中で、カールトンは1966年途中からメジャーで先発として投げ始める。

1967年、ジャイアンツからオーランド・セペタを獲得し、さらにヤンキースからロジャー・マリスも獲得したカージナルス。カールトンもフルシーズンメジャーで投げ抜き、14勝9敗の防御率2.98という好成績を残し、チームのリーグ優勝に貢献。しかし、あくまでもチームの軸はギブソンであり、ワールドシリーズでは一人で3勝を挙げる活躍で世界一をもたらした。シリーズでは白星を手にすることは出来なかったが、カールトンが後に大投手といわれる片鱗は充分に見せつけたシーズンだった。

1968年に13勝(11敗)をマークしたカールトンは、オフに日米野球で来日。当時は4番手の先発に過ぎなかったカールトンは、日本の投手の投げるスライダーに大変興味を持ったという。また、この時に王貞治にHRを打たれたこともあり、オフはこの新球スライダーを覚えることに全力を傾けた。そして1969年シーズン開幕前にはマスターし、これがカールトンのピッチングの幅を大きく広げた。

1969年には17勝(11敗)をマークして、リーグ2位の防御率2.17を記録した。特に9月15日の対メッツ戦では、当時のメジャー記録となる1試合19奪三振を記録するなど、成長著しい姿を見せつけた。1970年は10勝(19敗)に終わるが、翌1971年には自身初となるシーズン20勝(9敗)を記録。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったカールトンだが、オフの契約交渉でチームと衝突すると、1972年2月にはフィリーズへの放出が決まってしまった。

移籍1年目となる1972年、41試合に先発して、27勝10敗、防御率1.97と圧巻の成績を残した。完投数は30試合を数え、奪三振数は310個を数えた。しかし、チームは地区最下位に落ち込んでおり、シーズン通しての勝利数はわずか59勝だったが、カールトン一人でその内の46パーセントを記録したことになる。そして、地区最下位チームからサイヤング賞投手が選出される幸運にも恵まれた。

サイヤング賞を4度も獲得したカールトン。しかし、1973年以降の3年間はチーム状態が悪いことがあったが、15勝近くの勝ち星は挙げるものの負け数もほぼ同数という状態が続き、カールトンへの風当たりは強くなっていた。中にはカールトンの妻の私生活まで暴かれる報道もあり、これがカールトンにマスコミ拒否の姿勢を貫かせることになる。

1976年には20勝7敗、防御率3.13をマークするなど、見事に結果を出したカールトンは翌1977年、23勝10敗、防御率2.64という数字を残し、自身2度目のサイヤング賞を受賞した。チーム状態は非常に良く、1976年から東地区3連覇を達成するも、プレーオフで涙を飲み、ワールドシリーズの舞台に足を踏み入れることはできずにいた。

1979年にレッズからピート・ローズを獲得したフィリーズ。強力なトップバッターを手に入れたフィリーズは、1980年に快進撃を見せる。その中でもエースのカールトンは38試合に先発し、24勝9敗、防御率2.34、286奪三振という好成績で自身3度目のサイヤング賞を受賞する一方で、主砲のマイク・シュミットも48HR、121打点で二冠王に輝く活躍でチームも地区優勝をもたらす。

アストロズとのリーグチャンピオンシップシリーズでも勝利を収め、30年ぶりとなるワールドシリーズ進出を果たしたフィリーズ。ロイヤルズとのシリーズで、カールトンは第2戦と第6戦に先発して2勝をマーク。こうしてフィリーズは球団史上初となる世界一の座を手に入れた。

1994年、晴れて野球殿堂入りを果たした。1982年にも23勝11敗、防御率3.10という好成績を残したカールトンは4度目のサイヤング賞を受賞。1983年にも15勝(16敗)を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献した(ワールドシリーズでは敗退)。しかし1985年、肩の回旋筋を痛めてキャリア初の故障者リスト入り。復帰後、カールトンのピッチングの軸であったスライダーのキレは失われていた。そして、1986年6月にはフィリーズを解雇され、その後、2シーズン半に渡って4球団を渡り歩くが、1988年についに引退を決意した。

現役時代はマスコミ拒否を続けていたカールトンだが、1994年に殿堂入りの資格を手にすると、投票率95.8パーセントという高投票率で殿堂入りを決めた。マイクの前で話すカールトンには、全盛期のピッチングのようなキレはなかったが、自分のスタイルを貫き通した孤高の大投手の姿がそこにはあった。

