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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2003.1.9〜1.21★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2003.1.21(現地1.20)
●ホワイトソックス、ブルペン強化にゴードンと1年契約!
トム・ゴードン
エクスポズからバートロ・コロンを獲得したホワイトソックスは、ブルペン強化にトム・ゴードンと1年間140万ドルで契約を交わした。35歳になるゴードンは、2002年シーズン当初はカブスのクローザーが予定されていたが怪我で出遅れ、結局はシーズン途中にアストロズへ移籍。結果的に34試合の登板で1勝3敗0セーブの防御率3.38に終わっている。1998年には46セーブをマークしたゴードンもその後は肘痛に悩まされた。ホワイトソックスではクローザーのビリー・コッチにつなぐセットアッパーが予定されている。

●ハーマンソン、古巣カージナルスへ復帰!先発4,5番手を争う!
ダスティン・ハーマンソン
カージナルスはかつてのチームメイトだったダスティン・ハーマンソンと1年90万ドルで契約を交わした。2001年はカージナルスの一員として14勝13敗という成績を残したが、チームの財政的な理由からマイナーリーガーとの交換でレッドソックスへ移籍していた。カージナルスとしてもハーマンソンの復帰は非常に温かく迎えられそうだ。カージナルスの先発ローテーションはマット・モリスウッディ・ウイリアムスブレット・トムコが確定しているため、ハーマンソンは4番手、5番手の先発の座を争うことになる。

●レッドソックス、オーティスとニルソンと契約!ニルソンは1999年以来!
Boston RED SOX
チーム改革中のレッドソックスは、デビッド・オーティスデーブ・ニルソンの2人とマイナー契約を結んだ。オーティスはツインズの指名打者であり、オフに自由契約になったばかりで、一方のニルソンはオーストラリア出身の捕手であり、メジャーでのプレーとなると1999年のブリュワーズ以来となる。これによりレッドソックスは、ブライアン・ドーバックトニー・クラークに加え、獲得したばかりのジェレミー・ジオンビーというファーストを守れる選手の維持が難しくなりそうだ。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.003
ベーブ・ルース★ベーブ・ルース★ <1914年〜1935年>

多くの野球ファンに愛されたベーブ・ルースは、HRを量産する打撃スタイルでそれまでの野球観を大きく変えてしまった。ルースが打棒を発揮し始めた頃は、メジャーリーグ全体を震撼させた『ブラックソックス・スキャンダル』といわれる八百長事件があったばかり。まさにルースの存在は球界の救世主といってもいいものであり、その功績ははかりしれない。死後半世紀以上経っても、ルースの存在は決して霞むことなく、充分な光を放っているといえるだろう。

メジャーリーグが生んだ最大のスター、ベーブ・ルース。1985年2月6日、メリーランド州ボルチモアに生まれたルース(1984年2月7日生まれという説もあるが、正確にはわかっていない)。酒場を経営する父と病気がちな母親の間に生まれたルースだが、決して貧しい幼少時代を送ったわけではない。子供の頃から悪ガキぶりを発揮したルースは、セントメリー教護院に入れられ、ここで少年時代のほとんどを過ごすこととなる。

セントメリーでのルースは、マシアス修道士と出会い、本格的に野球を教わることとなる。本格的に守った最初のポジションは捕手であった。ルースは左利きということもあり、右利き用のミットを投げる方の左手にはめて、返球の際はミットをはずし、捕った左手で投げていたという。そのうち、投手やファーストや外野も守るようになり、さらに打撃の方では、打率にして5割近いものを残していた。

そして1913年、インターナショナルリーグのボルチモア・オリオールズと投手としてプロ契約。投手ルースの実力が認められるのに時間がかかることはなかった。1914年にはメジャーリーグの名門レッドソックスと正式契約。しかし、この年はそれほどの登板機会が与えられることなく、打席に向かうルースに代打が送られるなど、後年考えられないこともあったという。そして、シーズンの大半はマイナーに籍を置いていた。

1915年からメジャーに定着。投手として18勝もマークし、さらにメジャー初HRも放つなど、打撃の良い左投手という評価を手にした。そして、この年はチームも充実した戦力でシーズン101勝をマークし、ワールドシリーズ出場。ルースの初めてのワールドシリーズは登板機会すらなく、代打でわずか1打席に立ったのみ(結果はファーストゴロ)だったが、チームは4勝1敗で世界一となり、その歓喜の輪にルースも加わった。

1916年は23勝12敗の防御率1.75という成績を残し、チームも2年連続の地区優勝を果たす。ワールドシリーズでは第2戦に先発し、初回に1点を奪われた以降、延長14回まで投げぬき、最終的には勝利投手に輝いた。ちなみにこの試合から連続イニング無失点記録が作られる。そして、4勝1敗で2年連続の世界一に輝いた。以降、1917年は24勝をマークするが、チームの打撃力が低く優勝を逃し、必然的にルースの打撃力に注目が集まっていく。