■2003.1.26(現地1.25)
●アストロズ、ウォード放出も、期待の若手投手であるルーゴ弟を獲得!
Houston ASTROS
アストロズはクレイグ・ビジオの外野コンバートの影響でダリル・ウォードをドジャースへ移籍させることが決まった。まだ27歳のウォードの2002年シーズンは、打率.276、12HR、72打点という数字を残している選手であり、すでに調停を避けて、1年間135万ドルで契約合意に至っている。パワーのある打者として知られており、2001年には20HRも記録している。

交換相手としてアストロズへやってきたのは、ショートを守るフリオ・ルーゴの実弟のマイナーリーグの投手であるルディ・ルーゴである。ルディは1999年のドラフトでブリュワーズから3位指名を受けた選手であり、その後、ドジャース傘下へ移った選手である。2002年は1Aと2Aであわせて10勝3敗の防御率2.89をマークしている期待の右腕である。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.006
ボブ・ギブソン★ボブ・ギブソン★ <1959年〜1975年>

1960年代のメジャーリーグを代表する投手であるボブ・ギブソン。体全体をしならせるダイナミックなピッチングフォームから、打者の内角を鋭くえぐる剛速球で一時代を築いた。特に1968年には防御率1.12を記録し、さらにワールドシリーズでも計7勝を挙げるなど、積み上げた実績は他に追随を許さない。フィールディングも素晴らしく、9年連続ゴールドグラブ賞も獲得している。

ダイナミックなピッチングフォームから剛速球を投げ込む。ネブラスカ州オハマで、7人兄弟の末っ子として生まれたギブソン。生まれる3ヶ月前に父親を亡くすという不幸があったが、母親のやりとりがうまく子供達に不自由をさせることはなかった。とはいえ、幼少時のギブソンは体が弱く、肺炎で死にかけることもあった。しかし、スポーツの才能に恵まれたギブソンはスポーツに打ち込むことで強靱な肉体を作り上げ、全てを克服する。

小柄だった体も徐々に成長し、高校時代には野球とバスケットゲームで大きな注目を浴びることとなる。卒業時にはニグロリーグのカンザスシティ・モナークスから入団の誘いもあったという。その後、クレイトン大学へ進学したギブソンは、この大学の野球とバスケットボールでプレーする最初の黒人選手となった。強い肩と高い打撃能力は、投手としても、捕手、内野手、外野手としてもいずれも大きな可能性を感じさせた。

そして1957年、ギブソンはカージナルスと契約。無名大学出身で、さらに黒人であることがギブソンへの契約金の額を減らせることとなったが、球団内の評価はとてつもなく高いものだった。下手に契約金を上げてしまうと、メジャーリーグの支配下選手に登録しなければならず、マイナーリーグで腕を磨くことができない例も過去にはあったため、これは回避できた。入団後はポジションをどこにするかで球団内で揉めるが、結果的には投手で始め、ダメなら外野に回そうということになる。

マイナーリーグでは剛速球で注目を浴びるも、制球力不足から思うような結果を出せない日々が続いた。1959年にはメジャー初昇格を果たすも、初登板でHRを浴びてマイナーへ降格するなど、ギブソン自身をも悩ませた。スリークォーター気味の投球フォームに変えることで、制球力アップも試みたりもした。1960年にもメジャー昇格後も当時の監督の起用法に満足できず、他球団への移籍も考えたりしたという。

メジャーでの初めてのフルシーズンとなった1961年は、13勝12敗の防御率3.24という成績を残したが、リーグトップの119与四球を記録している。この年はシーズン途中に、マイナー時代の監督だったジョニー・キーンがカージナルスの監督になり、ギブソンを先発ローテーションとして安定した登板機会を与え始めたことも非常に大きいことだった。

1968年の防御率は1.12と凄まじい。1962年には15勝13敗、防御率2.85という成績を残し、翌1963年は18勝9敗、防御率3.39をマーク。徐々にメジャーリーグの一流選手へなるきっかけを掴み始めた。そして1964年、19勝12敗の防御率3.01を記録したギブソンは、チームのリーグ優勝に貢献。ワールドシリーズではリーグ5連覇を達成したばかりのヤンキースと対戦することになる。

ミッキー・マントルロジャー・マリスというMM砲を擁するヤンキース相手にもギブソンはひるまなかった。第2戦で先発したギブソンは惜しくも敗れるが、第5戦では13奪三振の快投で延長10回の末、勝利を収めた。3勝3敗で迎えた第7戦、中2日で先発のマウンドに登ったギブソンは5失点ながらも完投し、チームに18年ぶりの世界一をもたらした。ギブソンにとってシリーズMVPも手にするなどメジャー生活最初のハイライトとなったこのシリーズ以降、王者の名を欲しいままにしていたヤンキースは11年もワールドシリーズから遠ざかることになる。

1965年には20勝12敗の防御率3.07、1966年には21勝5敗の防御率2.44と2年連続20勝を達成したギブソンだが、当時はリーグにサンディ・コーファックスという存在がおり、タイトルは全てコーファックスに奪われた。ギブソンは同い年であるコーファックスにライバル心を燃やすが、コーファックスは関節炎を理由に1966年には引退を発表。ギブソンはコーファックス引退後も実績を積み上げていく。

1967年、シーズン途中にロベルト・クレメンテの打球を足に受けるアクシデントで後半戦欠場を余儀なくされるが、チームはリーグ優勝を果たしたこともあり、間に合わないと思われていたがワールドシリーズには間に合わせた。レッドソックス相手の第1戦では10奪三振の1失点完投勝利をマークすると、第4戦には散発5安打の完封勝利。第7戦では自らもHRを放つなど、2失点完投勝利で締めくくり、チームに再び世界一をもたらした。ギブソンは3勝をマークして文句無しのMVPに輝いた。

ワールドシリーズでは3回の出場で、MVPは2回。1968年、ギブソンは34試合に先発し、28完投に13完封。22勝9敗の防御率1.12と桁違いの数字を残した。この防御率は20世紀以降でも史上3位となる大記録であり、初めてのサイヤング賞を獲得したのもこの年である。ちなみにこの年は「投手の年」と呼ばれ、ドン・ドライスデールの58回2/3連続無失点記録を始めとする多くの記録が樹立され、防御率2点以下の投手が7人もいたが、その中でもギブソンの存在は際立っていた。

さらに2年連続でワールドシリーズへコマを進めたカージナルス。タイガースとの対戦となり、第1戦ではシリーズ記録となる17奪三振を記録して完投勝利。第4戦も完投勝利で飾ったギブソンはワールドシリーズ7連勝をマーク。期待されて迎えた第7戦だったが、味方のエラーという不運もあり、敗れてしまった。ギブソンにとってもこのシリーズが最後のワールドシリーズとなることになる。

それで勢いは留まることなく、1969年には20勝13敗の防御率2.18を記録。翌1970年には23勝7敗、防御率3.12で自身2度目のサイヤング賞を受賞した。1971年8月19日のパイレーツ戦ではノーヒッターを達成するなど、1975年までのキャリアの中で積み上げた白星は251個を数える。

多くのファンを魅了してきたギブソンも勝負に徹する性格であるが故に、不必要に他チームの選手とも仲良くなるのを拒んだ。しかし、ピッチングに徹するプロ中のプロしての足跡は確実にメジャーリーグに残した。1981年には殿堂入りを果たしている。

■2003.1.25(現地1.24)
●FAクルーズ、オリオールズと契約まとまらず!残すはデビルレイズ!
ホゼ・クルーズ
FAとなっているホゼ・クルーズはオリオールズとの間で交渉を進めていたが、金額面で折り合いがつかず契約はまとまらなかった。現時点でクルーズを獲得の意志があるのはデビルレイズである。すでにデビルレイズは1年契約でのオファーをだしているが、クルーズサイドは2年間で600万ドルから700万ドルの提示を求めているという。デビルレイズの新監督になったルー・ピネラとクルーズはかつて、マリナーズで一緒だったことことがある。ちなみに2002年のクルーズは、打率.245、18HR、70打点に終わったが、2001年は打率.274、34HR、88打点を記録している。