ルースの存在感は未だに霞んでいない。1918年からのルースは投げない日はファーストを守るなど、投手兼用となっていった。シーズンが進むにつれて、徐々に外野を守ることが多くなるルース。若手投手の台頭もあり、いつの間にか野手となり、11HRで本塁打王のタイトルを獲得。チームが優勝してワールドシリーズへ進出すると、チームは意外にもルースを第1戦の先発に持ってくる奇策をとり、ルースも期待に応えて完封勝利をマーク。第4戦でも7回まで無失点に抑え、シリーズのメジャー記録となる29回2/3連続イニング無失点記録を樹立した。こうしてレッドソックスは4勝2敗で世界一となったわけだが、これがこの世紀に記録したレッドソックスの最後の世界一になるとは、当時の誰もが思わなかったことだろう。

1919年はレフトを守る機会が多かったルースは、打撃面で開幕直後はスランプに悩まされるが、徐々にHRを量産。結局、シーズン29HRという当時としてはとんでもない記録を作り、2年連続で本塁打王を獲得した。しかし、HRを量産しようともチームは地区6位に終わる。そして1920年1月に、当時としては破格の12万5千ドルでルースはヤンキースへ売られてしまった。この移籍により、ルースを獲得したヤンキースが黄金時代を築き始め、ルースを失ったレッドソックスが長い冬の時代に突入することになる。

ヤンキースに移籍したルースは、ほぼ完全にレフトを守り、マウンドに登ることはほとんどなくなっていく。おりしも『ブラックソックス・スキャンダル』にメジャーリーグが揺れていた1920年、ルースの打棒は一際目立ち、前年の29HRを遙かに越える54HRを記録。これにより、これまで野球に興味を持たない人まで球場に足を運ばせることとなった。まさに野球史において分岐点ともいえる期間である。この年は打率.376、54HR、137打点と桁違いの数字で、タイトル(本塁打王と打点王)を手にした。

1921年も打率.378、59HR、171打点と猛打を発揮。そしてヤンキースにとって史上初となるリーグ優勝をもたらした。ワールドシリーズでは同じニューヨークを本拠に構えるジャイアンツと戦い、怪我を抱えていたルースは思うような結果を出せず、チームも敗れたが、ルースの人気は高まる一方で、ヤンキースには余るほどのお金が集まっていたという。

1922年は怪我もあり、わずか35HRに終わり、ワールドシリーズでは再びジャイアンツの前に敗れたが、すでにヤンキースはニューヨークの中でジャイアンツを上回る人気を手にしていた。ちょうどジャイアンツの本拠地であるポログラウンズを間借りしていたが、観客動員でヤンキースが上回ると、早く出ていくように催促されていた。そして1923年、ヤンキースタジアムが誕生。「ルースの建てた家」と言われるのは当然のことであった。

HR時代を幕開けたのはルースである。新本拠地に移った1923年、ルースは打率.393、41HR、131打点と桁違いの成績を残す。ワールドシリーズでは3年連続でジャイアンツとの対戦となったが、ついにヤンキースが4勝2敗で振り切り、球団史上初の世界一の座を手にした。ルースはこのシリーズで3HRを記録するなど、充分な貢献を果たしている。ヤンキース帝国の始まりには、必ずルースの名前があるといっても過言ではない。

1925年にルースがわずか98試合にしか出場できないとなるとチームは地区7位に低迷するほど、ルースの存在感は際立っていた。1926年は打率.372、47HR、146打点をマークし、翌1927年は打率.356、60HR、164打点と文句のつけようのない成績を残すルース。その後もルースは結果を残し続け、1934年までヤンキースに在籍した15年間で7度のリーグ優勝、4度の世界一を経験した。特に1932年のカブスとのワールドシリーズで予告HRを放ったことは、後生まで伝わっている。しかし、このシリーズがルースにとって、最後のワールドシリーズとなっている。

1930年に当時の大統領より多い年俸8万ドルを手にし、欲しいもののほとんどを手に入れたといってもいいルースの願いは監督になることだった。当時の球界ではプレーイングマネージャー(選手兼監督)が珍しくなかったが、ヤンキースではそれが叶えられず、1935年はブレーブスへ移籍。いずれは監督へ、という話もあったが叶えられることなく、この年限りで現役を終えることとなった。現役引退後の1937年にはドジャースのコーチになってまで、監督を目指したがこれも叶えられることはなかった。

22年間のメジャー生活で、通算714HRにシーズン60HRとHRに関する数々の記録を樹立したルース。数字だけでは上をいく選手は登場したが、ルース登場以前まではHRそのものの評価は高くなく、まさにルースこそが新しい野球の価値観を植え付けたと言ってもいいだろう。

お金にだらしなく、大食漢で大酒飲みと欠点だらけのルースではあったが、それゆえに多くの人々から愛されるルース。生き方そのものがアメリカンドリームの体現者として、また、スポーツの枠を越えたスターとして多くの人気を集めているのは今も昔も変わらない。晩年は喉頭ガンにおかされ、53歳の若さで他界した。