■2003.1.24(現地1.23)
●外野コンバートのビジオ、契約延長へ向けて話し合いへ!
クレイグ・ビジオ
FAにより加入したジェフ・ケントの影響で、セカンドから外野へのコンバートが決まったクレイグ・ビジオは、アストロズと契約延長に向けての話し合いを始めた。キャリアの全てをアストロズで過ごし、出場試合、通算安打数、通算得点数で球団記録を持っているビジオは、2003年シーズンが4年契約の最終年である。ビジオとジェフ・バグウェルが共にアストロズでキャリアを全うすることが球団の願いであり、今後の動向に注目が集める。

●かつてのオールスター左腕エイブリー、タイガースとマイナー契約!
Detroit TIGERS
かつてオールスターにも出場経験のあるスティーブ・エイバリーが再びメジャーリーグを目指し、タイガースとマイナー契約を結んだ。1993年にはブレーブスの一員としてシーズン18勝をマークし、ワールドシリーズでも登板経験がある。その後、レッドソックス、レッズを経て、1999年を最後にメジャーのマウンドから遠ざかっていた。。これまでの通算記録は94勝83敗、防御率4.17という数字を残している。


■2003.1.23(現地1.22)
●注目のI・ロドリゲス、マーリンズと1年間1000万ドルで契約合意!
イバン・ロドリゲス
残されたFAの大物選手として、その動向が注目されていたイバン・ロドリゲスだが、ついにマーリンズと1年契約の1000万ドルで合意に至った。1999年にはMVPを獲得し、10度のオールスター出場と輝かしい実績をもつロドリゲスも、ここ2年は怪我に泣いてきた。

古巣のレンジャーズは早々にエイナー・ディアズを獲得し、ロドリゲスとの再契約を断念しており、他球団への移籍がほぼ確実とされていた。31歳のロドリゲスの通算記録は、1479試合の出場で、打率.303、215HR、829打点である。若くて有望な投手が多いチームの中で、ロドリゲスが怪我なくフルシーズン戦えるとしたら、大きな戦力となるであろう。

●手術明けのリーバー、先発投手飽和状態のヤンキースと2年契約!
ジョン・リーバー
肘の手術を行い、2003年に復活を懸けるジョン・リーバーがヤンキースと2年間350万ドルで契約を交わした。リーバーは2001年に20勝6敗をマークし、オールスターにも選出されているだけの投手だが、手術のために2002年8月を最後にマウンドに上がっていない。

しかし、ヤンキースとしてはすでに7人の先発投手を抱えており、リーバーの処遇には注目が集まる。今季限りの引退が噂されるロジャー・クレメンス、今季後にFAとなるアンディ・ペティットスターリング・ヒッチコック、高齢のデビッド・ウェルズ、その他にはマイク・ムシーナジェフ・ウィーバー、キューバから亡命したホゼ・コントレラスという先発陣の中にリーバーはどう関わっていくのか。

●レッドソックス、オーティスと1年間125万ドルで契約!
Boston RED SOX
レッドソックスはツインズからFAとなっていたデビッド・オーティスと1年間125万ドルで契約を交わした。同じ左打ちのファーストを守る選手としてジェレミー・ジオンビーも獲得しているが、オーティスをスタメンとして使う予定とみられる。これによりブライアン・ドーバックトニー・クラークらは放出される可能性が高まったといえる。ツインズではダグ・ミントケイビッチの台頭で指名打者に甘んじていたが、ボストンの地でファーストとして大きな期待がかけられている。レッドソックスはシーズン開幕に向けて、右打ちの野手をまだ捜しているという。

●ドジャース、売却に破格の6億5000万ドルのオファーが提示された!
Los Angeles DODGERS
売却がほぼ確実視され、その売却先を探しているドジャースだが、ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンのデビッド・チェケッツ前会長が名乗りを挙げた。本来、ドジャースサイドが売却額として4億5000万ドル以上を考えていたが、チェケッツサイドはさらに高額の6億5000万ドルのオファーを出している。さらにチェケッツは球団の他にケーブルテレビのフォックススポーツ・ネット2の買収も求めている。ちなみにチェケッツはNBAのニューヨーク・ニックス、NHLのニューヨーク・レンジャーズの経営を務めていたこともある。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.005
テッド・ウイリアムス★テッド・ウイリアムス★ <1939年〜1960年>