■2003.1.20(現地1.19)
●ヘルナンデス、ロッキーズ入りか!ポジションはサードかショート!
ホゼ・ヘルナンデス
ロッキーズはホゼ・ヘルナンデスとの契約をまとめようとしている。ヘルナンデスは2002年、ブリュワーズの一員として打率.288、24HR、73打点をマークし、オールスターにも出場を果たしたショートストップである。ロッキーズへの入団が決まれば、ショートかサードのいずれかを守る予定だという。その他にも、かつてロッキーズの創立メンバーの一人でもあったセットアッパーのスティーブ・リードの獲得に向けても動いているという。2002年のリードはメッツとパドレスの2球団でプレーし、64試合の登板で2勝5敗1セーブ、防御率2.01という数字を残している。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.002
ロベルト・クレメンテ★ロベルト・クレメンテ★ <1955年〜1972年>

「ライフルアーム」と呼ばれる強肩に加え、4度の首位打者を獲得する打撃で一時代を築いたロベルト・クレメンテ。そして、現在でも語り継がれているほどのボランティア精神に満ちた人格者のクレメンテには多くの崇拝者が存在する。現役生活中、飛行機事故により命を落としてしまったが、今でもクレメンテの精神はメジャーリーグに生きており、毎年、最高の人格者に「ロベルト・クレメンテ賞」を送るという形で、これから先も語り継がれていくであろう。

不慮の事故でこの世を去ったが、その功績は今でも燦然と輝いている。1934年、プエルトリコのサンフアン郊外で、7人兄弟の末っ子として生まれた生まれたクレメンテ。家計は非常に厳しいながらも両親の愛情を目一杯に受け、心優しい少年として成長していく。プエルトリコでも当時から野球は人気スポーツであり、クレメンテは自然に野球に触れていった。高校時代には野球以外にも陸上競技、やり投げ、走り高跳びで大活躍。得意なやり投げは母親譲りであり、これが後に「ライフルアーム」と恐れられる強肩の下地を作った。

ジャッキー・ロビンソンが1947年にメジャー昇格し、そのカラーラインが崩れたことが黒人のクレメンテの人生を大きく動かすことになる。1953年、まだブルックリンに本拠地を構えていたドジャースが、当時としては破格の契約金1万ドル、年俸5000ドルでクレメンテと契約を交わした。ドジャースにはロビンソンやロイ・キャンパネラなど有力な黒人選手が多く、クレメンテに関しても決して悪くないチームと言えた。

しかし、チーム事情からいきなり3Aに回され、いい活躍は見せるものの突然、試合からはずされるという納得できないことが続く。これはドジャースサイドが他チームにクレメンテの実力を悟られなくするための苦肉の策だった。というのも新人で4000ドル以上の契約金を手にした選手は、メジャーのロースター25人に入れておかなければ他チームからのウェーバー指名に応じなければならないという取り決めがあったためである。すでに黒人選手が多かったドジャースに、これ以上の黒人選手を加えることは球場に足を運ぶファンからの反発が大きかったということもあった。

結果的に3Aに置かれていたクレメンテだが、パイレーツのスカウトにその才能が見出され、パイレーツに奪われる形となった。それも元々はドジャースの若手投手に狙いを定めていたが、次第にクレメンテのプレーに魅了され、契約に動いたということが実状である。突然、パイレーツへ移籍したクレメンテだが、当時のパイレーツは最下位が指定席の弱小チームであり、クレメンテの才能が際立つのは当然ともいえた。

パイレーツのレギュラーに定着した1955年、クレメンテを目立たせたのは外野からの強肩であった。守備で思う存分、実力を見せ、これが打撃にも好影響を及ぼし、1956年にはリーグ3位となる打率.311をマークしている。その後は背中の怪我もあり、打率は3割を切ってしまうが、チーム力は徐々に向上。そして迎えた1960年、クレメンテは打率.314、16HR、94打点という好成績を残し、チームに33年ぶり、7度目のリーグ優勝をもたらした。

クレメンテの通算安打数は3000で止まったままである。この年のワールドシリーズでは、ミッキー・マントル、ロジャー・マリスを擁するヤンキースと対戦。下馬評ではヤンキースが圧倒的に有利だったが、パイレーツが大健闘を見せた。第7戦までもつれたこのシリーズは、最後にビル・マゼロスキーのサヨナラHRで決着を付けるという劇的な幕切れとなった。クレメンテも7戦全てにヒットを記録し、パイレーツの35年ぶり3度目の世界一に充分すぎる貢献を果たした。

1961年は、201安打を記録し、打率.351でキャリア初の首位打者のタイトルを手にした。この他にも23HR、89打点と文句のない成績で、メジャーリーガーとしての地位を揺るぎないものにしていく。その後も1964年(打率.339)、1965年(打率.329)、1967年(打率.357)と首位打者のタイトルを奪取。この間には怪我などに苦しめられることもあったが、着実に成績を残し続けた。1966年にはタイトルとは無縁だったが、シーズン27勝を挙げたサンディー・コーファックスを押しのけて、MVPを受賞している。

1970年、打率.352をマークして、チームの地区優勝に貢献(惜しくもリーグチャンピオンシップシリーズで敗退)。そして、1971年は再び打率.341をマークし、チームに2年連続の地区優勝をもたらした。リーグチャンピオンシップシリーズではジャイアンツを退け、11年ぶりにワールドシリーズへコマを進める。そして、この年のワールドシリーズがクレメンテのキャリアを、より輝かしいものにしたといって過言ではない。

相手のオリオールズは3年連続リーグ優勝を果たしている最中であり、20勝投手を4人も抱える最強チームだった。明らかにパイレーツ劣勢ではあり、第1戦、第2戦と落とすが第3戦からパイレーツの反撃が始まった。結局、第7戦までもつれたこのシリーズは、第7戦にクレメンテのソロHRが飛び出すなど2対1で勝利を収め、世界一の座を手にした。クレメンテは7試合で打率.414、2HRを記録し、文句無しのMVPに選出されている。

その生き方は、その後のメジャーリーガーにも大きな影響を与えている。38歳になったクレメンテは1972年のシーズンを迎えることになった。シーズン中に通算3000本安打はあっさり達成するかと思われたが足の故障で試合に出られない日々が続き、クレメンテを苦しめる。そして、シーズン最終戦となる9月30日の対メッツ戦で、3000本目の安打を達成。単なる通過点と思われたこの安打が、結果的にクレメンテの最後のヒットになるとは、周囲の誰もが考えてもいなかった。

1972年12月23日、ニカラグアに大地震が起こった。これにクレメンテはすぐに動きだし、救援物資を調達するなどボランティア活動に務めた。そして、自らもニカラグアへ向かうことを決めて、飛行機に乗ったのは12月31日の事。しかし、その飛行機は離陸後、すぐにカリブ海へ墜落。こうしてクレメンテは帰らぬ人となってしまった。クレメンテの死が、故郷プエルトリコに悲しみをもたらしたのはいうまでもない。

本来なら殿堂入りには引退後5年を待たねばならないが、メジャーリーグは特例としてクレメンテに殿堂資格を与え、1973年には殿堂入りが決まった。パイレーツもクレメンテの背番号21を永久欠番とし、その栄誉を大きく称えた。クレメンテの通算安打数は未だに3000本のままで止まっている。

■2003.1.19(現地1.18)
●フィリーズへ移籍したミルウッド、1年間990万ドルで契約合意!
ケビン・ミルウッド
ブレーブスからフィリーズへの移籍が決まったケビン・ミルウッドが、1年間990万ドルで契約に合意し、調停を避けた。2002年のミルウッドの年俸が410万ドルだったことから考えても倍増以上である。まだ28歳のミルウッドは通算成績で75勝46敗の防御率3.73という数字を残している。ポストシーズンでも3勝3敗1セーブと経験は豊富で、フィリーズの新エースとしての期待がかかる。

●ウイン、新天地マリナーズで調停避けて、1年間330万ドルで契約!
ランディ・ウイン
2002年シーズン後に監督のルー・ピネラと交換という形で、デビルレイズからマリナーズへ移ったランディ・ウインが、調停を避ける形でマリナーズと1年間330万ドルで契約を延長した。2002年のウインは、初めてオールスターにも出場し、打率.298、14HR、75打点を残し、2塁打を39本、3塁打を9本記録するなど、マリナーズでの活躍も期待されている。

◆MLB Legendary Player's Profiles Vol.001
レジー・ジャクソン★レジー・ジャクソン★ <1967年〜1987年>

ワールドシリーズで無類の勝負強さを見せつけ、「ミスターオクトーバー」の称号を手にしたレジー・ジャクソン。21年間のメジャーキャリアの中で本塁打王4回、打点王1回を獲得する猛打を見せ、通算2597三振が示すような豪快なスイングは多くのファンを魅了した。またトラブルメーカーとしても傲慢でエゴの強い発言とその行動は数多くの論議を引き起こすものの、絵になるプレイヤーだったことは間違いない。

「ミスターオクトーバー」として、多くのファンを魅了した。レジーは1946年、ペンシルバニア州ウインコートで生まれた。非常に貧しい少年時代を過ごすが、父親がニグロリーグ出身だったこともあり、ごく自然に野球に触れていく。野球同様にフットボールでも豊かな才能を見せたレジーは、名門アリゾナ州立大学へ奨学金を得て進学。そして1966年のドラフトでは、まだカンザスシティに本拠を構えていたアスレティックスから全米2番目となる1位指名を受けた。

マイナーでも着実に数字を残し、1967年には早くもメジャーデビューを果たす。この年のオフにはアスレティックスが本拠地をカンザスシティから西海岸のオークランドへ移転。これがレジー自身にも転機となり、1968年はレギュラーを獲得して、171三振を喫する一方で29HRをマーク。HRか三振かという打撃に脆さはあるものの、若さが彼への期待を高めさせていくことになる。

1969年のレジーは開幕からホームランを連発し、7月4日の独立記念日までに33本のHRを記録。当時のシーズンHR記録である61本(ロジャー・マリス)を抜くのではと期待を受ける。しかし、23歳の若さなのか、結局このシーズンは47HRに終わってしまった。プレッシャーに押しつぶされた形にはなってしまったが、レジー伝説の始まりを示すには十分だったと言える。