「史上最高の打者」、「最後の4割打者」、「打撃の神様」など数多くの代名詞でその偉大さが語られるテッド・ウイリアムス。細い体から繰り出される華麗なスイングで、打率4割を1回、三冠王を2回も受賞するなど数々の記録を打ち立てる一方で、歯に衣着せぬ発言で物議をかもしだし、マスコミとは度々衝突した。ファンの声援に手を振ることはなく、プレーのみでしか表現しないウイリアムスの姿勢には「神様は返事を書かない」と評された。

最後の4割打者であるテッド・ウイリアムス。1918年、カリフォルニア州の港町サンディエゴで生まれた。大不況の波に飲み込まれ、家に戻ってこなくなった父親と宗教的活動にのめり込む母親の間に生まれたこともあり、両親の愛情を目一杯に受けたわけではないウイリアムスは、徐々に野球に情熱を傾けていく。1936年、地元のマイナーチーム、サンディエゴ・パドレスと契約したが、背は高いが体は細く、周りからは弱々しく見られていたのは事実である。

ウイリアムスの夢は、街を歩いているときに「あれがウイリアムスだ。史上最高の打者だ。」と言われることである。史上最高、史上最高と念仏のように唱え、ひらすら素振りを繰り返す日々だった。1938年、レッドソックスと契約を結ぶが、傘下のミネアポリス・ミラーズへの降格を言い渡される。しかし、そこでロジャース・ホーンスビーの指導を受ける幸運に恵まれたウイリアムス。そしてこの年、マイナーではありながら打率.366、43HR、142打点で堂々と三冠王に輝いた。

1939年からレッドソックスへ昇格。発言の生意気さからチームメイトの反発を買うこともあったが、実力で周囲を納得させた。メジャー1年目から打率.327、31HR、145打点という桁違いの数字を残し、打点王のタイトルを獲得。ウイリアムスは確実に史上最高の打者への階段を昇り始めた。飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し続けるウイリアムスだったが、迎えた1941年シーズンは開幕と同時に足首を骨折するアクシデントに見舞われた。

この骨折によりスイングは出来るが走ることは出来ず、4月から5月にかけては代打専門として過ごす。5月末頃からスタメンに戻ったウイリアムスは、怪我からの復帰を感じさせない打撃で打率を一気に上げていく。また、この年はオールスターゲームで、ウイリアムスの憧れだったジミー・フォックスジョー・ディマジオと共に戦い、ウイリアムス自身のサヨナラHRで試合を決める。また、ディマジオもメジャー記録である56試合連続ヒットを記録するなど、メジャーリーグ全体にとっても特別な年であった。そして、ウイリアムスもシーズン後半へいくに連れ、打率4割に向けての激しい戦いが続くことになる。

シーズン最後のダブルヘッダーを残して、打率は.39955と四捨五入してかろうじて4割に届くところだった。周囲からは試合欠場を勧められるも、ウイリアムス自身が「そんな記録は意味がない」と切り捨て、試合に出場。ダブルヘッダーで8打数6安打をマークし、打率を.406として堂々たる4割打者となった。ウイリアムスも当時はこの記録を大それたものとは思ってなかったが、この年以降、60年以上も4割打者は誕生していない。ちなみにこの年、大記録を達成したにも関わらず、マスコミ受けの悪いウイリアムスはMVPを逃した。

特に動体視力に関しては、凄まじい。1942年は、打率.356、36HR、137打点という記録を残し、三冠王に輝く。しかし、当時は戦時中ということもあり、戦場に駆り出されるのはメジャーリーガーも例外ではなかった。よって、約3年間は兵役につくことが決まり、20代前半という貴重な時期を戦争のために過ごすことになった。レッドソックスに戻ってきたのは1946年の事である。

戦線復帰後もブランクを感じさせず、打率.342、38HR、123打点と打撃各部門でリーグ2位に付け、初のMVPを受賞。オールスターゲームでも特大のHRを放つなど、存在感を充分にアピールしたウイリアムス。チームもリーグ優勝を果たし、初のワールドシリーズ出場の名誉を手にした。しかし、ウイリアムスはシリーズで打率.200に終わり、3勝4敗で世界一を逃してしまう。ウイリアムスがワールドシリーズの地を踏んだのはこの時が最初で最後で、大きな悔いを残すこととなってしまった。