1971年のオールスターゲームでは、タイガースタジアム右中間スタンドの照明灯に当たる170メートル級のホームランを放ち、その存在を大きくアピール。この年のアスレティックスはヴァイダ・ブルーキャットフィッシュ・ハンターという2人の20勝投手を抱え、久々となる地区優勝を飾った。レジーも32HRを放ち、地区優勝に貢献(惜しくもリーグチャンピオンシップシリーズで敗退)。この頃からレジーには尊大な発言が目立つようになり、悪玉としてのイメージを強くする。

1972年、チームはリーグ優勝を飾るも、レジーは怪我でワールドシリーズには不出場(チームは世界一)。翌1973年は打率.293、32HR、117打点をマークし、初めてとなる打撃タイトル(本塁打王、打点王)とMVPを受賞。レジーにとって初めてとなるワールドシリーズでは29打数9安打の1HR、6打点を記録し、チームの2年連続世界一に貢献した。

その存在感はメジャーリーグの中でも異彩を放っていた。1974年も打率.289、29HR、93打点をマークし、チームの3年連続世界一に大きく貢献。しかし、この頃から、個性的で知られるオーナーのチャールズ・フィンリーとの衝突が目立つようになる。1975年は36HRで本塁打王に輝くが、チームは世界一を逃すと、オフになるとオリオールズへ放出。レジーは1976年の1年間、オリオールズで過ごした後、FA宣言。名門復活にかけるヤンキースから5年契約の提示を受け、ヤンキース入りを決めた。

ヤンキースのオーナーであるジョージ・スタインブレナーに監督のビリー・マーチンという個性的なヤンキースの面々の中に、更に個性的なレジーが入るという有様に、全米が注目を集めた。テレビ中継がされている試合中に、怠慢プレーをみせたレジーをマーチンが殴るというトラブルもあったが、この年は全てワールドシリーズに集約されるといっても過言ではない。1977年、ヤンキースとドジャースによるワールドシリーズ第6戦のことであった。

ドジャースの1点リードで迎えた4回表、レジーはバート・フートンの初球をライトスタンドにたたき込み、これが2ランHRとなってチームは逆転。続く5回表、今度はトライアス・ソーサの初球を1本目と同じところにぶち込む。そして8回表、3本目も初球だった。チャーリー・ハフの投げたボールはまたしてもスタンドに飛び込み、チームの世界一を決定づけた。

第6戦の3連発に加え、第4戦と第5戦にも1本ずつ打っているので、ワールドシリーズ記録となる5HRをマーク。しかも、ワールドシリーズにおける1試合3HRはベーブ・ルース以来の快挙でもある。このシリーズでは他にも、打率.450、10得点、25塁打を記録し、文句なしのMVP受賞。これよりこの年のワールドシリーズは「レジーシリーズ」とも呼ばれる。こうして、レジーは伝説になった。

通算2597三振は、ダントツのメジャー記録である。1977年、78年とヤンキースの2年連続世界一に貢献したレジー。その後、1981年までヤンキースでプレーしたが、プレー以外でも多くの話題を振り巻いた。徐々にスタインブレナーとの関係も悪化していき、終いには態度のでかいレジーに対し、スタインブレナーが「盛りの過ぎた選手のくせに、何様のつもりだ。」と言うと、レジーはすかさず、「盛りを過ぎたかどうか、他のチームに出してみろ!」と言う始末。この他にもマンハッタンの真ん中で人をはねたとき、被害者に近づき、「大丈夫、私はレジー・ジャクソン。この街で私を知らない者はいない。」とまで言ったという。

エンゼルスへ移籍した1982年、39HRをマークし、本塁打王を手にして意地を見せたレジー。エンゼルスで5年間プレーした後、1987年は古巣のアスレティックスへ移籍。この年限りで引退するレジーは開幕前に今季限りであることを発表。この年のアスレティックスの試合のほとんどがレジーの引退興行と化したのはいうまでもない。

メジャー通算成績は563HR、1702打点と文句の付けようのないものである。殿堂入りの資格を手にした1993年、資格1年目にしての殿堂入りを決めたレジー。殿堂入りの際にレジーがかぶっていたのはヤンキースの帽子である。そして、ヤンキースはレジーの付けていた背番号「44」を永久欠番とし、その名誉を称えた。

■2003.1.18(現地1.17)
●ツインズ、ハンターと4年間3200万ドルという大型契約!
トリ・ハンター
ツインズはチームの顔であるトリ・ハンターと4年間3200万ドルという大型契約を結んだ。まだ27歳と若いハンターは、その高い守備力でチームを救うと共に打撃でも、打率.289、29HR、94打点、23盗塁をマーク。MVP投票ではリーグ6位に名を連ねるほど、その実力が高く評価されている。2年連続地区優勝を目指して戦うツインズにおいても、ハンターには大きな期待がかかる。

●ブルージェイズ、エースのハラディと契約合意で調停を避ける!
ロイ・ハラディ
ブルージェイズは、チームのエース格に成長したロイ・ハラディと1年間382万5000ドルで契約を延長し、調停を避けた。2002年のハラディは19勝7敗の防御率2.93という素晴らしい成績を残し、オールスター出場という初の名誉も手にしており、2003年にも欠かすことに出来ない投手である。また、ブルペンのクリフ・ポリットとも1年間84万5000ドルで契約を交わしており、こちらも調停を避けた。

●レッズ、先発転向のグレイブズと3年契約で1725万ドル!
ダニー・グレイブズ
それまでのクローザーから先発に移ることになったダニー・グレイブズとレッズは、3年間1725万ドルで新たに契約を交わした。4年目となる2006年もオプションが含まれており、この契約の中にはノートレード条項も含まれているという。2002年シーズンの最後に4試合だけ先発し、1勝0敗、防御率1.89という成績を残しており、2003年にも期待がかかる。この他にもレッズはブルース・チェンとの契約をまとめるなど、新球場で迎える2003年シーズンに向けて戦力を整えている。


■2003.1.17(現地1.16)
●ロウが鼻を手術!しかし、スプリングトレーニングには間に合う!
デレク・ロウ
レッドソックスのデレク・ロウが、約2週間前に鼻の皮膚ガンを除去する手術を受けていたことが明らかになった。しかし、来月から始まるスプリングトレーイニングの参加に関しては全く問題がなく、完治までの時間を要することはないという。ずっとブルペンを守っていたロウが2002年から先発に回り、4月にはノーヒッターを達成。シーズンが終わってみれば、21勝8敗の防御率2.58と好成績を残し、サイヤング賞投票の3位に食い込む活躍を見せている。

●オリオールズ、ライテンバーグと1年間120万ドルで契約合意!
Baltimore ORIOLES
オリオールズはFAとなっていたケリー・ライテンバーグと1年間120万ドルで契約を交わした。これまでブレーブスで5シーズンを過ごしていたが、2003年の契約延長の提示がなく、FAとなっていたものだ。2002年は52試合に出場し、3勝4敗の防御率2.97という数字を残しているライテンバーグは、オリオールズの投手力アップに期待されている。ちなみにライテンバーグは、かつて野球道具と交換されたことで注目されたこともある。


■2003.1.16(現地1.15)
●3球団間トレード成立!注目のコロンはホワイトソックスへ!
オルランド・ヘルナンデスバートロ・コロン
オフの目玉の一つに挙がっていたエクスポズのバートロ・コロンの動向だが、3球団間の移籍がまとまり、ホワイトソックス入りが決まった。エクスポズはコロンとマイナーリーガーのホルヘ・ヌネス内野手をホワイトソックスへ送り、ホワイトソックスはロッキー・ビドル投手とジェフ・リーファー外野手をエクスポズへ、アントニオ・オスナ投手をヤンキースへそれぞれ送り、ヤンキースはオルランド・ヘルナンデスをエクスポズへ送るという形である。

先発投手が飽和状態だったヤンキースにとっては、ヘルナンデスを放出した代わりにマイク・スタントンラミロ・メンドーサの流出によるブルペン陣をオスナで埋めようというものである。また、ホワイトソックスにとっても、クローザーのビリー・コッチ獲得に続き20勝投手のコロンの獲得と、2003年シーズンへ向けての戦力は整ったと言える。

●エンゼルス、ウォッシュバーンとスピージオと契約延長で合意!
スコット・スピージオジャロッド・ウォッシュバーン
エンゼルスの世界一に貢献した2選手が調停前に契約延長で合意に至った。18勝6敗の防御率3.15というエースのジャロッド・ウォッシュバーンは1年間の387万5000ドルで合意し、ポストシーズンでの得点圏打率が.688と勝負強さが目立ったスコット・スピージオは1年間425万ドルでの合意である。2年連続世界一へ向けて、ほとんど同じ顔ぶれで2003年シーズンを迎えることになり、エンゼルスの新しい挑戦が始まることになる。

●ウッド、1年619万ドルで契約更新!2年後のFAに向けて・・・!
ケリー・ウッド
カブスは若きエースのケリー・ウッドと調停を避けて1年間619万ドルで契約合意に至った。2004年シーズン後にFAとなるウッドとは長期契約を結ぶべく動いているが、それに関しての話し合いは続いていくそうである。メジャーキャリア4年間で通算45勝30敗の防御率3.75という成績を残しているウッドだが、被打率.211に9イニング平均で10.4個という奪三振率も注目である。投球回数が200イニングを越えたのは2002年シーズンが初めてであり、フルシーズンでの活躍が期待されるウッドである。

●2004年のMLB開幕戦は、日本にヤンキースがやってくる!?
New York YANKEES
2003年のメジャーリーグは日本で開幕戦(マリナーズ対アスレティックス)を迎えるが、早くも2004年はヤンキースが日本で開幕戦を行うことになるかもしれない。ヤンキースにとって、松井秀喜という日本のスーパースターを獲得したばかりで、日本という市場に大きな魅力を感じているのも事実である。果たして2年連続で、日本でのメジャーリーグ開幕戦が行われることになるのだろうか。