1947年、打率.343、32HR、114打点で自身2度目の三冠王を獲得するが、MVPはディマジオに奪われる。1948年は打率.369で首位打者のタイトルを獲得するも、チームはワンゲームプレーオフで敗れ、ワールドシリーズへは進めない。1949年は、打率.343、43HR、159打点で本塁打王、打点王の2冠に輝く素晴らしい働きを見せている。

1950年のウイリアムスは開幕から好調だった。しかし、オールスターゲームで肘を骨折するアクシデントに見舞われる。ウイリアムスもこの年の調子は素晴らしく、キャリア最高の年になるという予感もあった。実際、怪我の状態はひどいもので骨が粉々に崩れているという状況だった。選手生活さえ危ぶまれたが、手術後に厳しいトレーニングで第一線に復帰。翌1951年には打率.343、30HR、126打点という数字を残している。

もし、戦争がなかったら・・・。1952年、朝鮮戦争に駆り出されることが決まり、再び野球から離れることとなった。野球選手としての素晴らしい動体視力を持っているために、爆撃機のパイロットとして活躍を見せる。しかし、パイロット不足ということから何度も爆撃を繰り返させるウイリアムスにとっては非常に厳しいものであった。肺炎を併発するという不運もあり、ウイリアムスを苦しめた。そして、1953年にメジャーで復帰を果たす。

その後、パワーという面では衰えが目立ったが、1957年(39歳)に打率.388、1958年(40歳)にも打率.328をマークし、2度の首位打者を獲得して意地を見せる。42歳の1960年に打率.301、29HR、72打点という成績で引退を発表。しかも、最終戦の現役最後の打席でHRを放ち、華々しく自らの引退道を飾ることとなった。

計3年半に及ぶ兵役経験がなかったりしたら、ウイリアムスはどれだけの数字を残していたのかがわからない。その偉大さは誰も認めるウイリアムスが、ファンの前に顔を出したのは1999年の夏のこと、かつての本拠地であったフェンウェイパークで行われたオールスターゲームである。現代のメジャーリーガーを代表するマーク・マグワイアなどとも会話を交わし、特殊な空間を作り上げた。そのウイリアムスも2002年の独立記念日の翌日に息を引き取ることになってしまった。

■2003.1.22(現地1.21)
●ミントケイビッチ、ツインズと1年間175万ドルで契約合意!
ダグ・ミントケイビッチ
ツインズのファーストを守るダグ・ミントケイビッチは、1年間175万ドルで契約合意し、調停を避けた。2002年の年俸は28万5000ドルということから、大幅増額となる。ツインズとしては残すは、レフトを守るジャッキー・ジョーンズとの契約のみである。なお、ブルペン強化にホゼ・キャブレラの獲得も発表した。2002年のキャブレラはブリュワーズで50試合に登板し、6勝10敗の防御率6.79という数字を残している。

●メッツ、セットアッパーのストリックランドと調停避けて契約交わす!
スコット・ストリックランド
メッツはスコット・ストリックランドと1年間95万ドルで契約を交わし、調停を避けた。まだ26歳のストリックランドは、2002年シーズン開幕早々にエクスポズからメッツへ移籍し、6勝9敗の防御率3.59という成績を残している。2003年もクローザーのアーマンド・ベニテスにつなぐセットアッパーとして大きな期待がかかっており、ベニテスが不調の場合はクローザーを代行することもあるだろう。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.004
ジャッキー・ロビンソン★ジャッキー・ロビンソン★ <1947年〜1956年>

様々な人種が活躍する現代のメジャーリーグだが、古くは人種差別が大きな幅を利かせていた。その壁を破ったのがジャッキー・ロビンソンである。「黒人初のメジャーリーガー」として道を切り開いたロビンソンの功績は、メジャーリーグだけに留まらず、その他の社会でも大きな影響を与えた。メジャーリーグとしてもロビンソンが付けていた背番号42を全球団の永久欠番にしてまで、その功績を称えている。

未だに多くの選手に影響を与え続けているロビンソン。1919年、ジョージア州で生まれたロビンソンは、生まれながらにして厳しい生活環境にあったが、生まれながらにスポーツの才能が宿っていたロビンソンはスポーツに打ち込んだ。その高い運動能力を持っていたロビンソンはUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)へ奨学金を得て入学し、野球、バスケットボール、フットボール、陸上のそれぞれで素晴らしい活躍を見せていた。