■2003.1.15(現地1.14)
●ヤンキース、日本からのスラッガー松井秀喜を盛大に紹介!
ヤンキース入りを盛大に発表した松井秀喜。
注目の松井秀喜がヤンキースから盛大な記者会見で紹介された。ジョー・トーレ監督にロジャー・クレメンスという蒼々たるメンバーと共にメディアの前に登場。まだ英語は公に話せるとは言えないため、日本語と英語が飛び交う記者会見となった。質疑応答ではいきなり日米野球の成績について問われたが、松井の謙虚な受け答えは非常に好感を持たれたという。まだ28歳の松井は、現時点ではヤンキースのレフトを守るであろうとされている。

松井は日本での10年間での通算成績は、1268試合に出場し、打率.304、332HR、889打点というもので、3度のMVP獲得と輝きに満ちている。松井の「ゴジラ伝説」は、新たにメジャーリーグに舞台を移すことになった。ゴジラ級の衝撃をニューヨークのみならず、メジャーリーグ全体に与えることが出来るだろうか。今後の松井からは目が離せない。

●リッチー、ブリュワーズと1年契約を交わし、再起をかける!
トッド・リッチー
チーム再建に動いているブリュワーズは、ホワイトソックスからFAとなっていたトッド・リッチーと1年間75万ドルで契約を交わした。2002年のリッチーは、夏場に右肩を痛めてしまい、そのままシーズンを終えた。結果的に5勝15敗の防御率6.06という成績に終わり、オフには球団からオファーがなく、そのままFAとなった。かつてはパイレーツに在籍していた1999年にシーズン15勝をマークしており、このままで終わってしまう投手ではない。

●24歳アーマス、1年間210万ドルで契約合意へ!
トニー・アーマス
エクスポズはトニー・アーマスと1年間210万ドルで合意し、調停を避けた。24歳のアーマスは2002年、29試合に先発し、12勝12敗の防御率4.44という成績を残し、チームの勝ち頭である大家友和に次ぐ白星(13勝)を重ねた。かつてはペドロ・マルチネスの交換相手としても指名されたアーマスだけに、今後も期待は大きい。エクスポズでまだ契約に合意していないのは、ジョイ・エイチェンハビア・バスケスマイケル・バレットオーランド・キャブレラの4人のみである。

●エンゼルス、世界一の立て役者ケネディと1年の契約更新へ!
アダム・ケネディ
エンゼルスの球団創立初の世界一に貢献したアダム・ケネディが1年間227万ドルで契約を更新した。ケネディはツインズとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦で、ポストシーズン史上6人目となる1試合3HRを放ち、このシリーズのMVPにも輝いている。ケネディは2000年シーズン前にジム・エドモンズとの交換でエンゼルス入りした選手で、その年の新人王投票では6位につけている。


■2003.1.14(現地1.13)
●マッティングリーとリプケンの共同出資でマイナー球団買収へ!
ドン・マッティングリー
かつての名選手であるドン・マッティングリーカル・リプケンの2人が共にお金を出し合い、ドジャース傘下のマイナーチームを買収する方向になりそうだ。買収する球団は1Aのウェイブズであり、マッティングリーの故郷である南ジョージアへの移転を考えているという。リプケンはすでに球団を買収し、自らの名前を冠にした球場も作ったばかりである。引退した選手のマイナー球団買収という動きは今後も続きそうである。

●バークマンをレフトへコンバート!ビジオはセカンドからセンターへ!
ランス・バークマン
オフにジェフ・ケントをFAで獲得したアストロズは、それまでセカンドを守っていたクレイグ・ビジオをセンターに移すため、センターを守る若き主砲のランス・バークマンをレフトへ回すことになりそうだ。すでにバークマンもこのコンバートに関して準備を始めており、来るべき2003年シーズンに備えている。捕手から始まったビジオのメジャーキャリアだが、セカンドを経てセンターへ移ることになり、この成否はアストロズの2003年を大きく占うことになりそうだ。


■2003.1.13(現地1.12)
●レッズ、第4の先発投手としてウイルソンの獲得を発表!
ポール・ウイルソン
2003年に新球場開場を控えるレッズは、新しい先発投手としてポール・ウイルソンを獲得した。2002年のウイルソンはデビルレイズで投げ、6勝12敗の防御率4.83という成績に終わっていたが、投球回数はキャリアハイの193回2/3を記録しており、先発30試合のうちの23試合は6イニング以上投げている。レッズとしてはライアン・デンプスタージミー・ヘインズダニー・グレイブズに次ぐ第4の先発投手となる予定である。


■2003.1.12(現地1.11)
●マーリンズ、2対3のトレードでタイガースからレッドマンを獲得!
マーク・レッドマン
マーリンズは先発陣強化にタイガースから左腕マーク・レッドマンを獲得した。レッドマンを巡っては、昨年の11月から両チームの間で話し合いが進んでおり、マイナーリーガーを含めた2対3の交換がまとまった。2002年のレッドマンは30試合に先発し、8勝15敗の防御率4.21という成績に終わっているが、3完投を含み投球回数が200イニングを越えるタフさを持っている。マーリンズはAJ・バーネットジョシュ・ベケットブラッド・ペニーという若い右腕投手がおり、これに続く先発として期待がかかっている。