しかし、どれだけ才能に恵まれた選手でも、順風満帆とは行かなかった。それはロビンソンが黒人だからである。当時はメジャーリーグに関わらず、いかなる社会でも黒人の参加は公式には認められず、人種差別という大きな壁が立ちはだかっていた。メジャーリーグは白人のみのリーグであり、黒人は黒人のみのニグロリーグを形成し、そこでプロとして野球をやるしかなかった。

大学在学中に第二次世界大戦が始まったこともあり、軍隊に入隊したロビンソン。そこでニグロリーグの名門カンザスシティ・モナークスへの入団を進められ、戦争後にモナークスへ入団。プロの野球選手として新しい人生を歩むことを決めた。しかし、遠征先のホテルなどの出入りでも黒人であるということだけで不当な差別を受けるなど、苦しい日々が続いてた。しかし、水面下ではロビンソンを巡る、ある計画が進行していた。

その仕掛け人は、当時ニューヨークのブルックリンに本拠を構えていたドジャースの会長ブランチ・リッキーであった。リッキーの目的はメジャーリーグに黒人選手を登用することであった。ニグロリーグの中にはとてつもない実力を持つ選手が多いが、黒人に対しての反発が大きいご時世を考えると、慎重に動かなければならない問題である。特に1番最初の選手で失敗すると、後々にまで影響を及ぼしてしまうため、より慎重に動かなければならない。そして、その候補としてロビンソンがリストアップされる。

「ロビンソン、これは実験なんだよ」と言ったリッキー。リッキーとロビンソンが初めて会ったのは1945年のことで、「どれだけひどい仕打ちを受けようとも報復しないだけの勇気を君は持っているか」とリッキーは問いた。ロビンソン自身もかなり悩んだが、リッキーの真意を理解し、これを受け入れた。このロビンソンの決断が後々のメジャーリーグ、そして他のスポーツにおいても社会に大きな影響を及ぼしていく。

1946年、ロビンソンはドジャース参加のモントリオール・ロイヤルズへ入団。数々の差別を受けながらも、打率.349、155安打をマークし、チームの優勝に大きく貢献。そして翌1947年、ついにメジャーリーグのドジャースへ昇格した。初めてメジャーリーグに黒人選手が登場したということで反発は非常に大きく、それは対戦チームのそれより、一緒に戦うチームメイトがひどかった。しかし、リッキーが壁となったことで、多少は和らいだこともあった。

メジャー1年目から151試合に出場し、打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残したロビンソン。シーズンが進むにつれてチームメイトがロビンソンを認め、シーズン終了後には誰もが認めるドジャースの選手となった。そしてドジャースは見事にリーグ優勝を飾る。さらにこの年から最優秀新人を選ぶ新人王が制定されたばかりで、第1号としてロビンソンが受賞した。新人王が別名ジャッキー・ロビンソン賞と言われるのには、ロビンソンから始まったためである。

背番号42番はメジャーリーグ全球団で永久欠番。1949年には156試合の出場で、打率.342、16HR、124打点、37盗塁と好成績で、首位打者と盗塁王の2つのタイトルを獲得したロビンソン。この活躍によりチームは2年ぶりのリーグ優勝を飾り、MVPも受賞と、華々しい活躍を見せた。ロビンソンはこの年以降、6年連続で打率3割以上をマークする安定感でチームの戦力となった。そして、1955年にはロビンソン自身5度目のワールドシリーズにして初めてに世界一の味も味わった。

そして、1956年に同じニューヨークに本拠を構えるジャイアンツへの移籍話がまとまったしまう。この裏には1954年からドジャースの新監督となっていたウォルター・オルストンとの不仲が原因とも言われている。しかし、ロビンソンはこの移籍話を拒否し、1957年1月に自ら現役引退を発表。ロビンソンにとって、ドジャース以外のチームでのプレーは考えられないこともあった。

引退を発表した段階では、ロビンソンがメジャーデビューした頃とは違い、多くの黒人選手がメジャーリーグに舞台で活躍しており、ロビンソンの当初の目的は達成できたということも言える。引退後のロビンソンは、積極的に人種差別問題に取り組み、球場に足を運ぶことはあまりなかった。1962年にメジャー殿堂入りを果たしたロビンソンは、1972年に交通事故で不慮の死を遂げるが、そうであろうともロビンソンの評価は接して色褪せるもんではない。

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