■2003.1.11(現地1.10)
●オールスター改革に動き!ワールドシリーズの本拠地権かける!?
Major League Baseball
2002年のオールスターゲームは選手が足りなくなったということから、異例の引き分け決着に終わってしまったが、そのオールスターゲームに改革のメスが入るかもしれない。リーグ同士の戦いを真剣勝負とするため、勝ったチームのリーグがその年のワールドシリーズ第1,2,6,7戦の本拠地で戦う権利を持つというものであったりする。実際にディビジョンシリーズ、チャンピオンシップシリーズにおいても、対戦チームのレギュラーシーズンの成績で本拠地権が決まるということから、これをオールスターゲームに適用しようというものである。この他にも開催日を週末に移して、注目を集めやすくしようという考えもある。

●ヤンキース松井、本拠地ヤンキースタジアムに初見参!
松井秀喜
鳴り物入りで日本プロ野球界からヤンキース入りを決めた松井秀喜が、ヤンキースタジアムを訪れた。まだ28歳の松井は日本での通算記録が、打率.304、332HR、889打点と輝かしい記録を樹立しており、MVPは計3度も受賞している。初めて訪れたヤンキーススタジアムでは、すでに試し打ちも行い、ロッカールームにも松井の場所はすでに準備してあるという。

●新庄、古巣メッツと1年契約を交わす!レギュラー奪取なるか!?
新庄剛志
ジャイアンツでワールドシリーズを経験後、移籍に向けて動いていた新庄剛志が古巣のメッツと1年契約を交わした。1年間の60万ドルというもので、レギュラーも補償されているわけではない。かつてメッツに在籍していた2001年は、123試合に出場し打率.268をマークしたが、ジャイアンツへ移った2002年はトップバッターとして期待がかかるも、それに応えられず、118試合の出場で、打率.238に終わっている。


■2003.1.10(現地1.9)
●デセンス、ダイヤモンドバックスと2年間730万ドルで契約合意!
エルマー・デセンス
ダイヤモンドバックスは、エルビエル・デュラゾをアスレティックスへ放出する代わりに、レッズから獲得したエルマー・デセンスとの契約をまとめた。この移籍は先の3球団にブルージェイズを加えた計4球団による移籍劇によるものである。契約内容は2年契約の730万ドルであり、3年目の2005年は球団のオプションとなっている。ランディ・ジョンソンカート・シリングに次ぐ第3の先発投手としての期待がかかる。

●24歳ファーカル、調停を避けてブレーブスと1年契約220万ドル!
ラファエル・ファーカル
ブレーブスのトップバッターを務め、さらにショートを守るラファエル・ファーカルはブレーブスとの間で1年契約の220万ドルで合意に至った。まだ24歳と若いファーカルは、2002年シーズンを打率.275、8HR、47打点、27盗塁という成績で終えており、メジャー2位となる21本のバントヒットを決めている。2000年には新人王の名誉を手にしているファーカルの活躍は、ブレーブスにとって必要不可欠である。


■2003.1.9(現地1.8)
●ツインズ、成長著しいハンターと長期契約を求めて動き出す!
2003年も好成績が期待されるハンター。
ツインズは、すでにチームの顔となるまでに成長したトリ・ハンターと長期契約を結ぶべく動き出した。まだFA権を獲得するまで3年が必要なハンターではあるが、すでに長期契約を結んでも充分な選手であることは誰もが認めている。2002年はオールスターゲームでバリー・ボンズのHRボールをつかみ取る好守を見せ、シーズン通しても打率.289、29HR、94打点、23盗塁と、近い将来の「30−30」クラブ入りも充分に可能と思える素晴らしい成績を残した。MVP投票ではリーグ6位に付け、2度目のゴールドグラブ賞も獲得するなど、成長著しい27歳外野手である。

すでに昨年暮れから長期契約に関して球団サイドとハンターサイドは話し合っており、その中で昨年は年俸240万ドルで合意に至っている。ツインズは現在、右のセットアッパーを探している最中であり、FAのマイク・フェターズ、もしくはリック・ホワイトに狙いを定めているという。その他にもジャッキー・ジョーンズダグ・ミントケイビッチとの調停に向けての話し合いも行わなければいけない。

●ホランズワース、マーリンズと1年契約!ミラーは日本球界入りへ!
トッド・ホランズワース
このオフに大きく動いた球団の一つであるマーリンズは、FAになっていたトッド・ホランズワースと1年間150万ドルで契約を交わした。ホランズワースはドジャースに在籍していた1996年に新人王に輝いており、2002年はロッキーズとレンジャーズでプレーし、計134試合の出場で、打率.284、16HR、67打点という数字を残している。結果的に同じ外野を守るケビン・ミラーを日本プロ野球のドラゴンズへ売り出す形となった。


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